69:咎の搦め手・3

「やっぱり、磐城先生。こんなところでなにをしているの」

 見覚えがあると思った。だがそれを認めたくなくて、英秋は咄嗟に低い声を絞り出した。

「……どちらさまでしょう、存じ上げませんが」

「うそよ、その声先生だわ。あたしよ、上杉。黎鳴高校の上杉ほのか」

 忘れていたほうが都合が良かったかもしれない。だがほのかは印象が強すぎた。いつも大人っぽく澄ました顔が今は驚きで年相応に見えていることにも気付いているというのに、覚えていないなどとウソを突き通すことはできなかった。それほど動揺してしまったのだ。

 一体何故、こんなところに生徒がいる。怒鳴るにも声が出ず、冷や汗が浮かぶ。

「――ちょっと来い」

「やだ痛いってば、手加減してよ」

 英秋はほのかの不平を聞き流し、腕をつかんで乱暴に入り口へ追いたてた。念の為に見上げた空は当然の如く真っ黒だったが、ネオン街のけばけばしい電飾のせいで、店内よりもほのかの顔はよく見えるほどだった。

「お前……なんで、こんな店にいる」

「それはこっちのセリフ、だってここホストクラブよ? もしかして、先生ここでバイトしてるの? あきれた! 授業中にはあんな無愛想なくせに、ホストですって」

 英秋は頭を抱えた。もの知らずな生徒であれば適当に言いくるめて帰すことも出来たかもしれないが、ほのかは当然でしょうという顔をして言い切った。まるで慣れ切っているような言い草だった。だが、他言できない弱みということではお互い様だと彼は言い返した。

「お前こそ、こんな時間に高校生が何しにきたんだ。バレたら退学だぞ」

「残念、あたしは男遊びにきたわけでも先生を囲いにきたわけでもないの。ここ、知り合いのおじ様が経営してるの。あ、先生にとってはオーナーね。あたしの会いたい女の人がお客でよく来るって言うから、時々見にくるのよ」

 それが英秋も時々相手をする女優やモデルであること、そして「知り合いのおじ様」がほのかの資金源・パトロンの一人であることも彼女と二つ目の契約を交わしたあとに明かされるのだが、窮地に追いこまれたこの時の英秋にそれを考える余裕はなかった。

「ねえ、先生、これバレたら免許もらえないわよね?」

 微笑むほのかを、この時英秋は初めて見た。こんなシチュエーションでなければ口笛の一つでも吹きたくなるような可憐な微笑だったが、彼にとっては脅威でしかなかった。急にほのかが生き生きし始めたように見えるのは気のせいであってほしいと心から願った。

「あは、顔が真っ青。そんなものどうでもいいって言われるかと思ったのに、意外」

 余計に墓穴を掘ってしまったらしいことに、言われてようやく気がつく。何故そう言えなかったのかと彼は内心舌を打った。どうでもいいとかねてから思っていたはずだった――教員免許など。

 放浪続きの人生、それでもとにかくすべてを振り切るために上京した。随分と荒れた過去のことも、忘れたい思い出のことも。だが、自分が選んだのはよりにもよって教育学部。このアンチノミーを考えないようただ漠然と進んできたはずなのに、失いそうになると強烈な執着を感じてしまう、そんな自分はあまりにも愚かに思えた。

「あたしに黙っててほしいなら、ね、一つだけお願いしてもいい? 簡単なことよ」

 彼女の持ち出した一つ目の契約はこうだった。

「実習終わったら、あたしの英語の家庭教師やってくれない?」


 正直なんだそんなことかと思った。不承不承を装いながらも英秋は即刻了承し、ほのかはそれで満足したのか、学校に彼の副職を告げることはなかった。

 驚くべきことに、ほのかは高校生の分際でマンションを借りて一人で暮らしていた。ワンルームだがかなり広めの部屋で、自分の下宿アパートよりも格段に綺麗なその部屋を初めて見たとき、彼は呆れて言葉をなくしたものだった。たかが一介の高校生がどうやってこんな部屋に住めるのか不審に思いはしたが、それ以上の興味もなく彼はただ勉強を教えることに重点を置いた。

 ほのかは予想以上に真剣だった。数学や歴史の成績は大して良くないのだが、国語や英語といった実用系の科目には驚異的な熱意をみせた。

「あたし、将来海外で仕事をするの。世界を股にかけるなら、英語ができなくちゃお話にならないのよね。そのためにはまず、外国語が専攻できる大学に入らなきゃ」

 そう言う彼女が選んだのは純泉堂だった。都内トップレベルの高校ほどではないが、それなりに伝統も権威もある大学で、在学中の活動や留学を単位互換しやすいというのがその理由だった。

 そして彼女は推薦でいともたやすくその枠を勝ち取った。

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