56:恋の理想と現実・1
「落ちついた?」
今時の女子高生の部屋にしては珍しく小ぢんまりとした和室。時代を感じる茶色い畳の上に座り込んで鼻をぐすぐす鳴らしていた花乃は顔を上げ、引き戸を開けて入ってきた影を見上げた。
太い毛糸で編んだセーターにスキニーをあわせた普段着は、少女の細身の体を普段以上に際立たせている。制服のスカートよりも、何故かこの格好の方が女らしく見えた。
「千歌ちゃん……ごめんね、いきなり」
「別にいいけどさ。あたしがいて良かった、うちの母親が見たらビックリするわ」
千歌はお盆の上に載せた温かな日本茶と救急箱を花乃の前に置いて座り込んだ。手際良く取り出したガーゼに消毒液を吹きつけ、黙って俯いている花乃の頬にぴたりと当てる。
「いたい!」
「我慢する、男の子でしょ」
「お、おんなのこだもん……」
涙目で見上げた千歌は、いつもの凛々しい笑みを浮かべていた。その表情で幾分救われた気になり、花乃は奥歯を噛んで手当ての痛みをこらえながら考えた。
憔悴して途方に暮れて、気がつくと千歌の家の前にいた。思考回路は全くと言っていいほど働こうとしなかったが、無意識下ではしっかりと佳乃や家族に心配をかけずに済む場所を探していたのかもしれない。 頬の傷、唇と瞼の全体的な腫れが引くまで家には帰れない。佳乃は一目散に家にUターンして花乃を待ち伏せるだろうし、そうでなくとも両親がいる――どれほど花乃がごまかそうが、この傷に気付かないような家族ではない。これほどありがたいことはないのに、この時ばかりは恨めしくさえ思った。
けれど、なぜ自分は千歌を訪れたのだろう。
親友だから? 家を知っているから?
違う、決してそれだけではない……その証拠を自分自身に見せつけるように目はせわしなく千歌をうかがい、優しく介抱されているにも関らず背筋は緊張で張り詰めてしまう。手当てを終えた千歌と目があった瞬間に飛び跳ねた心臓が、それを確定的なものにした。
「男の子なら引っ掻き傷は甲斐性のたまものとか言訳できるけど、あんたじゃ抱き上げた野良猫に手ひどく引っかかれたようにしか見えないわね。で、どうしたの、それ」
花乃はガーゼに覆われた左頬に手をあてて俯いた。言い訳を考える思考能力は戻っていなかったし、かと言って素直に何もかも話してしまうには抵抗があった。
そう、これは確かな抵抗だ。
「昨日はパーティだったんでしょ、その格好。あたしは急な団体予約で店の手伝いがあるから行けないってヨシに伝えておいたけど……花乃は知らなかった? なにかあったの?」
心配を瞳に宿して尋ねてくる親友が、遠く近く揺れる。
どうして何も言ってくれないのだろう――わたしはそんなにたよりない? 信じられない?
ちがう、言えるはずがないってわかっているくせに――だって
「千歌ちゃん、だれかに、祝ってほしいって思ったこと、ある?」
千歌は目を丸くして花乃を見返し、次いで吹き出した。
「なあにいきなり。ああ、そう言えば言ってなかったっけ、誕生日おめでとー!」
「ちがうの、そうじゃないの」
胸の中で何かが切れてしまった。花乃は激しく髪を振り乱し、真正面から千歌を見据えた。
「どうして誰にも言えない恋なんてするの? そんな恋、誰にも祝ってもらえないじゃない」
千歌の動きが止まった。まばたきさえ忘れた瞠目、感情の消えうせた視線に花乃は一瞬怯んだが、逸らそうとは思わなかった。今逃げてしまえば、きっともう真実に届かないと解っていた。
千歌と知りあったのは高2、初めて喋った印象は『佳乃ちゃんに似てる』だった。良く言えばマイペース、悪く言えば鈍臭い花乃を見限らずにいつもそばで支えてくれた。初恋未満をからかいもせず、花乃の語る理想の夢物語にいつでも微笑で答えてくれた唯一の友人。その恋。
知らないふりを突き通すべきだったのかもしれない。けれど、花乃は突如限界を迎えた。
信じてきたものが、すべて打ち砕かれたこの悲しみ、この怒り。
このやりきれない想いはきっと、目の前の親友のものと同じだ。
「誰から聞いたの」
ごく小さくため息をもらし、千歌はつぶやいた。「もううわさになってる?」
「ううん。きっとわたしだけ。初詣、一緒にいるのを見たの。見間違いかと思った……」
今このときの千歌の表情を目にするまでは、ずっとその可能性も捨てられなかった。けれど、千歌はそれを肯定した――それは花乃にとって思っていた以上のショックだった。
「それを聞きに来たの? たしかに高澄とは……付き合ってるっていうのかもしれないわね、お互い改めて付き合おうとか言い出したわけじゃないけど」
「翔子ちゃんは……知ってるの?」
千歌は一瞬眉根を引きつらせ、薄い唇の端を持ち上げた。「知ってるわ」
「……翔子ちゃんを傷付けるから、誰にもいわなかったの?」
「あんたはそんなことを尋問するために来たの?」
千歌はあからさまな嫌悪の眼差しを花乃に向けた。その瞳を見ると反射的に体が竦む。けれど、花乃は必死だった。なりふりに構っている場合ではなかった。
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