49:BIRTH・9

「………センセイ?」

 そろそろと近づいて、花乃はその顔を真上から覗きこんだ。

 組んだ腕に頭を乗せて目を閉じる英秋は、とても穏やかな顔をしていた。眠ってしまっているようだった。無心にその顔を見つめていた花乃は、英秋がシャツ1枚の薄着だと気付いた。肩口に膚の色が透けて見える。

(――わたしに、かけてくれたから?)

 ひどく怒らせたのに、それでも、そのやさしさは忘れない人。

 迷惑をかけた挙句に一人で眠ってしまったどうしようもない生徒を起こすこともせずに、わざわざ運んでベッドを与えて、自分は机に向かって眠ってしまうような人。

 いつだってそう、突き放すことばかり言うのに、約束は絶対に破らない人。

(わたしはセンセイに会いたかった。センセイは、会いに、きてくれたんだ……)

 胸が詰まる。

 英秋の寝顔が、揺らいで見えなくなっていく。

 苦しくて、息が出来なくなる。

 なんて、


 なんていとしい人



(ああ、そうかあ)

 受けとめた瞬間すべてが変わる。この世界は、なんてもろくて、なんて美しい世界。

 なんて激しくて、いとおしい感情。

(これが、そうなんだ)



 恋かもしれないと、

 はじめて、おもった。



 流れ落ちる涙のわけを自分でもさぐることができない。心の堰を切ってあふれ出してきたものは、からだのあちこちを駆け巡って、双眸からとめどなくこぼれて行く。

 この恋が何をもたらすのか花乃には想像も出来なかった。ただあるのは愛しいと思う気持ちだけ。それと、自分でも気付かないこの気持ちで無闇に振り回してしまった彼に対する申し訳なさ。

「迷惑ばかりかけて、ごめんね、センセイ」

 小さくささやいて、輪郭にかかる薄茶の髪に触れる。近くて遠かった彼がそこにいる。

 花乃は身をかがめて、その頬に口付けた。こぼれ落ちた涙が一粒、英秋のまぶたに跳ねた。

(好きになっちゃいけない人だって、わかってる。伝えたりできない……)

 目を閉じて、花乃は触れていた唇を離した。顔を見るとますます泣けてくる予感がしたので、このまま何も言わず、書き置きのみを残して家に帰ろうと思った。

 だがゆっくりと身を引こうとした所で、ふいに痛みがそれを阻んだ。まとめもしていなかった髪がどこかに引っかかったらしく、一房だけが頑として動かない。

 彼が起きてしまうと焦った花乃は、目を開いて絡まった個所を目で追った。

 タイピンでもボタンでもなく――それは、指。

 絡まったというよりは、作為的に、絡め取られているように見える――


 花乃は反射的に英秋の顔に目をやった。

 その瞳は、たしかに自分を捕らえていた。怖いほどまっすぐに。

 その事実だけで凍りついた花乃は、絡められた髪を強く引かれ、いとも簡単に傾いだ。英秋が軽く身を浮かすのがわかったけれど、それが何を意味するのか考える間もなかった。

「セ、ン、――」


 静かに頬に触れた時とは違う、目もくらむような熱さが、唇から伝わってくる。

 あまりに突然の事態に仰天した花乃は、高速瞬きを繰り返したあと慌てて離れようともがいた。必然的に英秋の肩で両手を支えてなんとか数センチの間隔を取り戻すことに成功したものの、大きく息を吸いこんだところで、また捕らえられる。ふぐ、とか何とか、間の抜けた声が漏れた。

 最初の触れるだけだったものとは違う。呼吸を求めていたはずの花乃の口が受け入れたのは、深く、噛み合わせるようなキスだった。

 最高潮に達した混乱の中で、ろくな思考も働かないまま、花乃はただ苦いと思った。やっぱりコーヒーは砂糖を入れた方が美味しいとか、鼻に上ってくる煙草のにおいは噎せそうだとか。

 ああでも、タバコって吸い続けていると、その人はちょっとだけ甘くなるのかも、とか。


 一頻り蹂躙されたあとふいに解放されて、花乃はとにかくここぞとばかりに息を吸った。ひゅうひゅうと音を立てて、震える喉で大きな深呼吸を繰り返す。けれど一度我に返ってしまえば、もう顔があげられなかった。

 今のは一体、なんだったのか――なぜ、突然、こんな。

 おぼつかないしぐさで濡れた唇に触れると、痺れの残滓のようなものが体中を走り抜けていった。驚きのあまりに止まっていた涙がまた眦に滲んでくる。

 花乃はくるりと踵を返し、混乱と闇のせいであちこちにぶつかりながらも廊下をバタバタと走って、暗い寝室に飛びこんだ。

「………」

 英秋は無表情のまま花乃の消えたドアの方を見ていた。そのまま、ゆっくりと椅子を回し、机に肘をつく。その手に力なく項垂れた額を預けて、彼は悄然と呟いた。

「――なにやってんだ、俺……」



 ただ、しずかに生まれるもの

 その名は、まだ知らずとも

 見事開花する想いの――BIRTH.

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