46:BIRTH・6

 繁華街近くのコインパーキングに車を止め、英秋は大きく息を吐き出した。夜だと言うのに鮮やかなほどに白い軌跡を残す呼吸を見て、余計に寒さが這い上がってくる。

 いるとするなら、ここしか考えられない。アーケードの端からしらみつぶしにあたるしかない。さすがにこの寒さでは外で待つのは不可能だろうと、英秋は前に入ったカフェから、宝石店の前を通り、交差するアーケードをほとんど駆け足で巡り歩いた。いつも賑やかなこの通りも、今夜の寒さではさすがに人足もまばらだった。その中にも花乃は見つからない。

 どこかほっとしたような気分で英秋は立ち止まった。

(帰ったに決まっている……こんな中待ってるほど馬鹿じゃないだろう、さすがに)

 不意にくしゃみが出そうになって、英秋は踵を返そうとし――ふと思い直したように、再び歩き出した。アーケードの中心地に待ち合わせのシンボルになっている木があったことを思い出したのだ。

 いるはずがない、いないでくれ、そればかりを願いながらたどりついた、そこは。

 静かだった。薄く雪を戴き、ぼんやりと街頭に照らされた大きな樅の木の下には、ただその木の影のみが濃く長く伸びているだけだった。

 英秋は目を閉じ、安堵とも絶望ともつかない、深い息を吐いた。


 そのとき。


「あれえ」


 なんとも言えない、間の抜けた、緊張感のかけらもない声。

「センセー?」

 広場わきにあるコンビニのドアから中途半端に体をのぞかせて立っている小さな影。真っ赤な頬を嬉しそうにほころばせて手を振ったあと、ぱたぱたと駆けて来る。

 手にもっているのは缶紅茶らしい。

 らしい、というのは、すでに英秋にはそれが何かを認識する余裕がなかったからでもある。

「センセイ、よかったあ、来てくれた」

 満面の笑顔で駆けよってきて、目の前で立ち止まり、自分を見上げてくる瞳を捕まえた瞬間。

 彼は、渾身の力を込めて喉も凍るような空気を吸いこんだ。


「ばかやろう!!!」


 すぐには二の句が継げず、肩で息をしたまま立ち尽くす彼の目の前で、小さな顔には見合わないような大きな瞳がぱちぱちと何度も瞬いた。口を開けたまま、瞼以外が凍りついている。

「お前ってやつは、いったい、どれだけ」

「ご、ごめんなさい」

 英秋が烈火の如く怒っていることにようやく気付いたのか、花乃は慌てて一歩あとずさった。

「ごめんですむか!」

「ごめんなさい! ごめんなさい! せ、センセの都合も考えなくて」

 肩を竦めて謝り続ける花乃を見て、英秋は急に怒りのやり場を失った。

 この数時間にどちらが被害をこうむったかといえば、それは間違いなく花乃の方だった。寒空の下で散々待たされた挙句に出会い頭でいきなり怒鳴られ、必死で謝り続ける少女を見ていると、無性に虚しくなってくる。

 腹立たしかったのは呼び出されたことでもなんでもなく――自分を信じて、こんな時間まで待ち続けたということ。もし来なかったらどうなっていたのかと思うと身の毛がよだった。

「なんなんだ……お前……」

 怯えてすっかり小さくなってしまった肩に手をかけて、英秋はぎょっとした。コートが凍りかけているような感触。慌てて引き寄せた頭の上には融け残った雪がまとわりついて、ふんわりと柔らかかった髪を満遍なく湿らせていた。

「あ、大丈夫です……寒くなったら、コンビニであったまってたし」

「そんな問題か! ――来い!」

 また怒られると思ったのか慌てて言い繕う花乃に一喝して、英秋はその手を掴んだ。案の定痺れるほど冷たかった。馬鹿だ、と思った。なんて馬鹿なガキ――

 いや、なんて馬鹿で、とんでもない女なんだと、諦めにも似た思いがよぎった。


 自分の上着をかぶせた花乃を車の助手席に放りこんでエアコンを全開にし、すっかり血の昇ってしまった自分の頭をしばらく車外で冷やしきったあと運転席に乗りこんだ英秋は、花乃の方を見ようともせずに無言で車を発進させた。花乃も何も言わず、ただ走る車と風の音だけが狭い車内を満たした。

 フロントガラスには、引切り無しに白い花びらのような雪が積もってゆく。ワイパーでそれを振り払いながら、英秋はようやく口を開いた。「とにかく、送るから家を言え」

 返答はなく、また静かな沈黙。

 赤信号でブレーキを踏み、訝しげに助手席を見ると、花乃は目を閉じていた。

「関口」

「………」

 眠っているのか、いないのか――花乃は窓に頭を凭せ掛けて、静かにそこにいた。

 その頬を、小さな涙がすべって、こぼれ落ちた。

 英秋は、じっとそれを見ていた。

 長い長い時間ともいえるような沈黙のなかで、確かに宿るもの。


 信号が蒼く光る。もう一度前を見据えて、英秋は深くアクセルを踏みこんだ。

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