44:BIRTH・4
ふいに舞い降りる、まるで羽のような白に花乃は顔を上げた。
(あ……)
見上げた空は灰白で、そこからふわりふわりと雲のかけらが降ってくる。
「雪だあ、どうりで寒いと思った……」
さしだした手のひらに舞い降りて、きらきらと煌く光。てのひらの上でも不思議となかなか融けない結晶を楽しんでいるうちに、どんよりと胸を覆っていた不安もとけていくようだった。
もう、随分待っている気がする。もしかして来てくれないのではないか――それが怖くて、14時を回った頃からは時計も見ることができなかった。
まだ空は明るいからそんなに時間はたっていないはずだ、もしかしたらまだ数分しかたっていないのかもしれない、気持ちの問題だと、そればかり考えていた。
自分が本当に寒いのかどうかもわからない。相変わらず雪にも負けない白さの息が舞い上がるのを見る限り、空気が凍るほどに冷たいのは確かなようだけれど――
バッグの中の携帯が震えていることに気付いて、花乃は慌ててそれを取り出した。
「は、はい」
『……乃ちゃん? 今……こに……るの』
忍の声に聞こえるけれど、どうも向こうの背後が喧しくてうまく聞き取ることができない。どうやらメンバーは自分以外全員揃っているようだ。「福原くん? 喫茶店にいるの?」
『うるさくてごめ……ちょっと佳乃……んが大暴……ナイショで拓也が帰っ……』
「え? もしかして神崎くんがいるの? うっわあすごい! 佳乃ちゃんが大騒ぎなんだね、うんわかるよ」
受話器の向こうでぎゃあぎゃあと一人喚き散らす声が佳乃だろう。拓也は滅多に声を荒げたりしないので花乃の耳にまでは届かなかったが、母親のものらしい嬉々とした声や、夕子の冷やかす声なども時々混じって聞こえてきている。
らちがあかないと判断したのか、忍は少し場所を変えたらしかった。
『ごめん、聞こえる? ところで花乃ちゃん今どこにいるの、もう随分時間が』
「あ――えっとね、もうちょっとだけ、かかるかも。うん大丈夫だから」
本当は口を開く度に舌を噛みそうになる状態だったが、何とか平然を装って明るく答えるようつとめた甲斐あって、忍は『寒くなるから日が暮れる前には来いよ』と言うのみに留めてくれた。
かすかに温みを帯びた電話を、両手に握り締める。
時間を聞くのはやっぱり怖い。けれど、待つことは、そんなに苦しいことじゃない。
絶対に来てくれる――センセイはいつだって、約束は守ってくれる人だから。
それだけを、信じる。
起き出してきたほのかにせがまれて車を出し、買物のついでに早めの夕食を終えてもといたマンションに帰って来たときには、すでに空には薄く藍が滲んでいた。
昼過ぎから降り出した雪は、勢いを増すでも削ぐでもなく静かに降り続いている。
「あーあ、髪もコートも濡れちゃったわ。駐車場から遠いと不便ね、引っ越そうかしら」
ぶつぶつと文句を言いながら大荷物を寝室に運び、その足で早々に風呂場に向かうほのかを横目で見送ってから、英秋はリビングのソファに深く沈みこんだ。天井を仰ぐ。赤を基調にコーディネートされた鮮やかな部屋は、時々とても目に痛い。
タバコを取りだそうと胸元に手をやって、彼は携帯がないことに気付いた。
(ああ、忘れて出ていたのか……)
寝室へ向かうと、案の定ベッドの上にぽつんと置き去りにされたそれがあった。かすかに着信ランプが光っている。
未読メッセージは彼の悪友ともいえる昔の同僚からのものだった。返事をするまでもないたわごとを一瞥したあと、それを消そうかどうするかぼんやりと考えながら一覧を表示したとき、不意にかすかな違和感がよぎった。「……?」
しばらく眺めて、やっとその原因に気付く。受信メッセージにつくスレッド番号、それが一つだけぽつりと抜けていた。最新のメッセージが外出中の15:55受信、その前のものは昨日の深夜、2:10に同じ悪友から届いたもの。その間の一通が消えている。
(そういえばほのかがダイレクトメールがどうとか言ってたな……それか)
暗い寝室のベッドに腰を下ろし、煙草を吸い損ねた手持ち無沙汰を紛らわすように、なにげにスマホをもてあそぶ。この手のツールは好きじゃない。届くメールも大抵が読み捨てになるものばかりだった。
だから、何度無視しても嬉しそうに送ってくるあのメッセージには辟易したものだ。
「……」
ふと面影を思い出すと、随分と哀しげな顔がよみがえった。
迷惑だと断言したけれど、もう少し違う言い方をすれば良かったかもしれないと思うことがある――いや、面影を思い出せばそればかりが胸につまされて、正直考えたくもない。
迷惑などではなかった。けれどそうでも言わないと通じない相手だった。何も知らない――自分に近づくことで負うリスクのことも、その心がどれほど幼く清らなものかも知らない娘に、これ以上深入りさせるわけにはいかないと咄嗟に思った。それは間違っていないと断言できる。
「なんで俺がへこまなきゃいけないんだ……」
ばかばかしい、と自嘲して画面に意識を戻した英秋は、なんとなく呼び出したページを閉じようとして目を見開いた。
アドレス帳、メモリ番号検索、五十音検索――すべてのデータなし。
眉根を寄せて、履歴を呼び出す。携帯を持つ手に、うっすらと汗が浮かびあがった。
受信、続いて送信、そのいずれも12月末からの数件がぽっかりとなくなっていた。
忘れるはずがない、ましてや消した覚えなどないものばかりが、すべて。
ストロボのような強い光の錯覚とともに、思い出した。あの時艶美に微笑んだ女の顔が、決して良くない直感を呼んだ。
「――ほのか……!」
【紫】の姿がかき消えた異変に彼がようやく気付いたとき、奇しくも時計の針はまっすぐに伸びて、18時を指そうとしていた。
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