35:教師と生徒のやりとり・1
聞きなれた車のエンジンの音が遠ざかる。英秋は新しい煙草に火を点けて、深くゆっくりと吸った。
――もう5年。
まともに季節を感じるようになったのはほのかと出会って以降だが、それでも時間の経過は自分の意識にはついてこない。なんと短くなんと長い5年。
このまま何も変わることなく時は過ぎて、我に返る頃には、老いて死を前にしている気がする。心が何かに蝕まれた状態のまま、虚構でできた皮ばかりが分厚くなっていく。完璧な自分の横に並ぶ完璧な女、伝統と偏差値に彩られた完璧な学校での完璧な教師……
“じゃあセンセイ、面倒な取り引きお願いしてもいいですか?”
(完璧な教師に、取引なんて言い出す生徒はいないよな……普通)
小さく笑って、英秋は煙草を口から離した。随分と昔にも同じ台詞を言った生徒がいた。けれど、その時とは明らかに異なる、まばゆいまでの明るさを含んだ声。
ほのかの言ったことが少しだけ解る気がした。
何も知りえない無知、なにものにも染まらない無垢。社会的には脆弱の代表として扱われるその二つを真っ先に切り捨てたのは自分。
けれど、彼の生徒として現れた少女はまさにその化身だった。
そしてその少女を時々恐ろしいと思う。はっきりとした理由は解らないけれど、自分と対極に位置する存在を目前にしていると、いつの間にか視線が絡め取られている。そしてそれに気付くと、途轍もなく腹立たしくなるのだ。
どうしてこんな存在があるのかと。
呆れと憎悪、渇望と嫉妬、言い表せないほど入り組んだ感情。
きっと少女はそんな感情など知りもしないのだろう。いつもばかみたいに笑っている。勘違いできつくあたった時はさすがに少し怯えていたけれど、泣きせず、まっすぐに問いかけてきた。――所詮、自分などには傷付けることすらできない存在なのかもしれない。
(……そういえば、昨日、あいつあんまり笑ってなかったな)
まさかあんなところで出会うとは思いもしなかったのだろう。自分ですら一瞬目を疑ったのだから。
(ま、あの様子じゃうまくやってるみたいだから、いいだろ)
英秋はベッドから立ち上がり、まだ半分以上残っている煙草を容赦なく灰皿に放りこんだ。そのとき、サイドテーブルのわきに置いてあった携帯が鳴った。ほのかが嫌味でも送ってきたのかと気だるげにそれを取り上げた英秋は、メッセージアプリを開くなり軽快に鳴り出した添付メロディに度肝を抜かれる羽目になった。『Joy to the world』――もろびとこぞりて。
やけに耳に聞き覚えのある古びたメロディから意識を離して、英秋は文に目を凝らした。
『 ♪♪ちょっと遅れたけど、メリー・クリスマス♪♪ 』
『先生、昨日はごちそうさまでした。いきなりあったのでビックリでした』
『きれいなホノカさんと素敵なクリスマス過ごしましたか?』
『ではでは、新学期にはヨロシクお願いします(^-^)♪』
「………せめて、名乗れよ……」
英秋はぐったりと机に項垂れ、しばらく途方にくれたようにその画面を眺めていたが、やがて思いついたように何度か指を動かした。数秒何事かを考え、そして最後に決定ボタン。
それを待ちかねていたように、画面上の文字が迅速に答える。
――『新規アドレス【紫】さん、登録しました』。
(メッセージ、送っちゃった……)
「メリークリスマス」、そのたった一言。きっと彼が聞いたらばかにするに違いないようなことなのに、一度気になってしまうともうどうしても言いたくて。うんうん唸りながらあたり障りのない文章をひねり出して、一晩中悩んだ挙句、25日の正午になるあたりを見計らって電波にのせた。
(センセイ怒って捨てちゃうかな?)
見えない相手の反応はさて置き、とりあえず目的を果せたことにほっとして花乃がスマホを充電器に戻したとき、思いがけず受信音が鳴った。慌てて見てみると、それは思いがけない彼からの即答だった。
『それが緊急の用事か』
花乃は思わず画面を見て吹き出し、ベッドに突っ伏して笑った。まさか返事でまで律儀に厭味を言ってくるなんて思わなかったし、その一文はあまりにも彼らしくて可笑しかった。そして、どこかほっとしたような気持ちも一緒に湧き上がる。勢いに任せて、花乃は再び入力画面と睨み合った。
そこから始まる教師と生徒の絶妙に微妙なやりとり。以下履歴。
12/25>
送信:『ごめんなさいどうしても言いたかったんです 13:21』
受信:『だからそういう無駄打ちはやめろと言ってる 15:02』
送信:『先生って、りちぎですよね 18:55』
12/31>
送信:『大晦日ですね! 紅白見てますか? どっちが勝つかな? 20:12』
受信:『お前の緊急は紅白か 22:00』
送信:『演歌に入ると眠くなります 22:07』
受信:『頼むからおとなしく寝てくれ 22:39』
送信:『だめです、まだです。あ、お蕎麦がきました♪ 23:00』
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