16:花乃の受難
異変を決定的に感じ取ったのは、新任に代わってから4回目になる英語の授業だった。
「はい、では次の訳を――関口」
花乃ははっとして顔を上げた。テキストを片手に開き、英秋はまっすぐに花乃を指していた。
「え……は、はい」
花乃は慌てふためきながら、先ほどまでうわの空で追っていた英語の羅列を改めて見なおし、当てられた部分を探し出した。確かここの訳まで終わっていたから、次の段落――と、指で追いついた部分を黙読して、さっと青ざめる。(……え、まさか)
このセンテンスの中でもっとも長く難解な構文が混じった、いわゆる要の部分。いくら花乃でも、文章の長さと区切りの少なさと段落の厚さくらいは見て取れる。もうそれだけで悄然とした。
今回は運悪く難しい場所に当たっただけのことだと思えるなら、それでよかった。けれど。
(もうやだ……)
そう思わずにはいられない理由がある。
授業の開始から3度、つまり1度の授業に必ず、決まって花乃は指名された。それだけならまだ偶然でも成り立つ、だが、それは決まって3度ともセンテンスの要となる段落だった。要するに難易度のずば抜けた部分を、毎回花乃が答えるハメになっているのだ。
おまけに決定的なのは、この時間。
弱りきった花乃が見上げた時計は、授業終了のわずか1分前で――
「……ごめんなさい、わかりません」
「またか? しかたないな」
英秋は一見優しそうに見える微笑を浮かべ、その笑顔で他の生徒の浅薄な疑惑――特定の一人の負担の大きさに対する同情や懸念――を吹き飛ばした後、腕時計を見て必ずこう言った。
「じゃあ、関口はこのセンテンスを明日の授業までに残り全文訳してくること。宿題だ」
朗らかに宣言した英秋の声は教室に響いたのに、花乃がもらした小さなため息は、大音量で鳴り響いた授業終了のベルにかき消されてどこにも届かなかった。
(わたし)
(もしかして)
「ターゲットにされてるわよね、あなた」
肩を落とした状態で教材をまとめている花乃のもとにやってきた栞は、花乃自身が恐ろしくて出せずにいた結論をいとも簡単にはじき出した。
花乃は呆然と栞を見返し、震える声で尋ねた。
「……湯浅さんにも、そう、見えるの? わたしの気のせいじゃないの?」
「他の皆は気づいていないようだけど、わたくしの目はごまかせなくてよ。明らかに先生、時間をはかってあなたを指名してるじゃない。ほほ、何か恨みでも買うようなことしたんじゃなくて?」
花乃はただ首を振ることしかできない。「知らない……。そんなこと、してないよ」
「じゃあよほどあなたがおちこぼれてるから、何とかして成績を上げてやろうっていう先生のおやさしい愛のムチじゃないの? どっちにしろ、あなたには勿体ないわ。わたくし、いつ当てられてもいいように予習は完璧なのに、あなたのせいで1度も当てられたことがありませんのよ」
怒りの混じった栞の言葉を聞き流しながら、花乃はまとめた教科書の表紙を茫然と見つめた。
(センセイは、わざとわたしを当ててる?)
(やさしい心、じゃないとおもう)
(だって、言ったもん)
『それなりの覚悟はしてもらうことになるけどな』
『それくらいは君も予想していただろう? 俺が担当になった時から』
(アレは聞き間違いなんかじゃなかったんだ……)
英秋の柔らかな微笑みが、今は思い出すのも辛かった。
彼の心だけは、どうやっても読めない。どれほど優しい顔で微笑まれても、その裏に隠された本音は見えない。頭の中ではおそらく全く違うことを考えながら、少しのほつれも見せない完璧な教師を演じるという花乃の理解の範疇を越えた能力を持つ人間。
(わたし、もしかして……センセイにきらわれてる?)
その理由に全く見当がつかないことが、余計に花乃を塞ぎ込ませる原因だった。わけのわからないこわさが付きまとって、泣きたくなる。
恋愛感情をもって人に好かれることに慣れていないのと同じように、明白な敵意をぶつけられることにも花乃は慣れていないのだった。少しでも花乃を貶めようとする相手がいれば、矢面に立つのはいつだって佳乃で(それも花乃の知らぬ間に相手を叩きのめしてしまうので、本人の知るに至る案件はごく僅かしかない)、佳乃がいたからこそ今の花乃の性格があるのかもしれない。だが今回は、受験で忙しい佳乃に頼るわけにはいかなかった。
この受難を乗りきるために、英語を教えてもらうことはあっても、決して妹に心配をかけさせるようなことは口にすまいと、花乃は強く心に決めていた。
それ以降も花乃はとんでもない確率で難問に当たり続けた。
あまりの頻度に他の生徒たちが首をかしげそうになるその直前には、うまい具合に花乃は指名されなかった。そして皆がそのことを忘れた頃になって再び連続で当たる、というその繰り返し。
それでも花乃は最初の決意を守りとおし、佳乃の力を借りつつピンチをしのぎながら誰にも弱音は吐かなかった。同時に英秋との接触も可能な限り避けて、英語の授業以外はなんとかして平安を保つことにも慣れて来ていた――
だが、決定的な悲劇は、花乃にとっては非常に苦労した期末テストのあとにやってきた。
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