修学旅行・6日目<京都の夜5>

 佳乃は突然自分の心臓が高鳴り出したのに気付き、とんでもなく狼狽した。それを気取られまいと慌てて震える手を後ろに回したが、発した声が震えたのであまり意味をなさなかったかもしれない。

 とにかく彼の言う言葉の本質には触れないように気をつけながら、佳乃は言い募った。

「利用したのね、花乃を。忍君がどうするのかを見るために、花乃にあんな風に近づいて。あの子は恋を知らないのよ? 花乃の気持ちも考えたらどうなの! 最低よ!」

 何か言いかけた拓也を振りきって、佳乃はきびすを返して走り出した。ここでこれ以上二人きりで話すのは、色々な意味で耐えられなかった。

 転びかけた事も忘れて全速力でもといた橋の上まで駆け戻ると、佳乃は大声で川岸に立ち尽くす拓也に向かって怒鳴った。

「あんたなんか、大嫌いだ! 一生恨んでやるから!」

 人ごみの中に紛れ行く佳乃を静かに見送って、拓也は手にしたお守りを握り締めた。

「あなたの心に一生残るなら、それでいいんです……」


 ――Second love.

 傷付いた事が多すぎて。気づかなかった事が多すぎて。

 見ようとしなかった。見せようとしなかった。

 でも、その均衡が崩れたとき、すべてが終わったはずの京都で、恋は始まった。



(ななななな)

 もし顔が燃えているなら、誰か早く火を消してくれ。

 人通りもまばらな鴨川沿いの道を旅館に向かって走りながら、佳乃は熱くてたまらない頬を押さえて荒い息を繰り返した。

(なんだったの!? 一体、どうなってるのー!)

 聞いてはいけないことのオンパレードだったような気がする。冷静になるまではろくな会話の内容も思い出せそうになかった。

 どうしてこんなことになってしまったのか。

 この修学旅行が一生忘れられない思い出だらけなのは確かだった。京都で初めて喧嘩して、奈良で初めて嫉妬して、和歌山で初めて告白して――京都で初めて失恋して。そして、京都で。

「ぎゃーあー!」

 いきなり頭を抱えて絶叫して、佳乃は立ち止まった。

 今やっととんでもない事に気がついた。あれが、あのある意味犯罪以外の何ものでもないアレが、17年間生きてきた佳乃のファーストキスだということに。

 特に大切にしようと思っていたわけではなく、ただ恋愛に興味がないから無作為に残ってしまっただけの話なのだが、それでもまさかこんな奪われ方をするとは夢にも思わなかった。

(ひどい! 詐欺よ、反則よ、こんなのってあんまりよー!)

 改めてドラマで何度も見た恋人同志の仕草が思い出される。目をキラキラさせてテレビにかぶりつく花乃の影から横目でチラチラ盗み見る程度だったが、その大半は感動的なBGMや美しい背景ともに映し出されていた。

 お互いの想いを確認して、愛し合うようになった二人にこそ許される行為なのに、まさかの不意討ち、しかもこんな新手の嫌がらせみたいな方法で自分の身に振りかかったことがあまりにも惨めだった。

 半泣きになりながら唇を浴衣の袖で力いっぱい拭って、佳乃はこの厄日を呪った。

『僕を本気にさせた、あなたが悪いんです』

 その言葉が頭から離れない。耳もとをくすぐるようにいつまでもまとわりついているような気がして、悔しさからか頭に血が上ってくる。

 その言葉を知っていた――忘れられようはずもない、それは佳乃が拓也の挑発に乗せられ、委員を承諾したときに叫んだ因縁のセリフだったのだから。

 だが今回は、あの時の「本気」とはどうやら意味が違う。何がどう違うとは答えられないけれど、先ほどの拓也の目は、思い出すのも勇気がいるほど熱っぽかったような気がした。

「勝手だわ……勝手すぎるわよ、あたしはまだ忘れてないんだから……」

 思いきり突き放されたことがあった。関係ないと何度言われたか。8月の美術館でも、そして神戸でも。

 奴がいったい何を考えているのか、ますます理解できなくなってきた。

「湯浅とかにもまったく関係ないとか言っておきながら、どういうつもり!? ふざけるんじゃないわよ、もう信用できない! そうだ、からかわれてるんだ、許せない!」


「どこ行ってたのよ、佳乃」

 部屋に戻ると、洗面所で歯を磨いていた夕子が振りかえった。佳乃はどういう顔をしていいものか解らず、眉を寄せ、口の端が奇妙に引きつったような顔で言った。

「外で散歩してきた……鴨川べりで」

 三途の川でも見てきたような顔で言っても、信じてもらえるはずがなかった。

「まあた真っ赤な顔して。嘘のつけない子よねー、あんたも」

 言えない、と言ったからだろうか、夕子はムリに問い詰めてくることはなくなった。それが妙に心地よくて、佳乃は両頬を押さえてうめいた。

「うそ、まだあかい……?」

 真っ赤になったその表情は、夕子が見ても驚くほど印象が違った。いつもキリキリしている佳乃はもとより、常に笑顔の花乃でさえ見せたことのない表情――恋する女の子。

「うわッ、新発見! カメラカメラ、絶対売れる!」

「何言って……ギャー! やめてよ夕子ー!」


 最後の京都の夜は、すったもんだの挙句に暮れていった。

 絶対寝られないと思っていたにも関わらず、昨夜の徹夜と今夜の疲労が効いたのか、佳乃は布団に入るなり一気に眠りの世界へ誘いこまれてしまった。

(やっと帰れるよ、父さん、母さん……)

 でもあの手紙を書いた後の3日に情勢はひっくり返って、言えない事のほうが増えてしまった。

(京都って怖いとこだね……あの雰囲気に包まれると、何でもできてしまうみたい)

 壱千年の魔力か、はたまた集まる神様仏様のお力か。

(でもちょっとだけ、父さんと母さんの言ってた事、わかった気がするの……)

 夢見心地で、佳乃はほんのかすかに微笑んだ。

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