おまもり代わり

 夜はそわそわふわふわして、眠ったような眠らなかったような。

 不思議な微睡みの中で、目覚ましの音を聞いた。


「んぅ……」


 音の出所を探るように、辺りに手を伸ばせど音源に届かない。

 硬質な何かに触れるんだけれどもそれは全然音を鳴らしていないようで。


「どこぉ……」


 寝ぼけ眼を擦りながら、むくりと体を起こして、辺りを見回す。

 音の出所は桜華のスマホ。

 桜華のスマホが鳴ると言うことは、ボクの起床時間から大幅な寝坊を意味する。


 眠気が一気に吹き飛んだ。

 休みだけれど、体調を崩した時以外は一日も欠かさないでいた、早起き神話が今まさに崩れ去ってしまった。


「今何時……!?」


 慌ててさっきからずっと触っていた硬質の物体……ボクのスマホの電源を入れて時間を見る。

 時刻は九時を少し回った所だ。


「やば!!」


 布団を跳ね上げて、バッグから着替えを一式取り出して。


「桜華、起きて! 九時過ぎてる! 瑞貴との待ち合わせまで二時間無いんだけど!!」


 床に敷いた布団で眠っている桜華を揺さぶって、起こそうと試みる。


「私はもうちょっと寝てるから、勝手にしてー……」

「ダメだよ! 誰がボクに化粧してくれるの!」

「自分でしなよー……」

「そんな、殺生な!!」


 昨日桜華に指摘された浅い女の子歴。つまりボク自身まだ自分で化粧が出来ないのである。練習はしているけれど、上手く行かない。よくてファンデーションを塗るくらいだ。

 アイラインとかブロウとか、そういうのはまだ出来ない。目元に自分で筆を走らせるのって恐いよね。だれか分かって。世の女子ってどうしてあんなのが軽々しくできるの……!


「大丈夫、燈佳はそのままでも可愛いから安心して」

「それじゃあ、ダメなんだってばぁ!」

「ファンデとグロスだけでなんとかなるから……。それくらいはできるでしょ」

「でーきーるーけーどー……」


 出来るけど、出来るんだけど、やっぱり気合いを入れたい所がある。

 でも、この調子じゃ桜華は手伝ってくれなさそうだし、諦めるべきか……。

 こういうのを母さんに頼むのは気が引けるし……。


「むう……わかった……」


 それだけ言って、ボクは桜華を起こすのを諦めた。

 最低限の化粧に合わせて、服装も大人しめの物を選べば浮かないだろうし。

 バッグの中から、手鏡と化粧ポーチを取りだして、そこから下地用のリキッドとパウダーと、それと淡い色のグロスを取り出す。

 前髪は下ろして、眉は隠してしまおう。あとは、正直に今日はちゃんと化粧してないことは伝えておこう。だから、あんまりマジマジと顔を見ないでとも。


 拙い手さばきで化粧を終えて気付く。

 服着替えたら化粧が崩れる……。

 未だパジャマである。アホじゃん!!


「やってしまった……」


 やり直しである。そして時間は刻一刻と過ぎていくのである。

 もう諦めてすっぴんで出ようと思った。服装だけちゃんとして。

 よたよたと着替えを済ませて、下に降りると、ばったりと母さんと出くわした。


「あら、燈佳、今から出かけるの?」

「うん、瑞貴が来るから」

「男の子?」

「え、うん。あれ、母さんに言ってなかったっけ。ボクの恋人」

「そうなの?」


 心底驚いたというような感じと、やっぱりかと言わんばかりの気色の混じった顔色にボクは失言に気付く。

 でも今更もう遅いのである。


「そんな格好で行くのかしら」

「だって時間ないし……」


 そんな、とは明らかにすっぴんの事を言っているのだろう。

 もう時間ないし、待ち合わせ時間には遅れたくないし……。


「はいはい、こっちにいらっしゃいな」


 母さんはにこやかな笑顔でボクの腕を掴むと、ボクを引きずっていく。

 連れて行かれた先は母さん達の寝室で、鏡台の前に座らせられた。


「待ち合わせの時間は?」

「十一時だけど」

「そう、それなら間に合うわね」

「えっとー……」

「お母さんがしてあげるから」

「えぇ!?」


 出来るのだろうかという不安しか無い。

 ボクの驚きの声に、母さんが心外そうな顔をしているのが鏡越しに見える。


「お母さんだって、なんだかんだと言って世に生きる女性なんだけど」

「あっ、そうだった」


 すっかり忘れていた。母さんは母さんであって、性別的な話を失念していた。


「洋服はしっかりとしてるのに、化粧をしていないところをみたら、出来なかったんだろうなあってのは流石に予想が付きます。自分の子供に恥かかせるわけにもいかないからね」


 恥というか、まあ、瑞貴に顔を見せたくない感じにはなるけれども……。

 それに服自体そこまで気合いを入れた感じではない。どこにでもありそうな余所行きの冬装だ。ただ、だらけたような格好にはならないように気をつけている。

 まあ、男の時は外を出るにしても結構だらけた格好が多かったから、そのせいかな。


「えっと、それじゃあ、お願いします。ちょっとボクのポーチ持ってくる」

「そうねー」


 一度寝室から離れて、自分の化粧道具を取ってまた戻ってくる。

 化粧道具を広げてみせて、母さんがうんと一つ頷くと、鏡台から一つ真新しい四角い物を取り出して見せた。


「これ、燈佳にあげましょう」


 中程に入っている割れ目から分離するのは分かるのだけれど。

 受け取って、分離をして、そこにある物がなんなのかわかった。

 口紅だ。グロスではなくて、ルージュ。鮮やかな赤の、若いのだから使う必要はないと言われた物。

 塗ることはあったけれど、そもそもそれは沙雪さんの所のお仕事の兼ね合いだし、沙雪さんにも姫ちゃんにはまだ必要無いわよなんて言われたくらいだ。


「いいの?」

「いずれ使うときが来るだろうし……その時は新しいのを買ってあげるけれど、あなたのその格好を見て、お母さんもわかっちゃったから」


 あー、と。気合いは入れてないけれど、だらしない格好ではないし。女の子として外に出るなら普通の格好である。

 同性ならば、こういうのを目ざとく気付く。


「それに、娘がいたらこういうことしてみたいなあとは思っていたしね。残念ながら子宝には恵まれなかったけれど」


 自嘲気味にぼやく母さんに、ボクは返事を返せなかった。

 どう返せばいいのか分からなかった。

 だけど、手早く化粧を施して、髪に櫛を通して弄っていく様は本当に手慣れた女性のものだった。そういえばと、今更ながら思えば、母さんの顔はちゃんと化粧がされている。していない日は無いくらいだろう。


「こんなもんでどう?」


 綺麗に化粧がされたボクの顔。赤く唇を形取るように引かれた口紅。

 そして、綺麗に編み込まれて後ろにちょこんとバレッタで留められた髪。

 バレッタは瑞貴から貰ったやつだ。ポーチに入れてたのを目ざとく気付かれて使われた。

 桜華にもしてもらったことがない髪型で新鮮だった。

 合わせ鏡越しに見て、頭を振れば、丁度真ん中で留められた小さな尻尾がふりふりと揺れる様な感じになって、随分と可愛い。

 それでいて、元々の緩く波打った長い髪はそのままで。


「母さんすごい!」

「でしょー?」


 素直な感想に、どんなもんだいと言わんばかりに胸を張って応える母さん。

 これなら、瑞貴にマジマジと見られても恥ずかしくない。

 いつか出来るようになりたいなあ。


「そのー……、今日連れてくるから」

「あらー、そうなの? 腕を振るわなきゃね!」

「そこまではしなくていいです……」


 何をと言わずとも、伝わる。

 それは今まであり得なかったことで、でも同性ならば言わずとも伝わる物で。くすぐったいようなここちいいような、ふわふわとした感じ。


「じゃあ、それとなく手の込んだものを!」

「えぇ……。だって、母さん瑞貴見てるでしょ……」

「そうね、格好いい子だったわね!」

「絶対顔がいいからもてなそうって思ってるでしょ……」

「そうね、顔はよかったわねー。でもそれ以上にあなたの事を思ってる姿が見られたからね」

「む……」


 傍から見てもバレてるんですか。しかも一見の母さんにまでバレる懸想っぷり。

 ボクも似たようなものだけど、瑞貴の事を考えるだけで頬が熱くなるし。


「さて、そろそろ時間も危ないんじゃない? 大丈夫? 外、一人で歩ける? 薬は持った?」

「あ……、念のため持っとく」


 言われて気付いた。

 最近は全然飲んでいなかったけれど、何があるか分からない。

 御守り代わりに持っておくのは悪くない、むしろあって損はない。


 一度部屋に戻って、荷物の中から必要な物を肩掛けのバッグに詰め込んで行く。

 少しデザインが子供っぽいけれど、今のボクの容姿なら大体許されるから、気持ち的に楽。

 寝転けてる桜華にいってきますと声を掛けて、部屋を出た。

 それから、母さんに同じようにいってきますと声を掛ける。

 いってらっしゃいの返事を貰って、靴を履いて外にでた。


 時刻は十時ちょっと前。今から行けば余裕を持って待ち合わせの時間に間に合う。

 うん、大丈夫だ。外は恐くない。

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