文字の会話
「会員証をご提示ください」
感情のない口調で咲谷さんは言った。すると氷川喜与味は、財布から慣れた手つきで会員証をだした。驚いたことに喜与味も、ブックカフェ『黄泉なさい』の会員だったのだ。
僕も昨日、会員証をつくって財布にしまったままだったのを思い出して、咲谷さんに差し出した。それをみて喜与味は驚いた表情をみせた。
「え?快くんもここの会員だったの?いつから?」
「…昨日からだよ」
「誰に紹介されたの?」
「黒沢…さんに」
一瞬呼び捨てるか迷った。そういえば、僕は黒沢アカネの名前を呼んだことはない。僕はどうも、さん付けで呼ぶ癖がついてしまっているようだ。
「アカネに?あたしもアカネにこの店を紹介してもらったんだよ。アカネのお兄さんのシロウさんが経営してる店だってね」
さらっと黒沢アカネのことを呼び捨てているところをみると、二人は仲がいいのだろうか。学校ではそんな素振りを見せてはいなかった。少なくとも僕の前では。
「会員証、確認いたしました。それではスマートフォンなど、モバイル機器をお預かりします。そしてここからは一言も喋らないようお願いいたします」
咲谷さんにスマートフォンを預けると、咲谷さんは店の入り口のドアを開けた。僕と喜与味は店の中へと入った。中にいた客は僕らの他に今日は二人。学ランの少年と赤い着物の女性。女性のほうはたしか小説家の志摩冷華という名前だったと思う。昨日と同じ席で二人とも、昨日とほぼ同じことをしていた。二人とも集中しているのか、僕らが入ってきたことに気付いた様子は無かった。もしくは気付かぬふりをしているのかもしれない。その二人の客のほかに、昨日と同じく江頭という店員が一人立っていた。昨日いたもう一人の客、末永弱音という老婆の姿は無かった。
喜与味は店の奥へと歩いていった。僕もそれについていった。店の入り口正面からみて一番奥の右側の席に彼女が座ったので、僕はその隣の席へ座った。スタッフルームと書かれたドアのすぐ傍だ。
喜与味は飲み物の注文書に『アイスコーヒー二つ』と書き、それを店員の江頭さんに渡した。僕に何を飲むか聞かずに頼むのもどうかと思うが、どのみちこの店の席料にはドリンク飲み放題も含まれているし、文句をいちいち文章で書くのも面倒だからよしとした。そして二分も経たないうちに、アイスコーヒーが二人分運ばれてきた。
僕も喜与味も、二人とも喉が渇いていたのだろう。一気にアイスコーヒーを飲み干した。そして一息つくと、喜与味は席に置かれている原稿用紙と万年筆を手に取り、何かをさらっと書き始めた。そして書き終えると、それを僕に見せた。
『快くんは、作文とか得意な方?』
僕はその質問に対し、同じ原稿用紙に『むり』と書いて彼女に見せた。
僕は本をあまり読まないし、人とあまり会話もしない。だから人より言葉を知らないから作文の類は苦手だ。それに僕には自分の考えというものがない。特別興味をもつものもなければ、主張したいものもない。なにか書けたとしても、それは何の感情も込められていなく、深みのない、とても薄っぺらい文章だろう。喜与味はさらに続けて書いた。
『あたし、この店に来て思ったんだけど、文章を書くって、自分自身と向き合うことだと思うの。だから作文が苦手な人って、自分自身と向き合えていないか、もしくは向き合うのを恐れている人なんじゃないかって思う』
『つまり、何を言いたいの?』と僕は書いてみせると、彼女はこう書いて答えた。
『あたしもあなたも、本当の、本来の自分とまだ出会えていない。そしてあなたは出会おうとしていない』
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