絹の帯(六)
翌朝。
蔡文姫は宮廷を出た。
我が身が抜け殻のように感じられた。
ただの一夜にして自分が自分でなくなったような気がした。
夫のいる家には帰りたくなかった。
我が身におこった凶事については死んでも言えない。
言えるものではない。
このまま川に身を投げてしまおうか……。
迎えの者がきたという。
宮中を出ると、入り口で輿が待っていた。騎馬の者が数名いた。
いつもの家臣ではなかった。
そのうちの一人をみた。馬上の人物は、曹操その人であった。
乱世の姦雄その人である。
風采のあがらぬ小男であるが、中国史上でも指折りの英雄である。
しかも夏侯惇とその従兄弟である夏侯淵までいた。
国家の最高権力者である魏公が、その側近たちを引き連れてやってきたのである。
「当代きっての才女がお帰りになるというのでな。迎えに参った」
曹操は馬上において大笑いした。
「それにしても伏皇后というのは犬畜生にも劣るやつ」
それを聞いた蔡文姫は、あっと一声あげるとその場に泣き崩れた。
人目をはばからず号泣した。
曹操はすべて知っていたのである。世の人は言う、噂をすれば曹操が……と言うくらいである。
宮廷で起こったことを曹操に隠すことは決してできないのである。
曹操は馬上から降りると蔡文姫の肩を抱いた。
「馬鹿なことは考えんでくれ」
「しかし、しかし……」
曹操は唇を耳元に近づけて囁いた。
「一年待て。一年経てば宮廷に巣食う畜生どもを皆殺しにしてくれるわ」
その表情には乱世の姦雄としての凄みがあった。
だが、それも一瞬のことであった。
「家に帰りましょう。貴殿を愛する夫が待っていますぞ」
屈託のない笑みをうかべて言った。
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