5

 結婚して以来、正月はお互いの実家を回るのが恒例となった。今年も年越しは公介の実家のある沖縄で過ごし、年が明けると秋田に飛んだ。そして一月四日の夜に、二人はハイタウン舞洲の自宅に帰りついた。

 長旅を終え、キャリーバックの荷物を整理している時に公介がなにげなく言った。

「子どもが産まれたら、沖縄に引っ越すってのもいいかもね」

 冗談とも本気ともつかない言い方だった。加奈は聞こえない振りをして鼻歌を続けた。

「……嫌なの?」

 公介がすぐ後ろに立っていた。

「ぜんぜん。いずれそうなれたらいいよね」

 加奈は洗濯物を手に洗面所に向かう。公介はそれ以上、なにも言ってこなかった。

 今回の旅で、公介が予想以上に子どもを欲しがっていることを知った。

 どちらの家でも、あたかも夫婦間で決めたことのように、今年中の妊娠出産をほのめかしていた。

 そんな話を二人でしたことはない。今年、妊娠出産となれば仕事に復帰することも難しくなる。加奈の本音は子どもより仕事だ。

 リビングに戻ると公介はソファでテレビを見ていた。目の前のテーブルには沖縄土産の泡盛が乗っている。

「カズがさ、一緒にお店やらないかって言ってたじゃん。意外と悪くない話かなって思うんだよな」

 公介がリモコンを手にカチカチやっている。カズというのは公介の幼なじみだ。

「そうだね。毎日、海を見ながら過ごせたら幸せだろうね」

「加奈もそう思う?」

 公介は満面の笑みを向けた。

「いっぱいお金貯めて老後は沖縄っていうのが理想的かな」

「老後って、すっごい先じゃん」

「だって、ここのローンだってまだまだあるし、それまで二人で頑張ってこうね」

「……まあね」

 公介は一瞬顔を曇らせて泡盛を注ぎ足した。正確に言うとローンに加えて、購入時の頭金として加奈の両親から借りたお金も残っている。

「じゃあさ、この部屋が高値で売れたら移住しちゃう?」

「それは将来の目標としてさ、今は現実のこと考えようよ。公介の仕事もあるし、あたしだってもう一年、理事やらなきゃいけないし」

 熱を帯び始めた公介をうまくいなして加奈はキッチンへ足を向ける。

「加奈の仕事はいいの?」

 驚いて振り返る。見抜かれないよう表情を崩す。

「あたしはいいよ。だって公介がしっかり養ってくれるんでしょ?」

 加奈がおどけて言うと、公介の顔に柔らかさが戻った。

 実際は、昨年の忘年会で四月からの復帰を社長と約束した。でも、そのことは言わなかった。これは夫婦生活を円滑に進めるための許される嘘だと胸を張って言える。

 それくらい、最近は夫婦としての結びつきを強く感じる。出会った当初より、新婚当時よりも夫のことを愛しく感じるのだ。

 だから翌日の夜の夫婦会議も、すんなり終わると思っていた。「新理事長なんて最高じゃん!」と最終的には理解してくれるものだと疑ってなかった。

 

 その夜、公介はいつものように七時頃に帰ってきた。そしてすぐにシャワーに向かった。ずいぶんと髪の毛がぱさついていたように感じた。

 風呂上がりの後ろ姿を見る。背中の筋肉がたくましい。加奈はテーブルに豚キムチとご飯とみそ汁を並べた。缶ビールを持つ公介の左手になにか違和感を覚えた。それとは別に切り傷があることにも気がついた。

「どうしたの、手?」

「ん?」

 公介は左手をなんとなく右手で隠した。その右手の拳の先もひび割れていた。

「ちょっと、それ……」

 加奈が顔をしかめると公介はテーブルの上に両手を広げた。

「今日はね、工場の倉庫を整理してたんだよ。窓ガラスとかも掃除したんだけど、なれてないからけっこう大変だった」

「そんなことまで公介がするの?」

「当たり前だよ。現場の人と同じ気持ちでいないと誰もついてきてくれないし」

「そっか。おつかれさま」 

 加奈はわざわざコップにビールを注いだ。今日はあまり酔ってほしくなかったけれど、夫への感謝を示したい。

 なかなか本題を切り出せず時間だけが過ぎていった。意を決した加奈は、ソファで本格的に晩酌を始めた公介の横に座った。一緒にバラエティ番組を眺める。公介が声を出して笑った直後に、理事長の件を切り出した。なんとなく自分が前向きなこともほのめかしてみた。

 公介の顔から笑みが消えた。沈黙に耐えきれず加奈の口から言い訳じみた言葉が続く。

「あたしも絶対無理だと思ってたんだけど、結局は誰かがやらなきゃいけないわけだし。理事の人ってお年寄りばっかりで、若い人が他にいないわけじゃないんだけど、いちおう推薦してもらった手前、やってもいいかな、なんて……」

 ちらりと横の様子を窺う。返答がもらえる気配がない。加奈はいちどテレビに顔を戻す。ちょうどCMに入ったところだった。

「それってさ、俺が意見する意味あるの?」

 顔をテレビに向けたまま公介は言った。

「あるよ、あるに決まってんじゃん」

「洋服選ぶ時だってさ、どっちが似合う? なんて聞いてきても答えは決まってんじゃん」

「それとこれとは話が違うよ。私たち夫婦の問題だし」

 加奈が泡盛のボトルに目をやると、すでに半分も減っていた。

「よしわかった。じゃあ理事長なんてダメです。さすがに調子に乗り過ぎです」

 敬語が癪にさわった。加奈も反射的に言葉を返す。

「調子に乗ってなんてないよ。みんなから頼まれてるって話じゃん」

「みんな、ね……」

 公介はいやらしく口を歪めて氷が溶けきったグラスを口に運んだ。いったん間を置くべく、加奈は席を立つ。やっぱりもっとお酒が入る前に切り出すべきだったと後悔した。

「ありがとう」

 氷を補充し沖縄で買った海ぶどうを皿に並べると、公介は素直に礼を述べた。

 加奈はすかさず正面にまわり、床の上に正座した。

「あのね」

 そして夏川から聞いたことを全部話した。大げさかもしれないけど、自分が団地を救うことになる。そして、自分が復活できたのも団地で理事をしたおかげだと真剣に訴えた。すると公介は不満そうに舌を鳴らした。加奈は慌てて付け加えた。

「もちろん、公介が支えてくれたのが一番だけど」

 近頃の公介はほんとうに酔った時の扱いが難しい。機嫌が悪くなるスイッチがたくさんある。昔はこんな酔い方はしなかった。常に楽しいお酒だけだったのに。

「で、まだなんかあんの?」

 公介はプチプチ音をたてて海ぶどうを味わっている。わざと音を立てているようにも感じた。

「まだっていうか」

「俺はダメって言ったよね? 聞こえなかったかな」

「なんでよ……」

「ほら、やっぱりそうじゃん。俺がなんて言おうと加奈の中で答えは決まってるんだろ?」

 呆れ気味にそう言われると、加奈に返す言葉はなかった。

「じゃあ加奈でも納得できるように言いましょうか」

 突然、声の音量が上がる。これも酔った彼の嫌いなところだ。

「子どもができたらどうすんのさ。そしたら引っ越すかもしれないんだよ?」

「もともと子どもができてもいいように、広めのこの部屋を買ったんじゃん」

 言い返してもいいことないとわかっているのに、つい正論を言ってしまった。公介はとろんとした目でこっちを見ている。

「俺は、そんなこと言ってるんじゃないよ。子どもができたら理事長として責任ある活動ができないんじゃないかってことを言ってるの」

 彼は自分の論理破綻に気づいていない。言い負かした気でいるのか、得意げに氷を鳴らしながらグラスを持ち上げる。

 その左手を見た時に、先ほど感じた違和感の正体がわかった。彼は結婚指輪をしていなかった。

 いつから外しているんだろう。ぜんぜん気づかなかった。いや、早合点は禁物だと加奈はショックの消化に努める。ただ、そのためには彼を攻撃する以外の方法が思いつかなかった。

「子どもの心配は大丈夫。職場復帰したらそれどころじゃなくなるし」

「は?」

 公介が目をむいた。ザマアミロと思った。

「社長から連絡があって、四月から復帰してもらえないかって」

「まったく聞いてないんですけど……」

「だって昨日のことだもん、しかたないでしょ」

「昨日のことなら昨日言えって話なんですけど」

「そうだけど……」

「なんだかコソコソしてるようで、すごく感じ悪いね」

 公介はテレビを消した。

「じゃあ、俺は親族中に堂々と胸を張って嘘ついたってことだ。勘弁してくれよ、まったく」

 大げさなため息が聞こえる。イライラと机を指で叩いている。加奈はじっと身を固めている。

「まさか、もともと決まってた出来レースってことはないよね?」

 公介の視線を感じる。加奈はゆっくりと顔を上げた。

「ないよ」

「よかった。正月も『子ども作るとか、あいつはなにひとりで浮かれてやがんだ』って腹の中で笑われてたりしたら死ぬしかないよ」

「そんなわけないじゃん」

「それじゃあ、あなたは理事長にお仕事にって人生を楽しんでくださいよ」

 冷たく言われた途端、急激に距離が生まれた気がした。公介は立ち上がり実際に加奈から離れていこうとする。

「指輪……」

 加奈がぽそりと呟いた。公介は立ち止まる。彼は、今はまだ加奈の近くにいる。

「いつから指輪してないの」

「いつからって、今日の夜からだよ。ついさっきからだよ」

 即答したところが逆に怪しかった。加奈はとてつもなく寂しくなり、テーブルに肘をつき頭を抱えた。

「傷になるのが嫌だから仕事の時は外してるんだよ」

 公介の言い分が変わった。これでさっきの話も信じられなくなる。彼が嘘をついたことは間違いない。

「加奈だって、指輪してないだろ?」

「出かける時は必ずしてるもん」

 こめかみが熱くなってきた。深く息をつき眉間を指でもみほぐす。公介がソファに戻ってきたのが聞こえた。

「加奈はさ、この先もずっと元気でいる予定なんだろうけど、先のことなんてどうなるかわかんないよ。もし、またいっぱいいっぱいになってテンパっちゃったらどうすんのさ」

 頭の中がぐわんと揺れた。加奈は鼻息荒く公介を睨みつけた。

「予定通りいかないからって最初から逃げるほうがかっこ悪い」

「かっこいいとか悪いとかじゃないって。人生なんて予定外のことばっかりだって言ってるの。だって、この街に引っ越してくるなんて予定、俺たちにあった? 加奈が殺人の片棒を担ぐのだってまったく予定外のことだろ?」

 公介は軽く鼻で笑い、グラスに手を伸ばす。加奈は自分でも気づかぬうちにその腕を掴んでいた。

「あたしがおかしくなったのも予定外だったって言いたいの?」

 加奈は握る腕に力を込めた。それでも公介は表情を変えない。

「俺に聞いてるの?」

「他に誰がいるのよ」

「それじゃ答えるよ。うん、予定外」

 加奈の腕が落ちテーブルが音を立てた。体中から力が抜けた。

「今の俺だって加奈にとっては予定外でしょ?」

 公介はとろんとした目のままにっこりと笑った。

 目の前の人は本当に自分の夫なのかと思った。加奈の知る公介なら「最高じゃん!」っていつでも応援してくれるはずなのに。いつから変わってしまったのだろうか。

 いや、その答えははっきりしている。一年前、自分の頭がおかしくなってしまってからだ。

「ねえ、もしかしてあたしと別れたいと思ってる?」

「なにその、急な予定外のひと言」

「だって、公介はなんにも話してくれないじゃん。あたしは信頼されてないんでしょ?」

 加奈の病気に原因があるように、公介だって変貌する理由があったはずだ。それなのに彼はなにも話してくれなかった。今、この場においても大事な質問には答えてくれない。

「あたしが、なにも気づいてないと思ってる?」

「……気づいてるの?」

 ようやく公介が口を開いた。

「当たり前じゃん。馬鹿にしないでよ。毎日一番そばで見てるんだよ?」

「本当に気づいてるの?」

「だから気づいてるって言ってんじゃん!」

 加奈が語気を強めると、公介は視線を避けるように立ち上がった。無言のままコンポからCDを取り出すと、隣の部屋へ消えた。加奈は主が消えたソファをじっと見たまま険しい顔を震わせていた。

「なんで逃げるの!」

 加奈の叫びが天井の低いこの部屋に響き渡った。隣室の公介は無言のままだった。

「いっつもそうじゃん。のらりくらりとひょうひょうとしているようで、実際は問題を先送りにしてるだけじゃん。ちゃんと向き合わなきゃなにも解決できないよ……」

 加奈は誰もいないソファに公介の姿を浮かべながら語りかけた。

「加奈は逃げてないの?」

 別のところから公介の声がした。公介がすぐそこに立っていた。

「あたしは、病気を克服したじゃん。逃げずにちゃんと向き合ったじゃん」

「じゃあなんで、わざわざこんな街に――」公介が言葉を飲み込んだ。「まあ、いいけどさ」

「よくない。言いたいことあるんならぜんぶ教えてよ」

 加奈は公介の背中に言葉をぶつける。公介は背を向けたままコンポをいじっている。 

「加奈はさ、俺と結婚するってことをちゃんとわかった上で一緒になったの?」

「当たり前じゃん」

 公介が振り返った。予想外の引き締まった顔に加奈は息をのんだ。

「沖縄に実家がある長男と知った上で結婚したんだろ?」

「もちろんだよ。だからこそ聞きたいの。ぜんぶぜんぶ知りたいの。夫婦って普通そういうもんでしょ」

「普通、ってなに? そんなの誰が決めたの?」

 公介がダイニングテーブルに直接腰掛けた。冷たい目で見下ろされ加奈は口ごもった。

「俺たちのことは俺たちにしかわからない。普通なんて関係ない。ぜんぶ俺ときみだけの問題だ。わかる?」

 公介が怒っている。加奈は肛門から氷の棒を突っ込まれたように背筋が伸びる。「きみ」と呼ばれたのは初めてかもしれない。

 でもそのことが加奈はたまらなく嬉しかった。公介の本音に触れたような気がしたからだ。恐怖なのか喜びなのか、とにかく自分の感情が高ぶっていくのがわかった。加奈は黙ったまま、公介のさらなる本音を求める。

「目の前の問題から目を背けるな、困難に逃げずに立ち向かえ、たいへん立派なお題目だよ。でもそれで全てがうまくいくわけじゃない、とも思いますよ、少なくとも、僕は、ね」

「わかってる。でも、波風立てずにやりすごすのは簡単なことだけど、それでストレス抱えてたら意味ないじゃん」

「簡単って、あなた……」

「だって、最近、公介がなにを考えてるかわかんないんだもん!」

 公介が呆れたようにため息をついた。肩を震わせる加奈の前に座ると、コップに水を注ぎ一気に飲み干した。

「あたしはね、心配なの。公介が嫌な仕事をどんどん押し付けられて、それでもあたしのために嫌な顔も見せずに頑張ってくれてて、本当は愚痴や文句も言いたいけど、あたしのせいでなにも言えなくて、だけどそんなこと相談できる人は誰もいなくて、ついついお酒に逃げるようになってんじゃないかって!」

 思いのたけをぶちまけた。ずっと聞きたくても聞けないことだった。

「公介がなにも話してくれないから、わたしは想像するしかないんだよ。違うなら違うって言ってよ……」

 加奈は目を伏せた。酔ってもいないのに自然と泣けてきた。部屋の中が静まり返る。ゆるやかなリズムを刻む電子音だけがかすかになっている。

「わかったよ」

 公介が手を伸ばし、そわそわとさすりあう加奈の両手を包んだ。

 加奈が顔を上げる。そこにはいつもの穏やかな公介の顔があった。

「心配かけてごめんね」

「べつに心配してないし……」

 笑いかけられ、取り乱した自分が恥ずかしくなった。

「でも、加奈の作戦だと、泣いて発散するのは俺の予定だったんじゃないの?」

「そうだったけど、しょうがないじゃん!」

 公介が頭を垂らし、笑っているのか肩を揺らしている。髪の分け目からうっすらと白い毛が見えた。

「いやー、ほんとうにごめんね。ちなみにこれは本音だよ」

「いいよ、もう」

「すっきりした?」

「だからもういいって!」

 加奈は口を尖らせてそっぽを向いた。でも、すごく清々しい気持ちだった。二人で本音をぶつけあえたことで夫婦の絆がさらに深まった自信があった。

 その夜は加奈の方から公介を求めた。気持ちが高ぶりすぎたのか、いっしゅんよぎった避妊対策はあっという間に消し飛ばされた。大胆に馬乗りし、思いっきり心身を開放した。

 翌朝、公介はビジネスバッグを肩に、加奈は燃えるゴミを左手に、家を出た。

「遅ればせながらとなりますが――」二人きりの空間で公介は改まって言った。「旧年中はたいへんお世話になりました。本年も、すでにご迷惑をおかけしておりますが、なにとぞよろしくお願い申し上げます」

「なにそれ」

 加奈は空いた右手で公介の左手を握り、固く冷たい指輪の存在をしっかりと確かめた。

 六階で顔見知りの住民が乗ってきたので、さりげなくつないだ手をほどく。なにげない会話をしていると、ガラス窓越しに公介がにやついているのが見えたので、加奈は黙ってひじ打ちを入れた。

 一階に着き、公介は駅に、加奈はゴミ捨て場へと向かう。振り返り、コートの襟をたて寒そうに背中を丸めた後ろ姿を見送る。公介が出張から帰ってきたら、また電車に乗って新しいコートを買いに出かけようと思った。


 夫のいない退屈な土曜日は、気晴らしに外出するのも億劫になるとても寒い日だった。予報では雪が降る可能性もあると言っていた。

 遅めの昼食はカップラーメンですませた。喜んで食べてくれる人がいなければ料理も作り甲斐がない。

 残りの掃除を済ませ、洗濯物を干し終えると、これといってやることがなくなった。コーヒーを淹れてソファで一息つくことにする。

 平日と違い、テレビは再放送ものが多い。特に興味はなかったが、二時間ドラマの刑事物でチャンネルを止めた。コーヒーをすすりながら、昨晩に公介から送られてきたメールを読み返す。

「今、ちょうど蟹工船に乗ったところです。自分を見詰めなおすいい機会になりそうです。連絡は取りづらくなると思うけど、いきのいいマグロを釣り上げて帰るので心配しないでください」

 何度読んでも意味が不明だが、調子は良さそうなので安心した。

 さて、これからなにをしようかと考えて、夕飯も張り切る必要がないことに気づく。これがあと二週間続くと思うと、正直寂しくもある。原田からの誘いでもあればいいなと思い、明日までに決心しなきゃならないことがあるのを思い出した。

 明日の理事会までに、理事長に立候補するかどうか腹を決めねばならない。思えば夫婦間での結論ははっきりと出ていない。

 これはやむを得ない理由だと、公介の携帯を鳴らす。やはり仕事中なのか、残念なことに留守番電話だった。

 しばらくして折り返しの電話ではなくメールが返ってきた。

「ごめん、今ちょうどシンガポールの近くでマグロを穫ってるから電話に出れないよ。そういえば、昨日は松方弘樹そっくりのマグロが釣れて驚きました」

 なにが「ちょうど」なんだよ、とツッコミつつも、返事をどうするか考える。メールとなると急に気が重くなった。迷っているとふたたび公介からメールが来た。

「もろもろ、加奈は加奈で自分の思うようにやりなね」

 言わずとも想いが伝わったことが嬉しかった。夫婦というのは離れていてもつながっているのだ。

「お土産楽しみにしてるよ。それと、松方弘樹はマグロに似てる人じゃなくて、釣る方の人です」

「ありゃりゃ、とにかくさっきのは本音ですので!」

 これだけ見事なリズムで会話ができる夫婦が世の中にどれだけいるだろう。加奈は我が夫婦の結びつきの強さに満足し、今日は二人の思い出を整理することにした。

 パソコンに保存された膨大な数の写真を眺める。気に入った写真は実際にプリントしようと思っているのに、なかなか進んでいない。写真の数が多すぎるので振り返るだけで時間が過ぎてしまう。当然写真に残っているのは楽しかった瞬間ばかりだ。誰も辛かった瞬間をコレクションしたりしない。

 でも、辛い思いや経験をしている人たちは間違いなく存在する。ニュースを見ていると離婚する芸能人夫婦や、理解しがたい事件に巻き込まれる家族は後を絶たない。

 そういう意味では、自分たちは本当に普通の夫婦だ。ささやかに幸せで、とんでもない不幸や頭を抱えるトラブルに巻き込まれたことなどない。

 いや、あった――。加奈はわずか一年前の自分を思い出し苦笑した。

 その夜、六平とそして原田から電話があった。

 加奈は二人に、理事長に立候補する旨を告げた。

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