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 管理組合と自治会の共催行事として、年に三回の共同清掃がある。四月、十月、十二月と住民総出で自らの住まいをきれいにしようというわけだ。

 十二月の今回は自治会仕切りとなる。当日、管理事務所前に集まった面々に向けて、原田が注意事項の確認をしている。

「今回は今年最後の大掃除となりますので、庇の上の清掃も行います。高所での作業になりますから、なるべく若い男性の方にお願いするようにしてください」

 原田はすっかり自治会の代表のような存在になっていた。夏祭りでの映像は好評で、実際にオレオレ詐欺電話を撃退したとの報告も上がっているらしい。さらに加奈とともにタウン誌に載ったことでちょっとした有名人にもなっている。

「あの原田って人、要注意だよ」

 肩口から声がして振り返る。いつのまにか加奈の背後に咲坂が忍び寄っていた。

「なんだか怪しい動きを見せてるんだよね。吉川さんもマークしてる人だから、市原さんも誤解されないように気をつけてね」

 咲坂はそう言うと音もたてずにいなくなった。

 原田は来年の市議会選挙に出馬する予定だ。彼女の頑張りはそれに向けてのアピールでもある。

 この話はごく限られた人しか知らない。それなのに原田は加奈にわざわざ打ち明けてくれた。咲坂には悪いが、今の加奈は吉川よりも断然に原田派だ。

「それではみなさん、張り切っていきましょう!」

 溌剌とした原田の掛け声とともに、皆がそれぞれの棟へと散らばった。

 

 J棟のピロティにはすでにたくさんの住民が集まっていた。

 強制参加ではないのにこれだけの人が集まるところに、自分たちの団地を愛する気持ちが感じられる。

 すっぽりとタオルを被ったオールドスタイルの老婦人から、スポーティーな運動着を着こなした御婦人、ジャージのお父さんがいれば、バンダナにサングラスのおじいさんもいる。少年少女の姿はないが、小学生低学年くらいの子供たちは張り切ってはしゃいでいる。きっと清掃後にもらえるご褒美のリンゴジュースがお目当てに違いない。

「寒いと身体も強張りますのでくれぐれも気をつけてお願いします」

 自治会棟幹事の挨拶が終わると、それぞれの住民が帚やブラシを手に取り、思い思いに散らばった。

 加奈も精力的に動いた。庇に登る男性陣のためにスライド式の脚立を支えたり、小さな鎌を片手に雑草を根こそぎ刈り取った。周りのおばさんたちは話に花を咲かせつつも、手の動きを止めることはない。サボろうなんて意識は誰からも感じられない。

「市原理事」

 庇の上を仰ぎ見ると、野本が立っていた。

「すまないが、G棟から脚立を借りてきてもらえないか」

 スポーティーな格好の野本はいつもより爽やかに見えた。こころなしか口調も優しく感じる。

「わかりました」

 加奈も清々しい返事を戻し、G棟に向かった。

 途中、ゴミ捨て場の裏で三、四人の子どもたちが集まっているのが見えた。何ごとかと首を伸ばすと、輪の中心でしゃがみこむ紫頭の老婆と目が合った。かつて怒鳴りつけてしまったことを思い出し、チクリと胸が小さく痛む。

「理事さん、ちょっと来てごらん」

 老婆が無邪気に誘いをかけてきた。なんとなくバツの悪い気持ちのままそちらに向かうと、そこには色鮮やかな草花が並んでいた。

「これがひなぎくでこっちはシクラメン。冬でも立派に花を咲かせるんだから、すごいと思わないかい?」

 老婆が得意げに顎を突き出した。子どもたちは花を囲んで感嘆の声をあげている。

「すべてご自分でお育てになったのですか?」

「……そうだよ、なんか文句あんのかい?」

 老婆の顔に警戒の色が広がった。ここは団地の共有スペースで勝手に花壇などこしらえてはいけない。

「いえ、華やかで温まる感じがしていいですね」

「そうだろ? 自分たちの団地は自分たちの手で綺麗にしなきゃいかんわね」

 老婆は顔をしわくちゃにして笑った。加奈はそれ以上、何も言わずに脚立を取りに戻った。

 G棟に着き、棟理事である小田島を見つけて声をかけた。

「脚立をお借りしたいんですが、よろしいですかね」

 小田島は年の頃は四十くらいの陰気な印象の男だ。常に沈んだような目で、理事会でもほとんど発言を聞いたことがない。

「倉庫にありますから適当にどうぞ」

 小田島は目も合わせずにくぐもった声で言った。

 加奈のJ棟に比べて、G棟は清掃の参加者が見るからに少ない。賃貸世帯が多く外国人の割合が高いことが原因だろうか。

 エレベーター脇の倉庫に入る。お目当ての脚立はすぐに見つかった。

 脚立を手に外に出ると、目の前の道路に黒塗りのベンツが止まった。運転手が後ろのドアを開けると、でっぷりとした脂っこい老人が降りてきた。その後にグレーのスーツを着こなした背の高い男が続いた。

 休日の団地に似つかわしくない二人が気になった。老人はたばこを吸いながら加奈の横を通り過ぎ、エレベーターの前で止まった。

「いつ来ても小汚い団地だな」

 老人の声が聞こえる。贅肉で声帯を塞がれたような声だ。

「おはようございます!」

 溌剌とした声が続きちらと目をやると驚いた。小田島がうやうやしく腰を曲げていた。

「わざわざすみません。今日は七階と五階の二部屋です」

 老人は小田島に目を向けない。二人の関係性が見てとれた。

「小田島さん」

 加奈はつい声を出していた。

「はい!」

 溌剌な調子のままの小田島は加奈に気づき、表情を曇らせる。

「ご存知の通り、当団地は禁煙です。それにあそこは駐車禁止場所ですよ」

 小田島は沈んだ目で加奈を見たまま何も言わない。老人には加奈の声すら聞こえていないようだ。

 エレベーターが到着し、老人はたばこを踏み消して乗り込んだ。小田島が続こうとする。

「ちょっと、小田島さん」

 加奈の声に反応したのは背の高い男だった。男が小田島に目配せすると、エレベーターは上昇していった。

「すみません。車はすぐに動かします。たばこも申し訳ありませんでした」

 男は腰を折り、吸い殻を拾った。向けられた柔和な笑顔に加奈は視線を下げた。丁寧に磨かれた革靴はどこまでもこの団地にそぐわなく思える。

「以後、気をつけてください」

 加奈はそのまま背を向け、脚立をかつぎあげた。

「今後は気をつけますのでどうかご勘弁を。市原さん」

 突然、自分の名が聞こえ振り返る。

「……どこかでお会いしましたか」

 加奈は警戒の色を隠さずに言った。

「いえ、『いきいき浦霞』を拝見したのです。おっしゃるようにこの団地の古き良きところは残していきたいですよね」

 男は柔和な笑顔を崩さない。そのことが逆にうさん臭く感じて仕方ない。

「失礼ですが、住民の方ですか」

「はい。908号室の浦上と申します」

 予想に反して浦上なる男は即答した。

「浦上さんはこの団地をお好きですか?」

 立て続けに聞いた。意地の悪い口調だと自分でも思った。

「もちろんです。でも全部が全部、好きだとは言えません。やはり三十年も過ぎれば、生活様式も変わって当然ですしね」

 百点の返答だと思った。浦上は言葉を続ける。

「今後もいいところは残しつつ、時代の流れに沿って変えるところは変えていきたいですよね。これは市原さんがおっしゃったことですよ」

 浦上を見上げる。その顔は変わらず柔らかい。

「そうですね」

 加奈は軽く会釈し向き直る。左肩が痛くなったので脚立を持ち替えた。 

 なんとも言えない違和感を抱えながら、加奈はJ棟へと向かった。なんでと言われてもわからないが、住人としての浦上を素直に受け入れられなかった。

「市原さん、早く早く!」

 垣根の向こうから加奈を呼ぶ声がした。おばさん集団が慌てた顔で手招いている。

「木の上に引っかかった洗濯ものが、カラスに狙われてるのよ!」

 加奈は足を早めながらつい笑ってしまう。やっぱりこの感じこそがこの団地にしっくりくる。

 なんとなく振り返るとすでに浦上の姿はなく、黒塗りのベンツも消えていた。

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