第二章 1

 だんだんと理事としての活動が本格的になるにつれて、皆が理事を敬遠する理由が身にしみてわかってきた。

 毎月の部会や理事会にくわえ、工事に伴う専門委員会、さらには業者打ち合わせなど、ほぼ毎週末になにかしらの集まりがある。そしてそれが二年間続く。

 加奈のもとには毎日のように閲覧書類が回ってきた。工事の見積もりや終了報告書、定期点検報告書、さらには住民からの要望書などのすべてを確認して捺印し、他の理事にまわさねばならない。

 なかでも住民からの要望書にはしかるべき対策を施設建築部会で検討し対応することになる。要望の内容はさまざまで、壁からの水漏れや通路部分の爆裂といった管理組合が補償、対応するべきものもあれば、物騒だから玄関の鍵を増やしてくれだとか、上階がやかましいので天井を厚くしてくれといったお門違いのものもある。とにかく九〇〇世帯もあれば、いろんな人がいる。

 その日の部会も、住民からの要望書がきっかけでひと悶着が起きた。

 通常、部会で使う資料や開催案内は副理事長の野本からパソコンメールで回ってくる。今回のメールの末尾には「判子を持参するように」との一文がさらっと添えてあった。

 部会自体は滞りなく進行し、さあ終了という時に、野本は全員の判子を集めた。皆の注目を集める中、野本は要望書と思しき書類に皆の判子を押し始めた。それはつまり、施設建築部会全員が了承したことを意味する。

「なにをしてるんですか?」

 野本と犬猿の仲である女性理事、咲坂が疑問の声を上げた。

「見ればわかるだろう。要望書に判を押してるんだ」

「それはわかります。その要望書はなんなんですかと聞いてるんです」

 野本は押印する手を止めない。

「これは個人を誹謗中傷したくだらないものだ。だから俺の副理事長判断で回覧はしなかった。皆の手を煩わせるまでもない」

「待ってください。今までだってそういう類のものでもちゃんと回してたじゃないですか。なぜ今回だけ回覧すらしないのですか?」

 判子を押し終えた野本が面倒くさそうに顔を上げ、咲坂をじっと見つめる。野本はいつも四秒ほど相手を見据えた後に口を開く。そこが相手を萎縮させ、時には恐怖を与える。今も、加奈を含めた他の理事たちは声を発せずに咲坂の動きを注視するのみだ。

「あんたはいつも仕事をしたがらないくせに、なぜそんなに気にするんだ。いつものように俺がやることを黙って見てればいい」

「なんですか、その言い方は。女だからってバカにしてるんですか?」

「バカにしてない。面倒でやっかいだとは思うがな」

 野本に笑いかけられた三人の老理事が揃って笑みを浮かべた。

「いいかげんにしてくれないとセクハラで訴えますよ」

「な、すぐこれだ」

 今度は老理事三人が声をあげて笑った。

「野本さん」

 恒例となりつつある二人の言い合いに割って入ったのは理事長の六平だった。「いいですよ。隠すようなことでもないですから」

 珍しく思い詰めた顔で六平は言った。

 野本は四秒ほど六平を見つめたあと、全員に顔を向け「それでは内容をお話しします」とぶっきらぼうに話し始めた。

「内部告発書。F棟706号室、小潮国治。現理事長の六平は、その立場を利用して、工事業者と癒着し、不当に金銭を受け取っている。まあ、まとめるとこんなところだ」

 続けて野本は要望書をひらひらさせながら、「こんなことはありえない。だから取るに足らない。以上で今月の部会は終了とします」と言い切って帰り支度を始めた。

 場がにわかにざわついた。皆が戸惑いの色を隠せずにいる。

 当の六平はすまなそうに視線を下げたままでいる。無罪潔白ならもっと強硬に胸を張ってほしい。

「失礼ですが、それが事実ではないと証明できるんですか?」

 咲坂が強い口調で言った。舌打ちした野本の顔には「やっぱりお前か」とはっきり浮かんでいる。

「六平さんはそんなことをする人間じゃない。これが証明だ」

「え、あなたの裁量で真実が決まるんですか? あなたって独裁者かなにかですか?」

 咲坂が呆れたように鼻を鳴らした。野本は反応せずにだるそうに首をさすっている。

 気まずい雰囲気が漂いはじめる。咲坂は追求の手を緩めない。

「六平さん、説明していただけますか」

 顔を上げた六平の眉間に皺が寄っている。これも珍しい表情だった。

「本人の弁では説得力がないかもしれませんが、私はそんなことをしておりません。祖先に誓って言い切れます」

 六平は笑い飛ばしたりせずに実直な物言いで訴えた。

「そうですね、理事長のおっしゃる通りです」

 咲坂が意外なほどあっさりと受け入れた。

「理解していただけますか」

 六平がほっとした顔で目を細める。

「はい、理事長のおっしゃる通り、本人が言っても説得力がありません。何の証明にもなりません」

 どうだ、と言わんばかりに咲坂は胸を張った

 加奈はその他大勢のひとりとして黙って聞いていた。とても自分に関係のある話だと思えなかった。正直なところ、早く終ってくれればどっちでもいい。

「まあまあ、咲坂さんもさ、いったん落ち着こうよ」

 しゃがれながらもマイルドな声を響かせたのは、今回から部会に参加している管理組合顧問の夏川だった。

 定年まで建設業界に身を置いた夏川は、豊富な専門知識と実務経験を持っている。ただ、理事ではないので基本的に話には加わらず議決権もない。素人が集まる理事会における相談役のような立ち位置だ。

「あのね、六平さんが個人的に癒着するなんて現実的に考えて無理なんだよ。業者の選定だって工事の金額だってこの部会を経てさらに理事会の承認を得なければならない。注文書の写しにだって皆の判が必要だ。やるとしたら副理事長の野本さんと六平さんがグルで、管理会社の事務員さんも抱き込まないと無理かな」

 夏川は小柄ながらもどっしりとした風格がある。自信と余裕に満ちた話し方は説得力がある。

「でも、無理ではないってことですよね、三人がグルになれば」

「そりゃそうだけど、参ったねこりゃ」

 夏川は苦笑いして短く刈り揃えた白髪を掻いた。

「それじゃあ、咲坂理事には経理部会に出席してもらって、決算報告をつぶさに洗い直してもらおうか。出入金の流れや積立金、債券の現状もすべて調べあげて報告してもらいましょう」

 得意げだった咲坂の顔が強張った。

「なんでわたしがやらなきゃいけないんですか。わたしには仕事も子育てもあるんですよ」

「だってしょうがないじゃない。経理部会が出した決算報告書をあなたは信用できないんでしょ。二度手間で相当な時間が掛かると思うけど頼みますよ」

 咲坂が黙った。周りを窺うものの誰も彼女に目を向けない。

「僕が言ったって説得力はないんだけど、六平さんはそんなことしないよ。ひとつ今回は矛を収めて、今後も部会の皆でより目を光らせるってことでどうかな」

 夏川が建設的な提案をする。皆が頷く中、咲坂だけが矛を収めきれずにいる。

「咲坂さんのような人がいてくれれば、これからも安心だよ。ねえ?」

 話を振られた老理事三人組が大きく頷いた。

「……完全に納得したわけじゃありませんが、今日のところはわかりました」

 咲坂がようやく矛を収めた。

「さらにね、こんなこと言いたくないけど、この要望書を出してきた小潮さんってのはちょっと酒にやられちゃってて評判の人なのよ。だって内部告発書とか怪文書って、普通は匿名で出すもんだろ?」 

 夏川の言葉に笑いが起こり、いっきに場が和んだ。

「まあ、小潮さんより無茶苦茶なこと言ってくる人もいるけどね」

「夏川さん、それは砂村のことじゃな!」

 老理事三人組の長男格が俊敏な反応をみせた。

「僕は名前までは、言ってませんからね!」

 場がさらに沸き上がるのを、加奈は一歩引いた目で眺めていた。

 同じ老人とはいえ色々なタイプがいるもんだと見ていると、ひとり笑顔が硬いままの六平が気になった。


「帰ったよー」

 部会を終えて家に戻ると、公介がリビングの隣の洋室で段ボールの山に囲まれていた。この部屋は引っ越した時のまま片づけがすんでいなかった。いらないものは思い切って捨てるように、今朝方、公介に頼んでおいたのだ。

「お昼はパスタでいい?」加奈が顔を覗かせて言うと、

「お、ちょうどスパゲティ食べたかったんだよね!」と元気な声が返ってきた。

 この洋室が片づいたら、パソコンを置いてちょっとした自宅オフィスにするつもりだ。毎日の通勤は無理でも、少しずつ社会復帰を果たしたい。

 このことはまだ公介には言っていない。まだ確実に実行する自信がちょっとない。

 食卓で二人、ナポリタンを挟んで向き合った。

 ソースはレトルトだけど、フライパンで炒めてイエスで買ったガーリックチップを加えてみた。それだけでもなんとなく料理をした気になって嬉しい。

「最高に美味しいじゃん!」

 公介が子どもみたいに口一杯に頬張っている。こういう姿を見ると、手料理へのモチベーションは上がる。

「もうスパゲティは高い金払って外で食べる必要ないね」

 彼はパスタと言わずにスパゲティと呼ぶことにこだわる。スプーンを使わずに食べるのも公介のこだわりのひとつだ。

 食べながら、ほんの世間話のつもりで部会での話をした。二人前をぺろりとたいらげた公介の見解は意外なものだった。

「六平さんもそれなりのリスクを背負ってるわけだし、べつにいいんじゃない? ああいう役人だった人は賄賂とか当たり前だったから、悪いことしてる実感がないんだよ。古い慣習ってやつだね」

 彼の中で六平はすっかり元高級官僚扱いだ。

「じゃあ、公介は六平さんが黒だっていうわけ?」

「きっとさ、つまんない毎日に刺激が欲しいんだよ。スリルを求めて万引きする金持ちのじいさんとかいるみたいだし」

 なるほど。加奈は黙って丸めたパスタを口に運ぶ。

「安定した老後って聞こえはいいけど、意外と退屈なんじゃないの? 楽しみは孫の成長くらいって感じで」

 公介の言葉にふと秋田で暮らす父親の姿が浮かんだ。

 郵便局に勤める父親は毎日決まった時間に帰宅し、晩酌しながらきまってくだを巻く人だった。思春期の頃は典型的な内弁慶の父親を軽蔑したもんだが、今ではそんな生活を同情する気持ちもある。孫の成長も楽しめない両親はなにを楽しみに生きているのだろう。

 加奈と両親の関係はいたって普通だと思う。付かず離れず、必要なことがあれば連絡し、ごくごくたまに用もなく母親に電話をかけることもある。小さな悩みは話せるけれど、大きな悩みは言い出せない。そんな普通の関係だ。

 今年のゴールデンウィークは実家に戻らなかったので半年ほど会えていない。連絡もずっと取っていない。加奈が退社したことも両親は知らない。

「どうした?」

 公介に言われて、パスタを巻いたままフォークが止まっていたことに気づく。

「あ、ごめん。ちょっとぼおっとしてた」

「加奈の直感はどうなのって聞いてんの」

「六平さんのこと?」

「他になにがあんのよ」

 頭を切り替えて考える。加奈の直感は、白だ。六平がわざわざ危ない橋を渡る必要などないと思う。ただ経験上、まさかこの人が? という人間が横領や使い込みをすることも知っている。

 でも、加奈は自分の直感を信じたかった。本来の自分は直感の鋭さを頼りにしていた。

 最終的に二つの広告デザイン画が上がってくる。どちらがよりクライアントの意思を汲んだものか、どちらが購買意欲を刺激できるものなのか。テクニカルな方法論はもちろんあるが、最後に頼るのはアートディレクターとしての自分の直感だ。

「六平さんは白、グレイからもいちばん遠い真っ白の白」

 加奈は言いきった。

「じゃあ、白だ。六平さんは紅組からいちばん遠いノンケの白だね」

 公介も微妙な例えを持ち出して言いきった。不思議なことにこの人にそう言われると自信が湧いてくる。

「でもさ、安定した老後って羨ましいよな」

 加奈がお皿を重ねていると公介がぽそりと呟いた。口の端にケチャップをつけているのに、妙に大人びて見えた。胸がチクリとした加奈は、何も言わずに食器を片付けた。

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