第13話

 就職後、初の週末を真知子は満喫していた。

 普段働いているせいか、休息とのメリハリがついている。いつも休んでいるような毎日の時は休日の実感もありがたみもわからなかった。

 

 昨日は商店街の楽器屋へ行った。完全に朝霞の影響である。そこで店員にうまくおだてられ、初心者用のベースギターを買った。ベースを選んだのは弦が四本で簡単そうだったからだ。

 いちおう仕事のためだと領収書をもらっておいたが、楽器を弾いてみたいという個人的な衝動は大きかった。

 家に帰り早速練習してみたのだが、すぐに指先が痛くなった。店員が言うには真知子はベースを弾くために生まれたような指をしているらしい。ならば練習しなくてもそのうち上手くなるだろうと、真知子は一日中ベースにどんな装飾をしようか考えていた。朝霞たちの楽器もステッカーやらペイントやら派手に装飾されていた。

 

 そして今日は、朝霞たちのバンドの練習を見に練習スタジオへと向かう予定だ。バンドのメンバーと顔合わせをして士気を高めようというわけである。

 こちらの本気度を示すために真知子はベースを担いでいくつもりでいる。時間があればベース担当の人に教えてもらったっていい。

 電車を降りて駅前の雑踏を歩く。あいにく今日は朝から雨だ。傘を差しながらベースを担ぐのは非常にかさばった。人ごみを不器用に歩く真知子は周囲から煙たがられていたことだろう。

 耳に挿したイヤホンからは、聖飢魔Ⅱの曲が流れている。昨日立ち寄ったCDショップで「化粧してて激しい人たちのCD」をリクエストしたらこれを薦められたのだ。デーモン小暮の存在は知っていたが歌を聴くのは初めてだ。一緒に薦められたKISSよりも聖飢魔Ⅱの方が気に入っている。何しろ演奏が激しくて速い。

 スタジオに到着した。もっと地下深くの薄暗い場所なのかと思っていたが、明るく綺麗な建物だった。受付で予約を確認し、ロビーで座って待つことにする。

 広々としたロビーには見るからにバンドマンな若者がたむろしている。意外と女の子が多いので驚いた。防音扉越しにバンドサウンドが鳴り響いている。扉が開くとリアルな音の塊が輪郭を伴って飛び込んでくる。真知子は知らない世界へ足を踏み入れた自分にワクワクしていた。

 待つこと十五分。いくら待っても朝霞が来ないので、予約してある部屋に入ってみた。他のメンバーもまだ来ておらず、その六畳ほどの部屋に真知子は一人佇んでいた。

 向かいの壁は全面が鏡で覆われていて、大きなスピーカーがいくつも置いてある。初めて間近に見たドラムセットは思ったよりも大きくて貫禄があった。

 この閉め切った空間で爆音を掻き鳴らすのか――。

 朝霞たちがここで演奏しているのを想像すると、本気の人だけが入ることを許された厳粛な空間に思えてきて、真知子は気を引き締めた。

 他のメンバーについて思いを巡らせる。小柄で体中にミミズバレの浮かぶドラムの上海ワタナベよりも、腹筋が六個に割れた逆モヒカンのベーシスト、Y_ahikiの方が真知子のタイプだ。とにかく躍動感がある演奏をしていたのを覚えている。

 恐る恐るシンバルなどを叩いて遊んでいると、スタジオの扉が開いた。真知子は悪戯が見つかった子どものように直立し背筋を伸ばした。そしてわが目を疑った。目の前にはむくみきった、薄汚れた顔の豚がいた。


 傘も差さずに来たのか、その傷んだ髪の先からポタポタと雨を滴らせ、朝霞は朦朧とした目つきで薄ら笑いを浮かべている。汗と酒の匂いを漂わせ、その無精ひげを見るに風呂に入っていないことも容易に想像できた。よくこんな状態で電車に乗れたものだ。

 朝霞は床にドスンと腰を下ろし、驚きで動けない真知子をさらに驚かせる言葉をその臭い口の穴から吐き出した。

「悪いけど、あれだ。もう止めっから」

 真知子は何ひとつ理解できなかった。

 ダイエットをしているはずの朝霞が、バンドの練習をするはずの場所に手ぶらで現れ「もう止めだ」と腹の肉を掻いている。


「あの、まったくもって意味がわからないんですけど……」

「わかんないかな~」朝霞は今も酔っ払っているようで「もうバンドを辞めるって言ってるんですよ~」

 と口角の下がったブルドッグのようにヘラヘラ笑っている。

「あの、【GB】へのチャレンジはもう来週ですけど……」

「だ~か~ら~、バンドを辞めるんだから【GB】も止めるんですよ~。俺はロッカーだから自由なんだよ~」

 朝霞は見るからに投げやりな態度でスニッカーズを取り出しボリボリ食べ始めた。


 真知子は推測した。きっと彼はプレッシャーに押し潰されて現実逃避しているのだ。

 不貞腐れた豚に接するように、真知子は優しく語り掛ける。しかし朝霞は「俺は悪くないよ~。時代が悪かっただけ~」と現実から逃げ続けている。

 真知子は我慢強く自分に言い聞かせる。これは試練だ。このチャレンジを終えて、最高の達成感を得るための障壁なのだ。

 目の前にいるのは愚かな哀れ豚。自分がうまく冷静に手綱を操らねばならない。

「朝霞さん、不安なのはよくわかります。でも、私を信じていれば絶対に大丈夫ですから」

「もういいんだって。俺はさ、あんたなんかが近寄れるような安い男じゃねえんだから」

 その通りだ。朝霞には既に【GB】チャレンジのコンサルタント料金が発生している。途中キャンセルがいくらになるかはわからないが、少なくとも十万円近くのお金はかかるはずだ。

 心配した真知子がそれを告げると、朝霞は「十五万だっけか? ほら、今払ってやるよ」と財布の中身を床にぶちまけた。

「釣りはいらねえよ」と顎肉を震わせているが、わざわざ数えるまでもない。一万円札は一枚も見当たらない。


 この男はなんて哀れなのだろう。わざわざそのしみったれた退屈な世界から引っ張りあげてあげようとしているのに、真知子が垂らす蜘蛛の糸が見えていないのだ。

 「推測で人を語るな」

 矢口の言葉が頭をよぎる。まさか朝霞は真知子が思う以上に、気弱な男だったのだろうか。


「朝霞さん、もう止めにしましょうよ。あなたはそんな人じゃないはずです。私にはわかります」

「あれ~、勝手に仲良し発言。そんな人ってどんな人?」

「だって、私に言ったじゃないですか。俺は本気だ、なんだって努力して克服して見せるって。朝霞さん、まさか私を騙したんですか?」

「騙してなんかないよ。あんた、最初に言っただろ? この関係はビジネスだって。金は払ったんだから、文句はな~~んもないはずじゃん」


 閉め切られた空間に朝霞の引きつった笑い声が反響する。真知子は落ち着こうと朝霞から顔を背けたが、鏡に映る朝霞が目の前にいた。


「俺はさ、あんたがあまりにも一生懸命だからちょっと構ってやっただけだよ。……なあ、大井ちゃん、あんた処女だろ?」


 真知子は鏡越しに朝霞を思い切り睨み付けた。しかし、今やシジミのように目をしょぼつかせた朝霞は気づくはずもない。朝霞は「そうか、処女か~」とゲスな笑いを繰り出して立ち上がり、真知子のベースを見つけた。

「これ、大井ちゃんの?」

 真知子は声を出さずに頷いた。

「ベースも処女ってわけか」

 自分の言葉に笑いながら朝霞は勝手にケースからベースを取り出した。怒りと哀しみが渦巻いている真知子は顔を上げることができずにいる。そして、真知子は唇を強く噛みしめ湧き上がってくる感情を耐えた。

「ベースの人に教えてもらおうと思って持ってきたんですよ……」

「ベースの人?」

 朝霞がひときわ大きな声で笑い出した。「そんなのいねえよ。バンドは解散したって言っただろ? 俺一人じゃバンドって言えましぇ~~ん」

 

 この人は嘘をついている。なぜかと聞かれてもわからないが、何かを隠している人の態度だと真知子は思った。鏡の中の朝霞が近づいてくる。振り返るとすぐそこに朝霞がいた。朝霞は両手を壁につき、覆い被さるように真知子を見下ろした。臭い息が匂いではなく塊として真知子の鼻に飛び込んできた。

「それじゃあ俺が、処女の大井チャンにベースを教えてあげなきゃね」

 朝霞が真知子の髪の毛に触れたので、反射的にその手を振り払った。

「……なんで、ですか?」

「なんで、って男と女が二人きりだからだよ。処女にはわかんないか?」

 違う。真知子が聞きたいのは「なんでせっかくのチャンスにしがみつかないんですか?」だ。

 真知子の真意が伝わったのか、朝霞は素早く二度ばかし目を泳がせると真知子から離れた。そして真知子のベースを担ぎ鏡に向かって弾き始めた。真知子とのこれ以上の会話を拒絶しているように見えた。

 きっと朝霞は今までもチャンスをこうしてみすみす潰してきたのだろう。その度に、自信を失くし運が悪いと自分を納得させてきたのだろう。だからこそ腹が立つ。チャンスとはそう何度も舞い降りてはくれない。今がその時なのだ。この豚はなんで私の言うことを聴こうとしないのだ。

 

 朝霞が手を止め、フンっと自嘲するように鼻で笑った。自分の馬鹿さ加減にようやく気づいたのかと真知子は朝霞の動きを待った。

「なんだよ、このだっさいペイント!」

 じわじわと笑いがこみ上げてきたようで朝霞は鼻を鳴らしてむせこんでいる。

 最悪だ。この二重あごの三段腹はもう私の手には負えない。決して口には出さないが、このまま死んでしまうのが彼にとって幸せなんだろう。

 死人を目の前にしていると思うと自然と心が落ち着いた。

「あのさ~、普通は憧れのバンド名とかフレーズを書くんだよ。誰だよ、山本五十六ってよ!」

 朝霞は腹を抱えて咳き込んでいる。郷土の誇りである偉人を馬鹿にされた真知子が冷静さを保つのは限界だった。

「死んじまえ、この豚!」

 真知子はそう吐き捨てて朝霞の横っツラを引っぱたいた。


 朝霞の頭がグラリと後ろに垂れた。真知子の手がヌルリと脂ぎる。ゾンビのようにゆっくりと頭を戻した朝霞の答えは「ブーブー」だった。

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