3.揺り籠をさまよう螺旋-1

 草薙家に戻ったルイフォンが、まず初めにしたことは、女装変装を解くことだった。

 一目散に風呂場に向かい、服を脱ぎ捨てる。メイクヘアメイクを重点的に、全身のけがれを落とすかのように、ごしごしと洗う。

 女装変装に協力してくれたユイランと、彼女の仲良しの美容師には悪いが、用が済んだら一刻も早くの姿に戻りたかった。あまりにも違和感のない自分の女装変装姿に、彼の心は、すり切れそうだったのである。

「生き返った……」

 脱衣所に出てきたルイフォンは、放心したようにひとつ。

 ふと。

 視界の端に、彼が脱ぎ捨てた服を認めた。

 ユイランの服を無邪気に喜んでいた女王の笑顔が浮かんできて、彼は慌てて脱衣籠の中へと移す。いつもなら、ただ放り込むところを、不可思議な『ひらひら』をどうにか折り畳み、彼なりに綺麗に整えた上で――。



 王宮からの帰りの車の中で、ルイフォンは、メイシアを含めた草薙家の人々と、藤咲家のハオリュウ、それから、鷹刀一族――それぞれへの第一報を済ませていた。内容は勿論、ヤンイェンとの対面の顛末である。また、ユイランが大変、女王に気に入られ、衣装の依頼は順調であることも伝えておいた。

 ヤンイェンとの接触が叶ったら、ルイフォンは関わりのある者たちを集めて会議を行うつもりだった。摂政が目を光らせているため、少々、やりにくいがリモートでの開催である。

 しかし、今日のヤンイェンの様子を思い返すと、皆で額を寄せ合うのは時期尚早と判断せざるを得ない。それで、草薙家には、風呂から上がってすぐに口頭で説明したものの、藤咲家と鷹刀一族には、詳細を記した報告書を送るにとどめることにした。

 実のところ、ルイフォンはヤンイェンに会う前に、はらの中で『ライシェン』の未来を決める算段アルゴリズムを完成させていた。

 まずは、ヤンイェンに、自分の手元で『ライシェン』を王にしたいか否かを問う。

 そして、Yesのときは更に尋ね、『オリジナルの記憶を入れない』という条件が承諾Yesである場合にのみ、ヤンイェンに『ライシェン』を託す。

 それ以外のときには、レイウェンとシャンリーを『ライシェン』の養父母とする――。

 しかし、ヤンイェンは『今すぐには決められない』と告げた。

 ……さすがに、即答は難しかったか。

 嘆息しつつ、ルイフォンはキーボードに指を走らせた。

「よし。こんなもんかな」

 報告書を仕上げ、回転椅子の背もたれに、ぐいと寄りかかりながら猫背を伸ばす。一本に編まれた髪の先で、金の鈴がきらりと揺れた。やはり、いつもの髪型は落ち着いた。

「お疲れ様」

 同じ部屋で料理の本を読んでいたメイシアが、すっとそばにやってきて、労いの言葉を掛けてくれる。

「ああ。さすがに疲れたな……」

 癒やしの微笑みに包まれ、素直な気持ちがいて出た。惹き寄せられるように立ち上がり、彼は彼女を抱きしめる。

 華奢な肩は、鷹刀一族の血を引く者としては、あまり体格が良いほうではないルイフォンの腕の中にも、すっぽりと収まった。指先が、半袖から伸びた彼女の腕に触れると、驚くほど柔らかな弾力が返ってくる。黒絹の髪に顔をうずめると、首筋から、ほのかに肌が香る。

「メイシア……、俺…………」

 彼女の名を呼んで、何を言おうとしていたのか、自分でも分からなかった。けれど、彼の背に回されていた彼女の手が、そっとほどかれ、彼の前髪をくしゃりと撫でた。

「おかえりなさい」

 澄んだ声が、優しく響く。

 彼女は何故、そんなことを言うのだろう? それは彼が草薙家に帰ってきたときに、既に交わし終えた挨拶のはずだ。

『おかえりなさい』

 耳の中で、彼女の声が木霊こだまする。彼を迎える言葉が、心に染み入る。

「……俺、ヤンイェンに会ってきたよ」

 口から、こぼれ落ちたのは、そんな台詞。

 とっくに伝えていることを告げたのに、彼女は、ごく自然に「うん」と頷く。

「セレイエは、ヤンイェンの腕の中で死んだそうだ。――セレイエの奴、やっぱり、根性でヤンイェンのもとに、たどり着いていたんだな……」

 メイシアの息遣いが乱れた。

 不規則な呼吸がルイフォンの胸元に掛かり、それから、わずかに遅れて「うん」と返ってくる。

「……ヤンイェンに会えば、『ライシェン』の未来が見えてくると思っていた」

 ルイフォンは猫背を丸め、ぽつりと漏らす。

 ヤンイェンの意向を聞けば、方針が決まる。『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』の結末に向けて、一気に物ごとが進み出す――そんな気がしていた。

 ……期待していたのだ。

「けど、現実は、そんなに単純じゃなかったんだ」

 この世で唯一の〈神の御子〉の男子である『ライシェン』の運命は、彼だけのものではない。

『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』は、これまでに多くの人を巻き込んできた。

 そして、この先も、大きな波紋を広げていく。

 ルイフォンは唇を噛み、押し黙る。

 遠くで、風鈴が、ちりんと鳴った。

 戸外には緩やかな風が流れているのか、少しの間を置きながら、ちりん、ちりんと繰り返す。

 涼やかな音色に支配された世界で、メイシアの指先が、ゆっくりと動いた。

 一本に編まれた彼の髪をすくい上げるように、くしゃりと絡め取る。毛先に留められた金の鈴が、静かな光を放つ。

「ルイフォンは、ヤンイェン殿下に落胆がっかりしたの」

 凛と響く声は、問いかけではなくて、断定だった。

「メイシア……?」

「私も、同じだから。殿下は、もう少し何か、おっしゃると思っていたもの」

 美しい花のかんばせは、毅然と彼を見上げながらも、柔らかに笑んでいた。

 ルイフォンは息を呑み、それから、メイシアの肩に、ことんと額を載せる。華奢な体は彼を受け止め、しっかりと支えてくれた。

 軽く目を閉じ、彼女を抱く腕に力を込める。――すがるように、甘えるように。そして、「聞いてくれるか?」と、彼女の耳元に囁く。

「ヤンイェンと敵対するなら、俺は、それで構わねぇ、と思っていた。――けど、彼は何も決断しなかった。全部ひっくるめて、『今すぐに何かを決めることは、とてもできない』だ。『ライシェン』の未来そのものじゃない、記憶の件に関してさえ触れてこない。そんなのありかよ!? これじゃあ、敵対すらもできねぇじゃねぇか!」

 腹の底で、くすぶっていた思いを解き放つ。

 ひとこと発するごとに、ルイフォンの心は軽くなっていく。

「勿論、彼の事情も理解できる。だから、俺は冷静に対処した。短気なんか起こしてねぇ。完璧に静観ポーカーフェイスを貫いた自信もある。それに、ヤンイェンは風変わりだけど、悪い人じゃない。俺の心情も考えてくれていた。思慮深い人だ。――でも……!」

 無意識のうちに早口になっていた。

 不足してきた酸素を補うように、彼は一度、言葉を止め、息を吸い込み……、吐き出す。

「細けぇことはどうでもいいんだよ! けど、ヤンイェンが動かなきゃ、何も進まねぇんだよ! ふざけんなよ! 『ライシェン』は、お前の子供ガキだろうが!」

 我儘な怒りだと、理不尽な憤りだと、自覚していた。だから、口に出さないように、報告書の文面に表れたりしないように、自制していた。

 けれど、メイシアには……。

 ふと、顔を上げれば、彼を見つめる黒曜石の瞳は、どこまでも深い色合いで。優しい眼差しは、愛しげに彼を包み込んでいた。

 ――そういうことか。

 ルイフォンは、ようやく気づいた。

「メイシア」

「うん?」

「ただいま」

 彼の言葉に、薄紅の唇がふわりとほころぶ。

「おかえりなさい」

 鈴を振るような声は細く、儚げだけれど、凛と強い。

 弱音も鬱積も、すべてを受け止めてくれる、彼だけのかいなの中へ、彼は帰ってきたのだ。



「さっきは思い切り不満をぶちまけちまったけどさ。ヤンイェンの態度は、至極、まっとうなものなんだよな。……俺も、理性では分かっているんだ」

 メイシアが淹れてくれたお茶を飲み干し、ルイフォンは呟いた。低い温度での抽出で、リラックス効果が高いという、柔らかな茶葉の香りが部屋に漂う。

「たぶん、俺はさ。ヤンイェンが予想外に冷静だったから、肩透かしを食らったんだろうな」

「予想外に……冷静?」

 わずかに首をかしげたメイシアに、ルイフォンは「ああ」と応える。

「『ライシェン』のことを知らせたら、ヤンイェンはまず、『息子『ライシェン』にひと目、会いたい』と騒ぎ出す。――俺は、そう信じていたんだと思う。『ライシェン』の未来のことや、記憶のことはさておき、『とにかく会いたい』って、な」

 自分で言いながら、すとんと腑に落ちた。

「俺は、ヤンイェンが取り乱すところを見たかったのかな?」

 我ながら人が悪いなと、おどけて肩をすくめると、メイシアが困ったような笑みを浮かべる。

「いざ実際に、ヤンイェンが『『ライシェン』に会いに行く』と行動を起こしたら、困るのは俺のほうなのにな」

 ルイフォンは苦笑しつつ、癖の強い前髪を掻き上げた。

 ヤンイェンには摂政の監視の目が光っており、『ライシェン』は極秘で鷹刀一族の屋敷に保護されている。この父子の邂逅を実現すれば、いたずらに摂政の魔の手を呼び寄せる結果になりかねない。

 それを重々承知しているからこそ、ヤンイェンは沈黙しただけだ。その証拠に、彼は『ライシェン』の写真を見つめながら、『君に会いたいよ』と呟いていたではないか。

「俺は、まだまだ子供ガキで、ヤンイェンは大人だった――ってことなんだろうな」

 自嘲するように、ルイフォンが漏らした瞬間、メイシアの鋭い声が響いた。

「ルイフォンは格好いいから、いいの!」

 声を張り上げて叫んでから、何もそこまでの大声は必要なかったと気づいたのだろう。彼女は顔を赤らめ、口元に手を当てる。

「……えっと、私はその……、ルイフォンの、ルイフォンらしいところが……好きなの」

 しどろもどろになりながら、可愛らしくも、いじらしい懸命の弁舌フォローが入る。ただし、『まだまだ子供ガキで』の部分を否定しているわけではないところが、嘘をつくことのできないメイシアらしい。

「ありがとな」

 愛しさがこみ上げ、ルイフォンは晴れやかな気分で破顔する。彼女がそばに居てくれる幸せで、全身が満たされていく。

 軽く目を閉じると、遠くで風鈴が、ちりんと鳴り響いた。

 それと重なるように、こぽこぽと優しい音を立てながら、メイシアがお茶のおかわりを注いでくれる。柔らかな香りが鼻腔をくすぐり、気持ちが安らいでいく。

「メイシア」

 不意の呼びかけに、彼女は不思議そうに「うん?」と振り向いた。

「ええと……、すまん。本当は、報告書を書き終えたら、ヤンイェンのこととか、今後のこととか、お前と真面目に話そうと思っていたんだ」

「うん……?」

 髪を掻き上げ、面目なさそうなルイフォンに、メイシアは、ますます疑問を強めたように瞳をまたたかせる。 

「けど、その話は、ヤンイェンの肩を持つというか、親身になって考えるような方向ものだったもんで、つい、彼に対する、むしゃくしゃした感情が先立って、爆発しちまった――ってわけだ。なんで、あんな奴のために、俺が頭を悩ませなきゃならねぇんだよ、ってさ」

 正直な気持ちを告げれば、メイシアは、ふわりと笑った。

「真剣に考えるからこそ、感情的になるの。凄く、ルイフォンらしい」

 小さな声で「そういうところも、好き」と付け加えられたのも、しっかりと聞き取ったが、あえて聞こえなかったふりをした。非常に嬉しいが、あまり彼女の肯定優しさに甘えてばかりいると、駄目人間になりそうだからである。

「そんなわけで、――ここから真面目な話、な?」

 そう言って、ルイフォンは襟を正す。伸ばされた猫背に、メイシアも顔色を変え、彼に倣うように口元を引き締めた。

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