2.高楼の雲上人たち-3
「まさか、そんなことになっていたとは思わなかったよ……」
ルイフォンから『デヴァイン・シンフォニア
悲痛な顔を見せる彼に、ルイフォンは、ごくりと唾を飲む。
必要なことは、すべて話した。
では。
次に、どう出る?
猫の目を見開き、ヤンイェンの口元をじっと凝視する。
「すまない。考えるべきことが多すぎて、今すぐに何かを決めることは、とてもできない」
「……!?」
虚を
はっきりとした返答でなくてもよい。だが、『セレイエの願いには応えられない』と、きっぱりと告げたルイフォンに対して、好悪の感情のような――この先の『旗色』を示すようなものが見えてくると、信じていた。なのに、まるで何も読み取れなかった。
思わず、腰を浮かせかけたルイフォンであるが、弱々しく頭を下げるヤンイェンを前に押し黙る。
「ライシェン……」
話の途中で渡した写真に、ヤンイェンは切なげな視線を落とした。ぽつりとした呟きのあとには、「君に会いたいよ」という、かすかな音律が溶けていった……。
少なくとも、状況を説明することはできたのだ。それだけでも収穫とすべきだろう。
それから、メイシアの助言の通り、凍結保存の『ライシェン』の写真を渡したのもよかったと思う。『私は、人の世には関わらないのよ!』と、文句たらたらの〈ベロ〉をなだめすかして、鷹刀一族の屋敷から送ってもらった甲斐があった。
――今日のところは、ここまでだ。
ルイフォンは、ヤンイェンを促した。そして、女王のいる隣室へと戻ろうとしたときだった。
「きゃああ! ヤンイェンお
絹を裂くような悲鳴に続く、ばたばたと慌ただしげな足音。更には、がたんっ、という派手な振動まで伝わってきた。
天上の音楽もかくや、という美しい響きでありながら、
今、まさに扉を開けるべく、取っ手をひねったところであったヤンイェンは、やれやれ、といった
「粗忽者の
面目なさげに謝りながらも、先ほどまで深い陰りを見せていた美貌を、ふっと和らげる。
「ああ、いや……」
仮にも、
「当分、掛かりそうだね。悪いけれど、待ってやってくれるかな」
「ああ、別に構わねぇよ」
ルイフォンは苦笑した。ヤンイェンが謝るそばから、『あ、あっちの服も着てみたいの!』という女王の声が聞こえてきたのだ。どうやら、ルイフォンが助手として運んできた大荷物――大量の
「ありがとう。……あんなに楽しそうなアイリーは久しぶりだ」
目を細めて微笑むヤンイェンに、ルイフォンは、あれ? と思う。隣の部屋にいたときは、確か『陛下』と口にしていたはずだが、どうやら非公式の場では『アイリー』と名前で呼んでいるらしい。
「女王とヤンイェンって、仲がいいよな?」
先ほどの髪飾りのひと幕は、女王が憧れの仕立て屋であるユイランと打ち解けるために、ヤンイェンがひと肌脱いで、段取りを決めておいたものだろう。
加えて、本当は
摂政の弁によれば、女王は
「ああ、そうか。君からすれば、私とアイリーの仲は、奇妙に感じるかもしれないね」
目尻を下げていたヤンイェンが、にわかに真顔になる。
「その理由は、私の母だよ。……体の弱い人だったから、もう亡くなってしまったけどね」
「え?」
唐突に出てきた存在に、ルイフォンは戸惑う。
「母は、自分と同じ境遇のアイリーのことを、ずっと気にかけていたんだ。よく自分のもとに招いては、王家のことや、身を守ることの大切さを教えていたよ。それで自然と、私とアイリーが一緒の時間を過ごすことも多くなってね」
「えっと? 『同じ境遇』で『身を守る』って……?」
随分と、穏やかならぬ発言である。
どういうことだ? と、首をかしげるルイフォンに、ヤンイェンは苦い口調で答える。
「私の母も、アイリーも、『〈神の御子〉の女性』だろう?」
「あ……」
「母は王位にこそ就かなかったけれど、結局、降嫁した先で、〈神の御子〉を産むことを強要されたんだ。彼女が〈神の御子〉を産めば、その子は王位継承権を持ち、婚家は何かと重要視されるようになるからね」
典麗な顔をしかめ、ヤンイェンは唇を噛んだ。
「でも、生まれたのは黒髪黒目の娘が四人。〈神の御子〉どころか、女では
「なっ……!」
「母を救ったのは、父――先王陛下だよ。事実を知るや否や、母と夫の
それから、彼は、わずかに声を落とす。
「……母が私を産んだのは、父に手籠めにされたからではなくて、次代の王の誕生を望む父に、恩返しができれば――という感情からなんだよ。残念ながら、私は〈神の御子〉として生まれることはできなかったけどね」
「……」
思わぬ事実だった。
ルイフォンが軽い衝撃を覚えていると、ヤンイェンが、少し気まずそうに「横道にそれたね」と呟く。
「そんな母だから、アイリーの将来を心配して、『
ヤンイェンの母と同じく、
「私も、年の離れた
「なるほどな」
相槌を打ちながら、ルイフォンは気づく。
この世で唯一の『〈神の御子〉の男子』である『ライシェン』の未来は、隣で無邪気に着替えている女王の将来にも、大きな影響を及ぼすことになる。
もし、『ライシェン』が王になる道を選べば、彼女は王位から――そして、〈神の御子〉を産まねばならぬ、という重責から解放される。しかし、『ライシェン』が養父母のもとで、平凡な子供として生きる道を選んだときは――?
女王が幼いころから、
ならば、どんな選択が、皆の幸せに繋がるのか?
ヤンイェンが、『ライシェン』の未来を即断できないのも道理なのかと、ルイフォンは深い溜め息をついたのだった。
「お待たせしちゃって、ごめんなさい!」
数十分後。やっと隣室の扉が開いたときには、女王は、波打つように裾の広がる、淡い青色のワンピースを身にまとっていた。
「陛下……」
ヤンイェンが大きく目を見開き、絶句する。
それも仕方のないことだろう。
女王は先ほどまで、フリルとレースをふんだんにあしらった、可愛らしさを前面に出した服を着ていたのだ。彼女の
しかし、今、身につけているワンピースは極端に飾り気が少なかった。なのに、しなやかな布地から生み出されるドレープが実に優美で、華やかさにおいて、いつもの服に引けを取ることはない。更に、上品さを残しつつも、軽やかさを感じる
女王はヤンイェンのもとに駆け寄り、「ね? どう?」と目を輝かせながら尋ねた。
「随分と大人びた感じがしますが、決して背伸びをしているようではありませんね。とても自然で、よくお似合いです」
「そうでしょ、そうでしょ! 私も、いつまでも子供じゃないのよ!」
満面の笑顔を浮かべ、女王が声を弾ませる。
そういう発言こそが、彼女を幼く見せているのであるが、それでも、裏側にある彼女の気持ちに、ルイフォンは気づいてしまった。多分に、先ほどのヤンイェンの話の影響だ。
彼女は、変わりたいと願っているのだ。
幼いころから、ヤンイェンの母親にいろいろと聞かされていれば、自分が蚊帳の外のまま、婚礼の準備が進められてよいとは思っていないだろう。だが、現状では、どう見ても主導権を握っているのは
「――ですが、陛下」
麗らかな色合いでありながら、ぴしゃりと厳しい音律が耳朶を打ち、ルイフォンの思考を遮った。
見れば、部屋中に散らかった服を前に、ヤンイェンは渋面となっていた。彼の視界の端には、ひと仕事やりきったと満足げな様子で、針や糸といった裁縫道具を片付けているユイランの姿がある。ただし、綺麗に隙なく結い上げられていた髪は、だいぶ崩れていた。
「今日は採寸はしても、衣装を合わせる日ではなかったはずですよ?」
「あ、あのね。ユイランさんが、どんなデザインが好きかって、
上目遣いの青灰色の瞳が伏せられ、うなだれた肩の上を白金の髪が流れていく。神々しいばかりの〈神の御子〉の容姿を持つ、この国の女王……なのであるが、叱られた子供そのものだった。
肩書きと当人との
へ? と放心している間に、こちらにずいと詰め寄ってきて、ぴょこんと可愛らしく頭を下げた。至近距離の彼女は思っていた以上に小柄で、まさに小動物――王の威厳など、微塵にもない。
「あなたにも、ごめんなさい。物凄く、待たせてしまったわ」
「あ……、……いや」
まさか『女王陛下』から謝罪を受けるとは思わず、つい地声で応じかけ、慌てて、裏声を出さねばと、ルイフォンは焦った。
勿論、女王は、そんな彼の内心など知る
「あなたのおかげで、私、とても楽しい時間を過ごすことができたの。ありがとう! 本当にね、凄く嬉しかったの! 我儘を許してくれて、ありがとう!」
白金の
それは、純粋無垢な、心からの笑顔だった。
詫びを入れられたことにも驚いたが、こんな屈託のない顔で、気持ちよいくらいに素直な礼まで言われるとは……。
ルイフォンは、呆けたように口を開ける。
それをどう勘違いしたのか、「気づいてくれたの!?」と、女王は嬉しそうに自分の髪に手をやった。
「この髪飾り、今度、売り出される新作なんですってね? ユイランさんが、特別にプレゼントしてくれたのよ」
彼女に促されるように視線を向ければ、初めにルイフォンが『瞳の色と合っていない』と感じた緑の髪飾りの代わりに、
ルイフォンと同じく、ユイランもまた、女王と緑色との取り合わせをちぐはぐだと思ったのだろう。滑らかな光沢を放つ青絹は、まるで女王のために
「……よく、お似合いです」
無言のままでいるのも感じが悪かろうと、ルイフォンは必死の裏声を絞り出した。別に、世辞というわけでもない。地声でよければ、もう少し気の利いた褒め言葉を贈ったところだ。
「ありがとう! 嬉しいわ! ――あのね。ユイランさんは、私が気に入ったのなら、売り出すのはやめて、私だけの髪飾りにしてもいいと言ってくれたの。でも、そんなのいけないわよね!? それより私、この髪飾りを国中に広めたいわ!」
ユイランとしては、国王が量産品を身に着けるのは望ましくないと考えたのであろう。しかし、女王は独り占めはいけないと、無垢な気持ちで断っている。
いい子ではあるんだよなぁ……。
一国の王と思えば、限りなく頼りない。けれど、十五歳の少女としては好感が持てる。少々、幼さの残る言動が玉に
初めは彼女に苛立ちを覚えていたルイフォンであるが、徐々にほだされていくのを感じていた。
けれど――。
彼女に情を感じれば、悩みの種は増えていく。
何故なら、彼女がこの国の王である以上、この先、
ルイフォンは無邪気な女王に愛想笑いを浮かべ、それから、彼女の背後のヤンイェンを見やり、複雑な思いで唇を噛んだ。
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