1.飄風の招来-1

 少し前まで、小鳥のさえずりを奏でていた草薙家の庭は、いつの間にか、蝉の歌声へと楽譜を替えていた。濃い木陰を作る、重なり合った葉の隙間から、生命力そのものの音色が盛大に広がっていく。

 その一方で、地面を覆う芝は、連日の猛暑のためか、樹々の緑と比べて茶色みを帯びていた。

 しかし、たっぷりと水を与えてやれば、やがて鮮やかな彩りを取り戻す。枯れたわけではなく、根は息づいている。今は雌伏のとき、というだけなのだから――と、植物に詳しいミンウェイが、草薙家ここを去る前に教えてくれた。

「……っ」

 モニタ画面と向き合っていたルイフォンは、癖の強い前髪を掻き上げた。

「今は、摂政の次の出方を見る、雌伏のとき……か」

 ひと息入れようと、OAグラスを外し、ひとちる。その呟きも、窓越しに響く蝉の多重奏と混ざり合って消えていく。

 ――否。彼の言葉を正しく受け止める者があった。

「そんなこと、まったく考えていないでしょう?」

「!?」

「ルイフォンは今、必死に策を巡らせている。どうにかして、一刻も早くヤンイェン殿下と会えないだろうか、って」

「メイシア!」

 背後からの凛と澄んだ声に、ルイフォンは慌てて回転椅子を翻す。直前まで、極度に集中していたため、彼女が部屋に入ってきたことに気づかなかったようだ。

「ルイフォンは凄く、頑張っている。……そ、それでね、凄く、格好いいの」

 メイシアは可愛らしく頬を染めながら、涼しげに結い上げた髪を揺らした。

 ちらちらと覗く白い首筋が、少し陽に焼けていた。貴族シャトーアだった去年の夏とは、おそらく違う色だろう。健康的で美しく、生き生きとしていると思う。

 彼女は「お疲れ様」と、手にしていたトレイから軽やかに氷の踊るグラスを差し出した。清涼感あふれる花の香りは、ジャスミンティーだ。草薙家この家の空調の設定温度をやや高いと感じている、暑がりのルイフォンへの気遣いが感じられ、彼の胸も浮かれ踊る。

「ありがとな」

 受け取ったグラスを机に置き、ルイフォンはメイシアを抱きしめた。腕に収まる、柔らかな重みが心地よい。以前なら、こんなときには小さな悲鳴を上げていた彼女だが、今は嬉しそうに、こつんと彼の胸に頭を預けてくれる。

「お前こそ、シャンリーの手伝い、お疲れ様。そっちはもう、終わったのか?」

 朝食の片付けに、結構な量の干し物もあったはずだ。草薙家ここで暮らしていたユイランが、総帥の補佐役として鷹刀一族の屋敷に戻ったので、他にも細々こまごまとした家事が増えていることだろう。

「うん。その……、シャンリーさん、ちょっと大雑把おおらかかもしれないけど、手際がいいし、ハオリュウたちがいなくなって人数が減ったから」

「ああ。そうだな……」

 ルイフォンたちに加え、一時はハオリュウ、ミンウェイ、シュアンの三人も居候が増えるという、大所帯となっていた草薙家であるが、ハオリュウが新しく使用人となったふたりを連れて帰ると、随分とひっそりとした感があった。その反面、藤咲家は活気づいているらしい。事情を知る執事が、メイシアにそんな近況を教えてくれたそうだ。

 あるいは昼間の静けさは、ユイランがいなくなったことを機に、ファンルゥが保育所に通い始めたことも大きいかもしれない。同じ年ごろの子供と接したほうがよいだろうと、前々から準備を進めていたのが少し早まったのだ。

 好奇心いっぱいのファンルゥは、すぐに他の子供たちと打ち解け、毎日楽しそうに今日の出来ごとを報告してくれる。

 心配されていた斑目一族からの追手は、どうやら大丈夫らしい。そもそも、その保育所自体、訳ありの親を持つ子供たちのための、草薙家の息の掛かった施設であるので、万一のときの対処は万全だ。さすがはレイウェン、抜かりない。

 そんなふうに、周りは少しずつ変わってきている。

 ……それだけに、いつまでも同じ場所で立ち止まっている自分に、ルイフォンは苛立ちを覚えていた。

「ルイフォン」

 不意に、腕の中のメイシアが顔を上げ、ルイフォンの髪に、くしゃりと手を伸ばした。

「頑張るのはいいけど、焦るのは駄目なの」

「ああ、分かっている。けど、『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』に決着をつけるためには、どうしてもヤンイェンに会う必要がある。俺たちだけで、『ライシェン』の未来を決めるわけにはいかないからさ……」

「うん……」

 異父姉セレイエの遺した『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』は、『ライシェン』にふたつの道を用意した。

 実父ヤンイェンのもとで、王となるか。

 あるいは、優しい養父母のもとで、平凡な子供として生きるか。

 そして、そのどちらを選んでも、摂政カイウォルが黙っていないであろう。

 何故なら『ライシェン』は、この世でただひとりの、真の王たり得る〈神の御子〉の男子だからだ。カイウォルは、『ライシェン』を擁立して、権力の座にあろうとするはずだ。

「……ねぇ、ルイフォン」

 メイシアが遠慮がちに、シャツの端を握りしめてきた。言いにくいことを言おうとしているのだ。だから彼は、彼女の黒絹の髪に、すっと指を通し、「どうした?」と、くしゃりと撫で上げる。

「あ、あのね。私、好戦的に前を向く、ルイフォンが好き。困難だと分かっていても、あえて突き進む姿に惹かれる。――だから、このまま、ヤンイェン殿下との連絡手段を模索するのでいいのだと思うんだけど……」

 彼女は黒曜石の瞳を揺らし、迷うように続ける。

「現状について、私も考えてみたの。……それでね、ひょっとしたら、ヤンイェン殿下のほうから、私たちに接触してくる可能性があるかもしれない、って思ったの」

「どういう……ことだ?」

 思いもかけない発言に、ルイフォンは猫の目を見開く。

「この前、ハオリュウが言っていたでしょう。死を目前にしたセレイエさんが、最後の力を振り絞ってヤンイェン殿下に会いに行ったなら、必ず『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』のことを伝えているだろう、って」

「あ、ああ」

「もし、そうなら、ヤンイェン殿下も、私たちに……ううん、それ以上に、『ライシェン』に会いたいはず。彼のほうから行動を起こしてくるかもしれない」

「けど、ヤンイェンの周りは、摂政が目を光らせている。自由に行動することは難しい」

 このところずっと、ルイフォンは、ヤンイェンに関する情報を集めていたのだから断言できる。彼は、病気療養という名の幽閉は解かれたものの、今なお、摂政の監視下にあると言っていい。

「うん。だから、ヤンイェン殿下は、今まで私たちが動き出すのを待っていたと思う。……正確には『私たち』じゃなくて、『〈天使〉のホンシュア』が動くのを。〈天使〉なら監視の目を誤魔化せるから」

「……そうか。……そうだよな。『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』は本来、ホンシュアの手によって、進められるはずのものだったんだよな……」

 ルイフォンは、かすれた声で呟く。

 しかし――。

 ホンシュアは死んだ。

 そして、水先案内人を失った『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』は迷走を始めた。

「ヤンイェン殿下からすれば、『〈天使〉のホンシュア』が動き出さないことに、焦りと疑問を覚えていると思うの。……そして、〈七つの大罪〉の事実上の運営者だった殿下なら、そろそろ、ホンシュアが亡くなっている可能性に気づくはず。〈天使〉は力を使い始めたら、長くは生きられないから……」

 沈んだ声で、メイシアが告げる。その瞳は、ホンシュアの死を悼み、赤みを帯びていた。

 ルイフォンは唇を噛み締めた。彼が会ったときには、ホンシュアは既に『セレイエの〈影〉』となっていたが、本当はまったくの別人――ライシェンの侍女だった人物だ。

『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』に関わった時点で、ホンシュアは捨て駒だった。

 重い事実に、静かな溜め息を落とす。

 ……けれど、今更どうしようもない。話の先を促すべく、ルイフォンがメイシアの髪をくしゃりと包み込むと、彼女も気持ちを切り替えるように頷いた。

「ホンシュアが亡くなっていると感づいたら、ヤンイェン殿下は『仕立て屋を呼ぶように』と、切り出してくると思うの」

「仕立て屋?」

 想定外の単語に、ルイフォンは語尾を跳ね上げる。その声が、あまりにも鋭かったからだろう。メイシアが気圧けおされたように「たぶん……」と付け加えた。

「今の時期なら、『秋の園遊会に、女王陛下の同伴エスコートをするための礼服が必要だ』って感じに持っていくんじゃないかしら、って……」

 徐々に勢いをなくす彼女の言葉に、ルイフォンは「すまん」と頭を掻いた。

「別に反論するつもりじゃないんだ。けど、俺には『仕立て屋を呼ぶ』なんていう、上流階級の発想はなくてさ。純粋に驚いた。――悪い」

「え……、ううん」

 うつむき加減に肩をすぼめ、メイシアが小さく首を振る。あらわになった彼女のうなじに向かって、ルイフォンは明るく言う。

「こういうとき、以前の俺なら、お前との身分差にいじけていたけどさ。今の俺は、もう動じねぇよ。むしろ、俺の知らない世界の知識を、お前が持っているというのは心強いと思う。――だって、俺たちが一緒にいれば『無敵』、ってことだろ?」

「ルイフォン……」

 黒曜石の瞳が、ぱっと見開かれ、陰りを帯びていた頬が薔薇色に染まった。

「ともかく、仕立て屋がどう関わってくるのかを教えてくれ。俺とは違う視点は、非常に興味深い」

「うん」

 メイシアは、ふわりと破顔して、そして告げる。

「婚約の儀は済んでいないけれど、ヤンイェン殿下は女王陛下の婚約者として、おおやけに発表されているの。ならば、式典の際には、おふたりがそろいの衣装をお召しになるのが慣例のはず。つまり、殿下は、必然の流れとして、園遊会に向けて服を新調することになる。そして、その際に――」

 ここからが重要なのだと示すように、彼女は一度、声を止めた。それから、わずかに緊張を交え、慎重に言葉を重ねる。

「殿下が『藤咲家が抜擢した、女王陛下の婚礼衣装を担当することになった者』に、式典の衣装を任せてみたらどうか――と、仕立て屋を指名することは可能だと思う。婚礼衣装本番の前に、腕前を披露してもらいたい、ってふうに」

「そうか! そうなれば、『婚礼衣装を担当する仕立て屋』――つまり、ユイランが、ヤンイェンと接触できる!」

 メイシアが言い終えるや否や、ルイフォンが鋭く叫んだ。

「うん。採寸の必要があるから、代理の者ではきかない。必ず、ヤンイェン殿下ご本人に、お会いできるはず」

すげぇな。そんな抜け道があったとはな……」

 頭の片隅にもなかった手段にルイフォンは感服し、しかし、すぐに眉を曇らせる。

「――けど、ヤンイェンのほうから、ユイランを指名してくれないと、どうにもならないんだよな?」

「そこは気になるんだけど……、でも可能性は高いと思う」

 常に控えめなメイシアにしては珍しい、ほのかに自信ありげな声色だった。

「なんか、根拠があるのか?」

 ルイフォンの問いに、メイシアは口元を引き締め、こくんと頷く。

「根拠は、ホンシュアが私の前に現れたときに、『仕立て屋』だと身分を偽ったこと」

「は?」

「ええとね。それは、つまり、セレイエさんは『仕立て屋』という肩書きが、貴族シャトーア王族フェイラの屋敷に入り込みやすい、特異なものだと知っていた、ってことなの。――ヤンイェン殿下から聞いていたんだと思う」

「そりゃあ、まぁ、そうだろうな」

 セレイエは、ルイフォンと同じ環境で育った異父姉あねだ。仕立て屋を呼ぶのが当たり前、という上流階級の感覚など、持ち合わせていないはずだ。ヤンイェンにでも教えられなければ、知るよしもないだろう。

「セレイエさんに『仕立て屋』の特異性を告げたのがヤンイェン殿下なら、殿下は『仕立て屋』の存在を見逃さないはず。……それにね。ちょっと考えすぎかもしれないんだけど――」

 メイシアは、わずかに、ためらいながら続ける。

「『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』の開始条件トリガーは、女王陛下の婚約――その際に、私の実家である藤咲家が『婚礼衣装担当家』に選ばれたことだった。……偶然とは思えないの。セレイエさんは『仕立て屋』にこだわった気がする」

「『仕立て屋』にこだわった……?」

「だって、陛下のご結婚の準備が予定通りに進められていれば、今ごろ、ヤンイェン殿下は藤咲家と――つまり私や、私と出逢ったルイフォンと、『仕立て屋』を通して連絡を取り合っていたはずなの。……実際には、まだ殿下と『仕立て屋』の顔合わせすら、済んでいないのだけれど」

「じゃあ、こうして都合よく、『仕立て屋』という抜け道があるのは、セレイエがあらかじめ用意しておいた布石、ってことなのか?」

「そんな気がするの。勿論、藤咲家が『鷹刀の親戚である草薙家』を大抜擢するかどうかは、あわよくば、くらいの思いだったはず。……前当主お父様が生きてらっしゃれば、縁故ある馴染みの仕立て屋をないがしろにするのは難しかったと思うから」

「……」

 少々、深読みのし過ぎのような気もするが、緻密で巧妙トリッキーなプログラムを得意とした、あの異父姉あねのことだ。メイシアの言う通り、本当に計算ずくだったのかもしれない。

「私の中にある、セレイエさんの記憶を確認すれば、彼女の思惑を知ることはできるけど、ルイフォンと約束したから……」

 記憶は見なくていいよね? と、上目遣いで尋ねてくるメイシアに、当たり前だろ、との思いを込めて、ルイフォンは彼女の髪をくしゃりと撫でる。

「ともかく、セレイエの意図がどうであれ、問題は、ヤンイェンが『仕立て屋』という連絡手段に気づくかどうか、だな」



 ルイフォンとメイシアが、そんな会話を交わした数日後。

 女王陛下の婚礼衣装担当家である、藤咲家の当主ハオリュウから、提携を結んだ服飾会社の社長であるレイウェンへと連絡が入った。

『王宮から使いが来ました。秋の園遊会で女王陛下とヤンイェン殿下がお召しになる衣装の仕立てを『婚礼衣装を担当する者』に依頼したいそうです』――と。

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