3.揺り籠にまどろむ螺旋-2

 ハオリュウは身じろぎもできず、硝子ケースを凝視していた。

 片や赤子のほうは、彼の刺すような視線などお構いなしに、ゆらりゆらりと培養液の中を優雅に漂う……。

 胎児と思しき赤子が硝子ケースの中にいる。それだけで、尋常な事態ではあり得ない。更には、赤子の髪の色は、毛の一本一本に光を溶かし込んだかのような、輝く白金。瞬きの瞬間に覗いた瞳は、澄んだ青灰色。――まるで、〈神の御子〉のような。

 否。摂政であるカイウォルは、こう言った。

『次代の王』と。

 この国の王は、〈神の御子〉でなくてはならない。それが決まりだ。そして、この赤子を『次代の王』と呼ぶからには、彼は〈神の御子〉なのだ。

 だが、次の王は、これから女王が結婚し、子をすことで生まれるはずだ。そのために、彼女は十五歳という若さでとお以上も年上の従兄と婚約し、ハオリュウの藤咲家に婚礼衣装を作らせているのだから。

「殿下、これはいったい……」

 かすれる声で、ハオリュウは呟いた。

 声を出したことで、衝撃の呪縛が解けたのだろうか。固まっていた体が動きを取り戻す。ハオリュウは、まだぎこちない両腕で自身を抱えた。そうでもしないと、全身が震えだしそうだった。

 その一方で、彼の聡明な頭脳は、滑らかに回転を始めていた。

 少し前に、ハオリュウは婚礼衣装担当家の当主として、女王に謁見した。

 婚約のお祝いを述べた彼に、彼女は浮かない顔を返しただけであった。君主の態度として如何いかがなものかとは思ったが、彼女の気持ちからすれば、結婚など牢獄に繋がれるようなものであろう。

 誰も女王個人の幸せなど願っていない。女王に求められているのは、彼女が〈神の御子〉を――それも男子を産むことだけだ。

 そして、男の〈神の御子〉が生まれた瞬間に、彼女は王位を追われる。無力な赤子に玉座を譲り渡し、『仮初めの王』である女王は役目を終える。

 非道であろう。

 だが、それがこの国の決まりなのだ。真の王のいない時代に生まれてしまった、〈神の御子〉の女性の宿命だ。王族フェイラに限らず上流階級と呼ばれる世界は、多かれ少なかれ、そんなどうしようもない規則で組み上がっている。

 だからこそ、ハオリュウは、彼が婚礼衣装を手配している『もうひとりの花嫁』――最愛の異母姉メイシアを『殺した』。貴族シャトーアに生まれた彼女の運命を断ち切り、異母姉が望んだ相手であるルイフォンのもとへ送り出すために。

 異母姉の幸せそうな顔を見れば、自分の判断は正しかったと胸を張れる。また、女王には同情の余地があると思う。祝いの口上に対して、なんの言葉もたまわれなかったのも仕方ないと諦めもつく。無論、そんな王を戴くこの国の未来には、暗雲しか感じられないが……。

「……」

 ハオリュウは、改めて硝子ケースの赤子を見た。

 結婚したからといって、〈神の御子〉を授かるとは限らない。現に、先王は十数人ほどの子供を得たのちに、やっと〈神の御子〉である子供――現女王に恵まれた。幾人もの妾がいた王でさえそうなのだから、自分で子を産まなければならない女王の負担は計り知れない。

 なるほど、とハオリュウは思った。

 父王のように長い年月を苦しむくらいなら、初めから人工的に〈神の御子〉を作ってしまえばよい。――女王はそう考えたのだ。

 なんの前触れもなく赤子と引き合わされたために驚愕したが、よくよく考えてみれば理に適っている。倫理的に疑問に思わなければ、実に合理的だ。

「ああ……」

 ――そうか。そういうことか……。

 ハオリュウはあることに気づき、思わず得心の声を漏らした。それを聞いたカイウォルの顔が好奇の色に揺れる。

「どうされましたか?」

 言外の圧を持つ為政者の目線が、説明を促す。

 どう答えたものか、ハオリュウはわずかに逡巡した。――が、すぐに決断を下す。

 カイウォルが、どんな話を持ちかけてくるつもりなのかは不明だが、王家の最高機密ともいえる赤子を見せた以上、ハオリュウを巻き込む気は満々なのだ。ならば、何も気づかぬ愚鈍を演じるよりも、簡単にあしらわれるつもりはないと釘を刺しておいたほうがいい。

「殿下が、『〈七つの大罪〉は、王家にとって必要』とおっしゃったことに納得したのです」

「ああ、そうですか。それは良いことです」

 にこやかに、カイウォルが笑う。

 その笑顔を見ながら、ハオリュウは、更に一歩踏み込む。

「〈七つの大罪〉は王の要請に従い、〈神の御子〉を提供する。そうして、これまでずっと、王家が途絶えぬよう支えてきた。……そういうことですね」

 人工的な〈神の御子〉は、何も今回に限ったことではないのだ。カイウォルが〈七つの大罪〉を『必要』と言ったことが、それを裏付けている。

〈神の御子〉は、簡単には生まれない。王家は、今までに何度も存亡の危機に直面し、その都度、〈七つの大罪〉に救われてきたのだろう。先王だって、女王が生まれなければ、最後の手段として〈七つの大罪〉を頼ったに違いない。

 カイウォルから感嘆の息が漏れた。

「ハオリュウ君……。素晴らしいですね、君は」

 常に雅びやかな微笑みで自らを飾り立て、はらうちを読ませないカイウォルだが、その言葉だけは心からの称賛だと分かった。何故なら、普段とはまったく違う、禍々しく歪んだ笑みを浮かべていたからだ。

「君の言う通りです」

 カイウォルは、硝子ケースに冷ややかな眼差しを送る。

「王家に、どうしても〈神の御子〉が生まれない場合……、〈七つの大罪〉が過去の王のクローン体を作ることで王家を存続させる。これが、この国の統治者の正体です」

 どこか深い憤りを感じさせる暗い響きだった。

 カイウォルは〈ムスカ〉に命じ、椅子を用意させた。どうやら、長い話になりそうだった。



「この赤子を見て、君は女王陛下を卑怯と思ったでしょう」

 カイウォルは〈ムスカ〉に椅子を引かせて座り、ハオリュウの顔を覗き込んだ。

 車椅子のハオリュウと同じ座位になったことで、カイウォルの目線が近くなった。高さが違えば、軽く目を伏せることで表情を隠せたのだが、これではそうもいかなかった。

「いえ。……私などには、重責を負われた女王陛下の辛いお気持ちは、とても理解できません。なんと申し上げたらよいのか戸惑うばかりです」

 無難に言葉を濁すハオリュウに、カイウォルは緩やかに首を振る。

「そうですね。卑怯というのは適切でなかったかもしれません。ですが、少なくとも良い印象はいだかれなかったでしょう」

 そっと寄り添うように、カイウォルは囁く。

 相手に向かって斬り込み、ねじ伏せるような鋭さではない。その逆で、相手を自分のほうへと引き寄せ、いつの間にかひれ伏させている……。

 ――それが、彼の持つ特性だ。同調の言葉が心の距離を近づけ、些細な共感から絆が生まれると知っているのだ。

 カイウォルの場合、正しくは『絆』ではなく、彼に向けられる『重力』だろう。彼の声を至近距離で耳にした者が、一方的に心惹かれていくのだ。『カイウォル殿下を中心に世界が回る』といわれるのも無理はないと、ハオリュウは思う。

 人の心を操るのが巧い……。

 ハオリュウは、カイウォルの雰囲気に呑まれぬよう、気を引き締めた。そして、父親譲りの人畜無害に見える穏やかな顔と声で「いえ。滅相もございません」と頭を下げる。

 カイウォルのほうも、ハオリュウからの肯定の返事など期待していなかったのだろう。気にした素振りも見せず、ふと顔を上へと向けた。

 そこにあるのは研究室の天井。しかし、彼が見ているのは、神話に謳われし神であった。

「本来なら、〈神の御子〉は天空神より授かりしもの。〈七つの大罪〉にクローン体を作らせることは、天のことわりに反します。――女王陛下は、ヤンイェンとの間に〈神の御子〉をもうける努力をすべきでしょう。ふたりには、共に濃い神の血が流れているのですから……」

「……」

 ハオリュウは押し黙った。

 天から授かるのが正道と言いながら、作られた赤子が目の前にいるのだ。カイウォルの真意がどこにあるのか、さっぱり分からない。

 カイウォルの言う通り、女王の婚約者ヤンイェンは、濃い神の血を引いている。

 彼の母親が〈神の御子〉なのだ。

 もと王女であり、先王の姉。もし、弟が生まれなければ、女王として立っていた人物である。

 従兄のヤンイェン以上に、女王の夫にふさわしい者はいない。このふたりの間になら、必ずや〈神の御子〉が授かるだろうと、国中が期待している。

 ハオリュウだって、何も初めから邪道に逃げなくともよかろうと思う。だが、カイウォルのはらは違うらしい。

 いったいカイウォルは、どこに話を持っていくつもりなのか。

 ハオリュウは身構えるが、カイウォルは変わらずに天を仰いでいる。

 燦然と輝く美貌は、人の持つものとは思えぬほどに神々しい。もしも、彼の髪が白金で、瞳が青灰色であったなら、彼こそが天空神の化身といえただろう。

 だが、神の色を持たぬ彼は〈神の御子〉ではなく、したがって王位継承権もない……。

 やがて、カイウォルはゆっくりと視線を下げた。

 その顔は、天に向かって神を口にしていたときとは、まるで別人だった。地に広がる俗世を渡る『人』の顔をしていた。

「ハオリュウ君。話は変わりますが、女王陛下には私を含め十数人もの兄や姉がいます。――それは、先王陛下が頑として〈七つの大罪〉の手を拒み続けたことを意味します。……何故だか分かりますか?」

「!?」

 予想外の展開と質問に、ハオリュウは目を瞬かせる。そんなことを訊かれても困る、としか言いようがない。

 しかし、相手は目上の摂政だ。無言でいるわけにもいかない。それに、自分が打てば響く人間であることをカイウォルには示しておきたかった。

「先王陛下は、天のことわりを大切にされていた――ということでしょうか」

 ハオリュウの答えに、カイウォルはふっと口元を緩ませる。

「なかなか巧妙な答えですね。面白くはありませんが、堅実です。完全に間違いとは言い切れませんし……。けれど――『足りない』ですね」

 故人とはいえ、先王に失礼がないように配慮した、玉虫色の答えなのだから当然だ。

 そんなことはカイウォルも承知しているだろう。そもそも、ハオリュウを試していたようなものなのだから。

「完璧な答えはこうです」

 カイウォルは歪んだ笑みを見せた。

「先王陛下は、先々王陛下が作らせた『過去の王のクローン』だったから、です」

「っ!?」

「先々王陛下には〈神の御子〉の王女――ヤンイェンの母親がいましたが、王子はいませんでした。彼は実の娘が可愛かったので、女王などという〈神の御子〉を産むだけの道具にしたくありませんでした。だから〈七つの大罪〉を頼り、王となるべき男子を作らせました。――それが我が父にして、先王陛下です」

「……」

「先々王陛下にとって、先王陛下は王位を渡すだけのただの人形。愛情なんてまるでありません。先王陛下は寂しい子供時代を過ごされたようです。ですから、ご自分は同じことをすまいと、頑なに〈七つの大罪〉の手を拒んだのです」

 ハオリュウは、ごくりと唾を呑み込んだ。

 どんな反応を示すべきなのか、とっさに判断できなかった。美談に聞こえなくもない。だが、結果として、現女王は不幸になっている……。

「先王陛下は、なんとしてでも〈七つの大罪〉に頼らずに〈神の御子〉を得たいと考えました。そこで、彼は『もっとも〈神の御子〉を産む可能性が高い女性』を手籠めにしました。……それが、誰だか分かりますか?」

 あまりにも不敬な問いかけに、ハオリュウは一瞬、何を訊かれたのか理解できなかった。咀嚼ができてからも、彼は戸惑い、声を詰まらせる。

 けれど、彼の明晰な頭脳は、答えをはじき出していた。

〈神の御子〉を産む可能性が高い女性といえば、〈神の御子〉である女性。今の話の中に出てきていて、年代的に該当する人物はひとりしかいない。

「〈神の御子〉である先々王陛下の王女。――つまり、先王陛下の『姉』。ヤンイェン殿下の母君……ですね」

 そう口にした瞬間、ハオリュウの頭は真っ白になった。

 ある可能性に気づいてしまったのだ。それは、恐ろしく度を越えた想像だった。

「……ああ、その顔は気づいたようですね。まったく、君は素晴らしい」

 カイウォルの無情の声が響く。

「で、殿下……っ」

 すがるような気持ちで、ハオリュウはカイウォルを見つめた。しかし、その思いは無下に切り捨てられた。

「ご想像の通りです。ヤンイェンは、先王陛下とその姉君の間にできた子供。――彼は、私や女王陛下の異母兄弟ということです」

「……っ!」

「確かに、クローンである先王陛下にとっては、彼女は実の姉ではありません。しかし、仮にも『姉』と呼んだ女性に、彼は子供を産ませたのです。〈七つの大罪〉に頼らずに〈神の御子〉が欲しいという、ただ、それだけのためにね」

「……」

「そこまでしたのに、生まれたヤンイェンは黒髪黒目でした。……皮肉でしょうか。それとも、まさに天のことわりということでしょうかね」

 カイウォルの囁くような深い声が、すっと解けるように天へと消えていく。

 そのあとは、聞かなくても分かった。

 国王がクローンであることが極秘である以上、ヤンイェンの父母が公になれば、姉弟間の禁忌の子供となる。故に、彼が王子であることは隠され、母親のもとで育てられた。

 それから十年近くも経って、ようやく〈神の御子〉たる現女王が生まれた。そして、彼女が生まれたのと同時に、ヤンイェンは内々の婚約者となった。公式には、彼は濃い神の血を持つ『従兄』であり、『異母兄』ではないからだ。

「ハオリュウ君。女王陛下は、ヤンイェンとの間に〈神の御子〉をもうける努力をすべきだと思いますか?」

 それは、先ほどもカイウォルが口にした言葉だった。

 しかし、王家の隠された真実を知った今、ハオリュウの耳にはまったく別の響きに聞こえた。

「女王陛下は――私の妹のアイリーは、涙に暮れています。私は兄として、妹を救ってやりたい。そう思うことは、身勝手でしょうか?」

 長い指先をぎゅっと内側に握りしめ、カイウォルは苦痛に顔を染める。わずかにうつむくと、王位継承権を持たない黒い髪が、目元に掛かって影を作った。

「殿下……。だから、この赤子を作った、というわけですね」

「そういうことです」

 溜め息のような返事だった。

 ハオリュウは、再び硝子ケースの赤子を見た。

『ライシェン』と名付けられた彼は、まるで揺り籠に体を預けてまどろむように、培養液の中を漂いながら眠っていた。

 ――カイウォルの話に、特におかしなところはないように思われる。

 鷹刀一族からも、〈七つの大罪〉が王の私設研究機関であると聞いている。王家の存続のために組織を作ったというのなら、これほど納得できる理由もない。

 だが、『ライシェン』だ。

 斑目一族の別荘にいた〈天使〉ホンシュアが、ルイフォンに向かって呼んだ名前である。偶然などではないだろう。

 すべてが嘘だとは言わない。ほとんどが真実。だが、まだ隠された『何か』があるはずだ。

 そして、ここまで秘密を明かしたハオリュウに、カイウォルは何を求めるつもりなのか……。

「君は……、そもそも何故、この国の王が〈神の御子〉――それも男子でなければならないのか、ご存知ですか?」

「え?」

 不意の問いかけだった。

 目を瞬かせるハオリュウに、カイウォルはそっと息をつく。

「創世神話にあるでしょう? 神の代理人には、神の力がある、ということです」

「……」

 カイウォルは、ハオリュウが何かを知っているかとカマをかけた。そして、知らぬと分かって曖昧に誤魔化した。――そんな気がした。

「そろそろ神の話ではなく、穢れた俗世の話をしましょうか。君ならきっと、私の期待に応えてくれそうです」

「殿下……?」

 カイウォルの眼差しに、強引なまでの圧が生まれた。気品あふれる雅びやかさで、人を引き寄せ、惹きつける。

 身を固くしたハオリュウの耳に、柔らかな声がそっと落とされる――。


「ハオリュウ君。ヤンイェンではなく、君が『女王陛下の婚約者』になりませんか?」

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