4.よもぎ狂騒曲-2

 厨房は、焼き立てのパンの匂いで満たされていた。オーブンの熱気に混じり、小麦の焼けた香ばしさが漂う。

 メイシアは、自然の恵みを胸いっぱいに吸い込んだ。

「いい香り……」

 思わず、顔がほころんでくる。

 ミンウェイが嬉しそうに微笑みながら、天板を調理台に置いた。分厚いミトンの手に、エプロン姿。いつもは背を覆うように波打っている黒髪も、きっちりひとつにまとめられている。

「焼き立ては、やっぱり格別よ。特に、これは今の時期だけの特別――よもぎあんパンだもの」

 珍しいパンを作るから一緒にどうかと誘われ、メイシアはふたつ返事で手伝いを申し出た。

 よもぎあんパンどころか、パンを作ること自体、初めてだった彼女は、粉まみれになりながらも、作り上げていく過程に夢中になった。だから、こうして薄く湯気を上げているパンに、感動すら覚えていた。

「今年も美味しそうに焼けましたね」

 料理長が太鼓腹を揺らしながら現れた。彼が食事の下ごしらえをしているところに、間借りしていたのだ。

 ミンウェイは嬉しそうに「ありがとう」と応じ、尋ねる。

「これから試食だけど、料理長もいかが?」

「勿論、ご相伴にあずかります」

 料理長は、ふくよかな顔に埋もれそうなほど目を細めると、食器棚から皿を出してくる。

「私、お茶を用意してきます」

 以前は、厨房でつまみ食いなんて、お行儀が……と、抵抗のあったメイシアも、今ではすっかり馴染んでいた。メイドたちから学んだ手際で素早くお茶の準備をし、小さなお茶会が始まった。

「餡が熱くなっているから気をつけてね」とのミンウェイの忠告に、メイシアは恐る恐る中を割る。

 外側はしっかり茶色く焼けているのに、内側は鮮やかな緑色をしていた。と同時に、火傷しそうなほどの蒸気と餡が飛び出してくる。ひと口かじれば、小麦のほの甘さに混じり、爽やかな草の香りが鼻を抜けた。

「美味しいです」

「でしょう?」

 ミンウェイが得意げな顔をする。 

 その表情は、ルイフォンがコンピュータに関して説明するときの顔とよく似ていた。顔立ちは違っていても、やはり叔父と姪である。

 普段のミンウェイは、執務室で総帥イーレオの補佐をしているか、温室で草花の手入れをしているかの、どちらかであることが多い。だから彼女がパンを焼くと言ったとき、メイシアはわずかながらも意外に思った。

 けれど、材料のよもぎ摘みのお供をして納得した。よもぎは、薬草としての効能の高い植物だと教えてくれたのだ。パン作りは、よもぎの活用法のひとつだった、というわけだ。

 柔らかな新芽だけを丁寧に摘み取り、自然に感謝して微笑む。草の香をまとうミンウェイらしい仕草に、メイシアは素敵だなと思い、そして少し嬉しくなった。

 ミンウェイは、ふとした時に暗い顔をすることが増えた。

 父親である〈ムスカ〉の存在が見え隠れする中で、不安を覚えるのだろう。けれど、イーレオの言う通り、今はどうすることもできない。

 だから、ミンウェイが少しでも楽しげな様子を見せてくれると、ほっとするのだ。

「――メイシア」

 唐突に、ミンウェイに呼ばれた。

 どうしたのかと見やれば、彼女はやや眉を寄せていた。

「あのね、お使いを頼みたいの」

「はい。構いませんが……?」

 今日はミンウェイとのパン作りの約束があったので、メイドたちに何か教わる予定は入っていない。

「ちょっとね、申し訳ないんだけど……」

 ミンウェイらしくもなく、歯切れが悪い。隣では料理長がにこやかに笑ながら、「ミンウェイ様のせいではありませんよ」と言っている。

「ミンウェイさん?」

 メイシアは首をかしげた。

「このよもぎあんパンを届けてほしいの。本当はリュイセンに持っていってもらうつもりだったのに、手違いでもう出掛けちゃったのよ」

 なんでも、ミンウェイはこのあと用事があって行けないのだという。

「私でよければ構いません。どなたにお届けすればよろしいのでしょうか?」

 そう答えたメイシアは、思いもよらぬ相手の名前を告げられたのであった。



「――まったく、お祖父様は何を考えてらっしゃるのかしら……?」

 メイシアの後ろ姿が見えなくなると、ミンウェイは溜め息混じりに呟いた。

「イーレオ様には、深いお考えがおありなんですよ」

 料理長がお茶のおかわりを注ぎながら、にこやかに答える。

「けど、リュイセンが忘れたことにしなくても、単にメイシアがお使いとして行ってもよかったんじゃないかしら?」

「メイシアがあの家に行くのを、ルイフォン様が嫌がるからじゃないでしょうか」

「だから、『やむを得ず』という形にした、ってこと?」

 ミンウェイは承服しかねる、とばかりに柳眉を寄せながら、お茶を受け取る。

「ええ。リュイセン様がいらっしゃれば、メイシアも気が楽でしょう。それにイーレオ様は、チャオラウを運転手に指名されましたし」

 そこでまた、ミンウェイは再び溜め息をついた。

「チャオラウも頑固だから……。皆さんにご挨拶しないで、車で待っているだけだと思うわ」



 メイシアは、車の後部座席で緊張に震えていた。

 膝の上のよもぎあんパンは、まだほんのりと温かい。けれど、体中から熱が引いていくような気がしていた。

 どうしてこんな事態になったのか、まだよく飲み込めていない。だが、どうやらイーレオが一枚噛んでいるらしいことは理解した。

 運転手は、チャオラウだった。

 いつもイーレオのそばに控えている護衛の彼が、何故かハンドルを握っていた。屋敷の専属運転手が忙しかったわけではないだろう。駐車場で、のんびり煙草を吸っている姿を見た。

「まったく、イーレオ様は幾つになっても、いたずら好きなんですから……」

 バックミラーの中で、チャオラウが苦虫を噛み潰したような顔をしている。

「あのっ、これはつまり……、外に出られたご親族の方々にご挨拶をしてくるように――という、イーレオ様から私への指示……ですよね?」

「そういうことですな」

 察しがよくてよろしい、とチャオラウが頷く。

 メイシアが向かっている先は、リュイセンの兄の家だった。次期総帥エルファンの長男で、後継者として期待されていた人物――の住まいである。

 リュイセンの兄は、幼馴染の女性と結婚する際に一族を抜けた。剣舞の名手である彼女を、表の世界で活躍させてやりたいとのことだった。

「イーレオ様が私に運転を命じられたのは、レイウェン様――リュイセン様の兄君と、そのご家族について、あなたに説明しておけとの含みでしょうな」

「……っ、すみません。お手数をおかけします」

「いやいや。ルイフォン様があなたに何も話してないだろうと踏んでの、イーレオ様の配慮ってやつですよ」

 恐縮するメイシアに、チャオラウはからかいを含んだ声で不精髭を揺らした。

「何しろルイフォン様は、あの家の方々を……言いますか、ユイラン様のことを……。――あぁ、ユイラン様と言われてもピンと来ませんな?」

「いえ、お名前はルイフォンから伺っております。――エルファン様の奥様ですよね」

「おや、ご存知でしたか」

 チャオラウは目を丸くした。

「――ええ、その通りですよ。ユイラン様はエルファン様の奥方で、レイウェン様とリュイセン様の母君です。今は、これから行くレイウェン様の家に一緒に住んでらっしゃいます」

 そこまで言うと、彼は感慨深げに……というよりは、笑いをこらえているような、愉快そうな顔をする。

「ふぅむ。あのいい加減なルイフォン様が、メイシアにきちんと話していたとは……。大人になったものですなぁ……」

「あ、あの……?」

 メイシアがきょとんと首をかしげると、さすがに言葉が足りないと思ったのだろう。チャオラウは、にやにやと不精髭を踊らせながら付け加えた。

「つまりですなぁ……、ルイフォン様は基本的に怠け者です。ご自分が興味を持たれたことには寝食を忘れますが、それ以外のことは一切やりたくない方です」

 ルイフォンは怠け者なのではない。こだわる部分とこだわらない部分を、はっきりと区別しているだけだ。

 ――と、反論しようとして、メイシアは思いとどまった。チャオラウが言っているのと、まったく同じことだと気づいたのだ。

 彼女が心中でそんなことを考えていたとも知らず、チャオラウは楽しげに話を続ける。

「ですから、出ていった親族のことをわざわざ説明するなんて、そんな面倒ごとはルイフォン様の主義に反するんですよ」

「……」

「けど、あなたには知っていてほしかったんでしょうなぁ。……ユイラン様のお名前をご存知ということは、お聞きになったんでしょう? ルイフォン様の出生の経緯を。ぶっちゃけ醜聞ですな」

 チャオラウの言い方は身も蓋もなかったが、メイシアは否定することもできず、遠慮がちに頷いた。

 エルファンとユイランの婚姻は一族が決めたものだった。状況から考えて、『〈七つの大罪〉の最高傑作』の濃い血を残すための強制的なものだったのだろう。それでも長男レイウェンが生まれたころは、それなりの関係を保っていたらしい。

 けれど、エルファンが、『助けを求めてきた〈天使〉』――すなわち、のちにルイフォンの母となるキリファと出逢い、娘が生まれた。

 そのあとが泥沼だ。

 正妻としての体面を保とうとでもするかのように、ユイランが次男リュイセンを産んだ。

 怒ったキリファは、鷹刀一族を出ていこうとした。そこをイーレオに引き止められ、イーレオとの間にルイフォンが生まれたのである。

 だからルイフォンから見れば、エルファンは異母兄で、リュイセンは年上の甥。――そして、エルファンの妻であるユイランは『義理の姉』になるわけだが、気持ちの上では『母キリファの敵対者』にしかならないだろう。

「今でこそ、ルイフォン様は一族の中心にいらっしゃいますが、四年前に母親を亡くされるまでは、別の場所でまったく違う生活をされていたんですよ」

 それが〈ケル〉の家での生活ということだろう。

「まぁ、母親の手伝いで、たまには鷹刀の屋敷に来ていたんですけどね。ああ、そういえば、何故かリュイセン様とは、そのころから仲がよろしかったんですよねぇ」

 チャオラウは懐かしむように言い、ルイフォンとリュイセンが子供のころの数々の逸話を――主にいたずらについて語ってくれた。



 ――そして結局。

 ルイフォンとは仲の悪い親戚がいる家に届け物をしに行くという、気の重い仕事を任された理由は謎のまま、メイシアを乗せた車は走っていくのであった。

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