2.ひずんだ音色-2

 料理長ご自慢の朝食が温かな湯気を上げる。テーブルの上には鶏の粥を中心に、あっさりとした品々が並んでおり、疲労と寝不足の面々への配慮が感じられた。

 ルイフォンは粥を口に運びつつ、眉を寄せる。右隣にはさじを握ったままうつむくメイシア。その先には黙々と口を動かすハオリュウがいた。

「メイシア、今はしっかりと食事を摂りましょう?」

 向かい側から、ミンウェイの気遣いが聞こえてくる。

 結局、コウレンは何も知らないと突っぱね、疲れたと言って、皆を部屋から追い出した。なんとも腑に落ちないことだったが、仕方がない。そのまま、彼らは遅い朝食を摂るべく、揃って食堂に来たのであった。

 どの皿も美味しいはずなのに、味がしない。ルイフォンは溜め息をつく。そんな彼を、メイシアとは反対側、左隣にいるシャオリエが鼻で笑った。

「……なんだよ」

「私が口を挟んだから、変な雲行きになったと思っているのかしら?」

「……別に」

 コウレンの態度は明らかにおかしかった。シャオリエが出てこなくても、この重い空気は変わらなかっただろう。

「それより、シャオリエ。メイシアが厳月家の三男と婚約って、破談になったんじゃないのか?」

「少なくとも厳月家では健在のようよ? 昨晩、わざわざスーリンが三男を呼び出して、直接聞いたんだもの」

「スーリンさんが……」

 メイシアが呟いた。くるくる巻き毛のポニーテールが可愛らしい少女娼婦は、彼女が密かに嫉妬していた相手である。

「そう言えば、スーリンが呼んだタクシーのせいで、お前たちは危険な目に遭ったんだって? あの子、真っ青になっていたわ。詫びのつもりだったのかしら?」

「いや、あれはスーリンのせいじゃないだろう」

「そうね、あの子の身元は私が保証するわ」

 シャオリエとルイフォンのやり取りを聞きながら、メイシアはじっと考えていた。

 スーリンは、きっとメイシアを快く思っていないだろう。なのに、協力してくれた。申し訳ない気持ちでいっぱいで、いずれきちんと話をしたいと思う。けれど今は、厳月家の情報をタイミングよく掴んでくれた彼女に感謝して、有効に活用しなければならない――。

「……父は、斑目や厳月に脅されているのでしょうか?」

 ぽつりと、メイシアが呟いた。今までの父の言動を考えると、そうとしか思えなかった。

「何も知らない、ということはないでしょうね」

 含みのある、シャオリエの目線が返ってくる。メイシアはやはり、と思った。

「あのとき、シャオリエさんは気づかれていたのでしょう? ――父がイーレオ様に『指定する場所に来て欲しい』と言ったことは、イーレオ様を捕まえるための罠だ、って」

「ええ」

 シャオリエは、こともなげに肯定した。だが、他の者たちは色めき立つ。

「姉様、どういうことですか!?」

 ハオリュウが代表するかのように、口火を切った。

「お父様は無闇に人を疑う方ではないわ。だから、『この屋敷でイーレオ様とふたりきりは、身が危うい』とおっしゃること自体、不自然だわ。もしも、本当にそう思ってらっしゃったとしても、藤咲の家にお招きすればよいことでしょう?」

 本当に家同士の問題と考え、娘のことを考えるのなら、もっと歩み寄るはずなのだ。少なくとも彼女の父は、そういう人物だ。

「イーレオ様の身柄は、斑目と〈ムスカ〉に狙われている。――ルイフォンたちが別荘から父を救出するとき、〈ムスカ〉が邪魔をしなかったのは、貴族シャトーアに興味がないからではなくて、父を使ってイーレオ様を捕らえようとしていたからじゃないかしら?」

「〈ムスカ〉?」

「昔の因縁で、イーレオ様を狙っている人なの」

ムスカ〉を知らないハオリュウの疑問に、メイシアは簡潔に答えた。

「家同士の問題だから来い、と言われれば、親父も断れない――か」

 ルイフォンは舌打ちをした。自分たちの想いを利用しようとする策に腹が立つ。

ムスカ〉には、ルイフォンとメイシアの仲が、実のところどうなったかなど知り得ない。だから、イーレオを誘い出す口実は複数、用意されていたことだろう。謝礼の宴でも、なんでもよかったのだ。

 その中でふたりの想いを利用する案は、最も確実だ。別荘での『色香に堕ちたか』という〈ムスカ〉の揶揄は、作戦成功の可否を探ってのことだったのかもしれない。掌の上で踊らされているようで頭にくる。

 眉間に皺を寄せていたルイフォンは、ふとメイシアの不安気な眼差しに気づいた。ミンウェイに促されて匙を運んでいた手も、止まってしまっている。

 彼はそっと右手を伸ばし、彼女の髪をくしゃりと撫でた。

「親父さんも疲れているだろうから、ゆっくり話をしていこうな」

「は、はいっ」

 メイシアの顔がぱっと華やぐ。ちょっとしたひとことに反応してくれる彼女が可愛らしい。ルイフォンは、ついつい余計な軽口を叩きたくなる。

「安心しろ。いざとなったら駆け落ちだ」

 にやりと口角を上げた彼に、メイシアの視線が戸惑いに揺れる。本気ではないでしょう? と瞳が尋ねつつ、頬は赤く染まっている。

「ルイフォン! 駆け落ちは認めないからな!」

 彼女の奥にいたハオリュウが、眉を吊り上げた。彼には冗談が通じないらしい。ルイフォンは苦笑して、――それから真顔になった。

「ハオリュウ。お前にはまだ直接言っていなかった。あとになって、すまない」

 改まったルイフォンに、ハオリュウが怪訝な顔をした。半ば睨みつけたような目つきのまま、ルイフォンに先を促す。

「今更かもしれないが、お前の姉さんを貰いたい」

「……っ」

 とっくに承知のこととはいえ、面と向かって言われるのは、また別である。ハオリュウは言葉に詰まった。そこにルイフォンが畳み掛ける。

「親父さんを助けたことを恩に着せた、そう思われても構わない。でも、俺はメイシアが欲しい」

 奇策も、からめ手もなしに、まっすぐに攻める。ルイフォンは頭が回るが、ここぞというときには小細工はしない。

 ハオリュウは奥歯を噛んだ。理性では納得済みの話だった。

「……僕の条件は姉様に言った通りだ。姉様がまともに家事ができるようになったら、姉様の自由にすればいい」

 そう言って、ハオリュウは茶を口に運ぶ。話は終わりだ、との態度だ。

「家事くらい、なんとでも――」

「馬鹿ね、ルイフォン」

 シャオリエが、ルイフォンを遮る。

「その子は、自分自身との折り合いをつける時間がほしいのよ」

「なっ!? ――僕は……っ!」

 ハオリュウは口走り、慌てて咳払いをした。

「……そちらのご婦人のおっしゃる通りかもしれませんね。僕は、小さな頃から異母姉に助けられてきましたから」

 シャオリエはアーモンド型の瞳を瞬かせた。ハオリュウの顔をじっと見る。

「さすがメイシアの異母弟、と言ったところかしら。これはちょっと失礼したかしらね?」

「いえ。――それに、僕が何を言ったところで藤咲家の家長は父です。当主の決定が絶対です」

 ハオリュウの言葉に、皆の顔が曇る。

 結局のところ、問題はコウレンなのだ。彼の不自然な態度が解決しない限り、堂々巡りになる。

「ハオリュウ」

 今まで黙って食事をしていたイーレオが口を開いた。呼ばれたハオリュウは反射的に背筋が伸びる。

「なんでしょうか?」

「お前との協力関係は、お前の父を救出するまでだった。相違ないな?」

 ハオリュウは、はっと息を呑んだ。父の不審な様子が頭をよぎり、不安にかられる。ここから先は鷹刀一族を頼れないのだ。双肩に重圧がのしかかる。

「――ええ。そういうお約束でした」

 ハスキーボイスが答える。

「しかし、俺はメイシアとも取り引きしている。家族を救出する対価として俺に自分の身を託す、というものだ」

 ハオリュウの目が険しくなった。イーレオは肩をすくめ、苦笑して続ける。

「だから、メイシアは俺のものになるはずだった。だが、ルイフォンが今回の働きの褒美として、俺とメイシアとの取り引きを反故にしろと要求してきた。――要するに、鷹刀は藤咲家と友好な関係でありたいわけだ」

 イーレオが軽く首を曲げ、ハオリュウを窺う。その顔には、どことなくいたずら心が見え隠れしている。

「どうだ? もう少し、協力していかないか?」

 人を惹き寄せる、イーレオの魅惑的な微笑。それにつられるように、ハオリュウの顔に明るい光が差しこむ。

「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」

 そんなやり取りを聞きながら、シャオリエは、ふぅと溜め息をついた。

 鷹刀一族のことを思えば、このあたりで藤咲家とは手を切るべきだ。当主のコウレンが、〈ムスカ〉たちの手先になっている疑惑がある以上、藤咲家と関わってはいけない。

 けれどイーレオは、メイシアのことは勿論、ハオリュウのことも気に入っている。その気持ちは、シャオリエにも分からないでもない。

「さて――。ともかく、今は皆、体を休ませろ。午後になったら招集をかける」

 イーレオの鶴の一声で、この場はお開きとなった。



 桜の大木が枝を伸ばし、空をいだく。昨日まで身を飾っていた花弁は、今や足元に広がる敷布に過ぎず、やけに物悲しく見える。時折、春風が訪れては、小さく舞い上がっていくのが、せめての華やぎだった。

 緋扇シュアンは、そんな様子を遠目に見ながら溜め息をついた。

 昨日この桜の舞台で、彼の先輩ローヤンは貴族シャトーアの令嬢に銃を向けるという暴挙に出た。それは〈ムスカ〉なる人物が、ローヤンを別人にしてしまったからなのだが、それを証明することは難しい。故に、ローヤンは罪人つみびととなる。

 ――シュアンは、ローヤンを殺した。

 大切な先輩が、先輩でないものになっているのに、ローヤンの姿でいることに耐えられなかった。これ以上、先輩を穢されたくなかった。

 ――ローヤンは、死んだ。

 死んだら、それで終わりだ。だから、死んだ者の名誉を守ろうとするのは、意味のないことだ。そんなもののために奔走するなど、愚かしいことだ。

 なのに、どうして自分はここに来ているのだろう。――シュアンは自嘲する。

 早朝、鷹刀一族の屋敷を辞去して警察隊に戻ったシュアンは、ローヤンは指揮官のめいで動いていたのだと上層部に説明した。その後、口封じに殺されたと。

 だが、彼の弁は一笑に付され、ローヤンは指揮官の共犯にされた。貴族シャトーアへの暴挙を働いた者を『悪』としたかったのか、悪事を働いた指揮官への任命責任を少しでも軽くするために、指揮官の罪を軽くしたかったのか、そんなところだろう。

 上層部がどう処理しようと、書類上の問題だ。ローヤンが死んだという現実は変わらない。だから、シュアンの採るべき行動は『上』に盾突くことではなく、失脚したあの指揮官の代わりに彼を取り立ててくれる『上』の人間を探すことのはずだ。

 それなのに彼は、『上』を従わせるカードを取りに来た。上層部からすれば、権力を振りかざすだけしか脳のない、口うるさい厄介者――貴族シャトーアというカードを……。

 シュアンは大きな屋敷を見やった。暖かな陽射しを受ける硝子窓が、ずらりと並んでいる。その中のどの部屋に行けばよいのかなど、彼が知る由もない。

 門衛に案内してもらえばよかったのかもしれないが、シュアンは蛇蝎の如く嫌われていた。警察隊突入時に、シュアンが門衛のひとりを撃ち抜こうとしていたことを、彼らは根に持っているのだ。とっくに交代しているので、今いるのは別の門衛だが、仲間への仕打ちは忘れないのだろう。総帥イーレオから通達がいっているのか、門で拳銃を取り上げられなかっただけ、ましなのかもしれない。

 広い庭には、まばらに人の姿が見える。その誰もがシュアンを警戒し、あるいは嫌悪をあらわにしている。鷹刀一族における彼の立ち位置は、そんなところだ。

 不用意に凶賊ダリジィンに近づくより、おとなしそうなメイドでも捕まえようと、彼はぶらぶらと歩き始める。途中、ぼさぼさ頭によって落ちかけた制帽を抑えた。目深にかぶっていたほうが収まりがよいのだが、彼はあえて頭頂に載せる。

 シュアンの『カード』は、深夜に父親が救出されたばかりだから、まだこの屋敷にいるはずだ。実家に戻っていたら、いくら警察隊の身分証があっても貴族シャトーアとの面会は困難だったろう。運が良かったといえる。

「……」

 シュアンは唇を噛んだ。

 彼は、幼いころに家族を失った孤児だ。

 恵まれた生活とは縁遠い。権力者など大嫌いだ。ぬくぬくと育った貴族シャトーアの餓鬼との会話なんて、考えただけで反吐が出る。

 ひとりのメイドが、シュアンの視界をよぎった。彼は彼女を呼び止め、そして尋ねる。

「藤咲ハオリュウ氏は、どこにいる?」

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