2.猫の征く道-1

 リノリウム張りの床に、流れるような打鍵の音色が木霊する。

 高名なピアニストのごとく、高らかにキーボードを鳴り響かせているのは、言わずもがな、この部屋のあるじ、ルイフォンである。天才クラッカー〈フェレース〉の名を母から引き継いだ彼は、今まさに『仕事中』であった。

「ふぅ……」

 記憶媒体にデータを移し、ルイフォンはひと息ついた。

 中身は斑目一族の息の掛かった店の実態、偽装事故の証拠、麻薬取引の予定日時、密輸品の売買記録……などなど。表に出れば斑目一族にとって痛手となる情報が、十ばかり入っている。

 斑目一族に繋がるコンピュータは、いつでも自由に乗っ取れるようにしてあった。斑目一族だけでなく、あらゆる凶賊ダリジィン、ひと通りの公共機関、主要な企業のコンピュータが、彼の支配下にあると言っても過言ではない。

 ルイフォンはOAグラスを外し、目元を軽くマッサージした。

 この前、寝たのはいつだったか。――昨日は、ほぼ徹夜だったはずだ。

「うっわ。俺、すげぇ働き者?」

 思わず声に出して驚いてしまう。そして、メイシアの膝枕で昼寝したことと、情報屋トンツァイが『ハオリュウ解放』の報を持ってきたことで叩き起こされたことを同時に思い出し、頬をたるませつつ鼻に皺を寄せるという、複雑な表情を作った。

 ルイフォンは大きく伸びをして、首を回した。自分でも、こりゃ酷いな、と思うほどの音を立てて骨が鳴る。

 あと、もうひと踏ん張りと、携帯端末を取り出した。これに必要な情報を入れたら終わりだ。

 そのとき、部屋の扉がノックされた。

「誰だぁ? 入れよ」

 鍵は掛けていない。迎えに出るのも面倒臭いので、おざなりに返事をする。

 すぐに扉の開く音がして、低温に保たれた室内と常温の廊下との間で、空気のやり取りが行われた。

「ミンウェイか」

 足音はしないが、干した草の香りを感じ、ルイフォンは声を掛けた。ちょうどよかった、と彼は思った。彼女には言っておかねばならぬことがあった。

「ルイフォン、例のものはできた? ほどほどでいいから、少しは休まないと……」

 波打つ髪を豪奢に揺らし、ミンウェイが近づいてきた。手にはティーポットとカップがふたつ載ったトレイ。彼女はそれを机の空いている場所に置いた。

「ああ、終わったよ」

 言いながら、ルイフォンは先ほどの記憶媒体をミンウェイに手渡す。

「これを、警察隊の……なんていったっけ、あいつ」

「緋扇シュアン、よ」

「そう、そいつ。緋扇シュアンに渡してほしい」

「ご苦労様。さっき話をつけたから、手ぐすね引いて待っているわ」

「あ、おい、お前が緋扇のところに行くのか?」

 リュイセンが切れるぞ、という台詞は口には出さない。これは一族の暗黙の了解である。

「まさか。私は屋敷でやることがあるし、誰かを使いにやらせるわ」

 ミンウェイは綺麗に紅の引かれた口元を、くすりとほころばせた。

 それはそれで、シュアンの期待を裏切るのかもしれないな、とルイフォンは思う。自分がミンウェイに心を動かされることは、髪の毛ひと筋ほどの可能性もないが、我が『姪』ながら彼女は無意味に色気があるのだ。――たとえ歳が十以上、上であっても、彼女は彼の『姪』であった。

「……ルイフォン、あなたこそ、本当に自分で行くつもり? あなたは本来、後衛部隊よ。今の仕事で充分、働いているわ」

 ミンウェイが記憶媒体を示して言う。

 ――それは数時間ほど前の、鷹刀一族と藤咲家が手を組んでの会議の場でのこと。

 互いの情報をすり合わせ、共有したところで、ルイフォンがこう宣言したのだ。

『こいつら父親の命は風前の灯だろう。だから、俺は今晩、救出に向かう』

 鋭く、好戦的な眼差し。

 過剰なほどの自信に満ち溢れた表情。

 ルイフォンのテノールの響きが消えたのち、完全に無音の時間が訪れた――。



「ばっ……!」

 口火を切ったのはリュイセンだった。

「ば、馬鹿言うなよ!? 斑目のところへ戦争をしかけるのに、お前みたいな弱っちい奴を連れていけるか!」

 彼もまた立ち上がり、起立した状態であったルイフォンの襟元を掴み上げた。

 もし、その手に双刀があれば、軽く峰打ちにしてルイフォンを黙らせていたことだろう。――さすがの彼も、屋敷内では帯刀していなかったので、それは未遂に終わったのだが。

 感情が先走ったようなリュイセンと、自分を締め上げてくる相手を平然と見返すルイフォン。どちらが優勢であるかは傍目には明らかで、リュイセンの父であるエルファンは、大きく溜め息をついた。

「リュイセン、とりあえず拳を収めろ。――まずは、ふたりとも席につけ」

 低く冷徹な声が命ずる。

 ばつが悪そうにリュイセンが着席すると、ルイフォンもそれに続いた。ふたりが落ち着いたのを確認すると、エルファンは斬りつけるような冷たい視線をルイフォンに向けた。

「これは、藤咲の当主の人命に関わると同時に、我々鷹刀の体面に関わる問題だ。無様な戦い方はできない。――ルイフォン、子供の感傷も大概にしろ。お前は足手まといだ」

 エルファンの弁は道理である。

 ルイフォンは当然、誰かがそう言ってくると構えていた。むしろ、それを待っていたといってもいい。

「俺は、ひとりの死傷者も出すつもりはないぜ?」

 にやりと、含みのある笑いを漏らす。

 エルファンが、ぴくりと眉を上げた。裏があることに、いち早く気づいたのだ。わずかに体を引き、静観の姿勢を取る。

 と、なると、声を上げるのは――。

「はぁ?」

 すぐ隣から、素っ頓狂な声がルイフォンの耳朶を打った。

「斑目の本拠地を総攻撃して、無傷ですむわけないだろ!?」

 唾を飛ばし、リュイセンが噛み付く。

 期待通りの反応に満足し、ルイフォンは涼しげな顔で、とぼけた答えを返した。

「メイシアの親父さんを助けるために、他の誰かが犠牲になったら、メイシアが悔やむだろ?」

 そして、柔らかな微笑みをメイシアに向ける。

 彼女は、険悪な雰囲気のふたりを交互に見ていたのだが、ルイフォンの顔の上でぴたりと視線を止めた。そして、鋭く息を呑み込む。……しかし、彼女は吐き出す言葉を思いつけなかった。ただ、どきりとした心臓を抑えたまま、目を見開いている。

「何、ふざけたことを言っているんだよ!」

 リュイセンの尖った声がテーブルに突き刺さった。――描いていたシナリオそのものの展開に、ルイフォンは内心でほくそ笑む。

「まぁ、聞けよ。――一族の中には貴族シャトーアを快く思っていない者も多い。そいつらの感情を考えたって、犠牲は絶対に許されないんだ」

「そんなこと言ったって無理なものは無理だ! 割り切る他ない。祖父上の決めたことに逆らう奴は、一族にはいない」

「今後も、鷹刀と藤咲家が友好な関係でいてくれないと、俺が困るんだよ」

 リュイセンの剣幕をもろともせず、ルイフォンが意味ありげな微笑みを浮かべる。

「だから、一族をあげての総攻撃はしない。今回のことは、俺がひとりで全部やる。斑目のことは親父の――総帥の希望通りのレベルにまで、俺が責任持って叩き潰してやる。その代わり、メイシアの親父さんに関しては、救出だけが目的の隠密行動として、俺に行かせてくれ」

「いい加減にしろ! お前ひとりで、叩き潰せるわけないだ……」

「経済制裁――!」

 鋭いテノールがリュイセンの言葉を遮り、食堂の空気を斬り裂いた。

 ルイフォンが、すぅっと目を細め、酷薄な笑みを浮かべる。

 彼の言葉の意味を一瞬で理解した者は――――ひとりだけ、いた。黙って頬杖をついて聞いていたイーレオが、人知れず眼鏡の奥の目を楽しげに細めた。

 疑問と緊迫とが渦巻き、皆の視線がルイフォンに集中する。

「人間は食わなければ死ぬ。そして、食うためには金が要る。だから俺は、斑目の資金源を断つ。――こちらの被害はゼロという条件で、斑目に打撃を与える方法はこれしかないと思う」

 そう言ってルイフォンは、鼻息を荒くしているリュイセンをちらりと見やった。

「勿論、うちの連中の中には、斑目の血を見ないと納得しない奴もいるのは分かっている。けど、今日の襲撃では、こちらに死傷者はいないんだ。警察隊に立ち入られたという不名誉も、藤咲家のふたりの機転によってそそがれている。だから、今回の報復は、経済的に斑目を追い詰めることで良しとしてくれないか?」

 エルファンが「ほほぅ」と、感心した声を上げた。

「それは面白いな。あの狂犬に、ちょうどよい餌を与えることもできる」

「ああ。あの警察隊員が使えるというのも、この案を考えた一因だ」

 ここで、話の流れが読めずに様子を窺っていたハオリュウが、むっとした声で口を挟んだ。

「すみませんが、鷹刀一族の方々だけで話されては困りますね。『経済制裁』とは、どういうことですか? 何をする気なのか、具体的に示してください」

 片方の眉を上げ、慇懃無礼にルイフォンを睨みつける。そんなハオリュウに、ルイフォンは「ああ」と相づちを打ち、猫背をぐっと伸ばして胸を張った。

「斑目が資金源にしているものは、ほとんどが非合法のものだ。その不正の証拠を警察隊に渡して、潰してもらう。――言ったろ、情報網の差だって。俺は、いざとなれば斑目の息の根を止められる証拠を揃えられる」

 彼が天才クラッカー〈フェレース〉であることは、一族ではないハオリュウに明かすことはできない。だから、こんな言い方しかできないが、彼がその気になれば、すべての凶賊ダリジィンを滅ぼすことも不可能ではないのだ。

「どうだろう――『総帥』」

 挑戦的な目を向け、ルイフォンが父イーレオに問う。

 ずっと頬杖をつきながら楽しげに成り行きを見守っていたイーレオは、そのままの姿勢で、にやりと笑った。

「いいだろう。斑目の総帥の逮捕状が、五通くらい書けるネタを用意しろ」

「へ? それだけかよ? もっと、壊滅的なネタを用意できるぜ?」

 拍子抜けしたルイフォンに、イーレオが珍しく渋い顔で諭した。

「斑目を頼って生活せざるを得ない、末端の者たちも存在する。完全に潰す必要はない。『必要悪』程度に生かしておけ」

 ルイフォンは腑に落ちない様子であったが、長年、父の片腕として働いている次期総帥エルファンは、「父上らしいな」と独りごちた。

 一方、いつもならルイフォン以上に、イーレオの生ぬるい指示に不平を鳴らすリュイセンが、じっと押し黙っていた。不審に思ったルイフォンが「どうした?」と水を向けると、思案顔で口を開いた。

「総攻撃をしなくても、結局、こいつらの父親を助けるためには、斑目の屋敷に忍び込む必要があるわけだろ? それをお前ひとりでやるのは不可能じゃないか?」

 ルイフォンは、にんまりと笑った。

「ああ、お前には言ってなかったな。メイシアの親父さんは斑目の本拠地じゃなくて、別荘に囚われている。既に情報屋トンツァイから見取り図を貰っている」

「な、なんだよ! それじゃ、全然、難易度が下がるじゃん!?」

「そ。だから俺が、こっそり救出してくるって。セキュリティを騙せば、なんとかなるだろ」

「いや、お前じゃ無理だろ。お前、貧民街で俺に助けてもらったこと、もう忘れたのか?」

 言いながら、リュイセンがルイフォンを小突く。

「祖父上。そういうわけで、俺がルイフォンに同行します」

 肩までの黒髪をさらりと流し、よく通る低音を響かせる――『神速の双刀使い』。

 その発言に、ハオリュウを除く誰もが目を見開いた。

 ここにいる凶賊ダリジィンたちの中で、もっとも貴族シャトーアに否定的なのが、リュイセンだったはず……。――ちなみに、ハオリュウは素直に感激している。

「お前……。どうした風の吹き回しだ?」

「茶化すな、ルイフォン。絶対に成功させるべき案件を、みすみす失敗させることは、愚かとしか言いようがないだろ? それとも、俺と一緒は嫌なのか?」

「そんなことあるわけないだろ! お前がいれば百人力だ!」

 ルイフォンが満面の笑みを浮かべ、リュイセンの首に腕を回して、ぐっと彼を引き寄せた。

 予想外の頼もしい発言をした息子に微笑しながら、彼の父親であるエルファンが問う。

「ルイフォン、斑目は『鷹刀が人質の正確な居場所を知っていること』を、知らないのだよな?」

「ああ。そのはずだ」

「だったら、私が陽動に出よう。現状なら斑目は『鷹刀の総攻撃が本拠地に来る』と考えているはずだ。それに乗ってやる。大部隊を用意して斑目の屋敷に向かう素振りを見せれば、そっちの別荘の守りは薄くなるだろう」

「えっ!?」

 リュイセンに続いての援軍に、ルイフォンの全身が興奮する。思ってもみない僥倖だった。

「助かる!」

「よし、それじゃ、決まったな」

 イーレオが頬杖から身を起こした。

「決行は今晩。ルイフォンはそれまでに、経済制裁となる証拠を揃えておくこと。エルファンは陽動。好きなだけうちの奴らを使っていい。ルイフォンとリュイセンは救出だ。それから――」

 イーレオは、言葉少なに座っていたミンウェイのほうを向いた。

「――ミンウェイは自白剤を調合して、捕虜を吐かせろ」

 忘れかけていた捕虜の存在に、一同が軽くざわめく。

 捕虜――執務室で傍若無人に振る舞った巨漢と、庭でメイシアに銃を向けた警察隊員。

「分かりました」

 ミンウェイが答える。

「本来なら、奴らから充分に情報を引き出した上で、救出作戦に移りたいところだが、藤咲家の当主の命が掛かっているから仕方ない。――以上だ、解散!」

 イーレオの低く魅力的な声が、食堂を震わせた――。

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