2.灰色の通りで

 トンツァイの店を出たふたりは、繁華街をさらに進んだ。昼が近づいてきているためか、来たときよりも、だいぶ賑やかである。特に食べ物を手に歩く人々の姿が多く見受けられた。

「ええと、だ。メイシア。シャオリエというのは……」

「この近くにある娼館のご主人の名前、ですよね」

「キンタンに聞いたのか」

「はい」

 ルイフォンを待っている間、キンタンたち少年グループはメイシアのことを根掘り葉掘り聞きたがった。しかし、この場で素性を明かすのは何かまずいような気がしたので、彼女は誤魔化すことにしたのだ。

 ――ごめんなさい。余計なことを言ってはいけないと、イーレオ様に言われているので……。

 この台詞は効果覿面だった。少年たちは、はっとしたように「ああ、そうだよな」と、頷き合って詮索を諦めた。彼女は自分では気付いていないが、上目遣いに申し訳なさそうに言う、その儚げな仕草も一役買っていた。

 代わりに彼らは、ルイフォンのことを面白おかしく話してくれた。本人のいないところで聞いてしまうのは、いけないことのようにも思えたが、彼女が知らない彼の話はとても興味深かった。

 その中に、ルイフォンの馴染みの娼館と、そこの女主人の話も出てきた。

「私……これから、そこで働くんですね」

 メイシアの声が震える。

 急なことなので、心の準備ができているとは言えなかった。しかし、鷹刀一族は彼女の家族の救出に向かって動き出した。ならば自分も約束を果たすべきだと、メイシアはぎゅっと口元を結び、覚悟を見せる。

「は……?」

 ルイフォンが間の抜けた声を上げる。しかし、この先の運命に毅然と立ち向かおうとしている彼女には、それも気遣いに聞こえた。

「大丈夫です」

 メイシアは『安心してください』と、先程の彼に倣って彼の頭をくしゃりと撫でるべきか否か悩んだ。けれど、それはやめておくことにした。むやみに他人に触れるのは彼女の流儀に反するし、爪先立ちにならないと彼の頭上には届きそうもなかったからだ。その代わりに精一杯の笑顔を作る。

「短い間でしたが、お世話になりました」

「……あ? あああ! 違う、違う!」

 慌てたように、ルイフォンが両手を振る。

「いや、いずれ、お前はシャオリエのところで働くのかもしれないけど、少なくとも今は違う! 今回はシャオリエが個人的に俺を呼んでいるんだ。シャオリエは俺の……うーん、なんと言ったらいいんだろう?」

 困ったように髪を掻き上げるルイフォン。メイシアにはわけが分からない。

「ええと、な。俺は子供のとき、鷹刀の屋敷とは違うところで母親と暮らしていたんだ」

「はい……?」

「けど、四年前、母が死んだ」

 唐突な話にメイシアは息を呑んだ。昨日、ルイフォンからクラッカーだった母親の話を聞いたとき、故人なのではと推測していたが、はっきり告げられるのは、また別だった。

「で、いろいろと落ち着くまで、しばらくシャオリエのところに世話になった。だからシャオリエは俺の……母親代わり? いや、俺の母も母親らしくはなかったけど、シャオリエはもっと『母親』というものから、かけ離れているな……」

 ルイフォンは困ったように言い淀む。

「まぁ、ともかく、シャオリエは身内みたいなものだ。いろいろ厄介な奴なんで、俺たちを呼びつけたのも、単なる興味本位だろう」

 彼はそう言って、再び溜め息をついた。



 醤油の焦げる香ばしい匂いが、メイシアの鼻孔をくすぐった。

 食べ歩きなど言語道断、と育てられた彼女であるが、繁華街ではそんな価値観のほうが野暮に違いないと思った。匂いの出どころに興味を惹かれながら、彼女はルイフォンに続いて脇道に入る。そこで、立ちすくんだ。

 ふたりが足を踏み入れた瞬間、あちらこちらから鋭い視線が飛んできた。

 塀に寄りかかって談笑していた少年たちが、急に黙り込む。

 地べたに座り込んでいた老人が、髭まみれの薄汚れた顔を不気味に歪める。

 俯いて作業をしていた焼きイカ屋の男が、周りの気配を感じてか顔を上げた。串を返す手を止め、露骨な様子でメイシアを凝視する。

 幾つもの濁った瞳がメイシアを囚えていた。

 自由民スーイラだ、とメイシアは悟った。

 彼らは国民としての義務を持たない代わりに、権利も持たない。戸籍を持たず、生きていても死んでいても、誰も気づかないし気にしない。

 その路地は、今までの街並みと大きく変わったところがあるわけではなかった。相変わらず、飲食店や小物の店がごちゃごちゃと所せましと並んでいるだけだ。強いて言えば、一軒一軒の間隔が狭くなっただろうか。

 淀んだ灰色の空気が、あたりに満ちていた。

 ルイフォンが黙ってメイシアの手を握った。反射的に彼女も握り返す。

「こういう世界もある、ってことだよ」

 彼が小声でそう言った。そして低い声で「顔色を変えるな。狙われる」と付け足す。

 だが――。

 どんっ。

「きゃっ」

 背後からぶつかられ、メイシアはよろけた。ルイフォンが握った手を引き寄せ、自分の胸の中へと彼女を保護する。

「ああ、痛てぇ!」

 ぶつかってきたのは、ルイフォンよりやや年上の少年だった。彼は、自分の肘に手をやりながらメイシアを睨みつけた。

 すみません、と頭を下げようとするメイシアを、ルイフォンが制した。こんな奴に下手したてに出ることほど愚かなことはない。しかし、少年の仲間たちが周りを取り囲んでいる。一悶着あるのは明白だった。

「痛ぇなぁ! 骨が折れたかもしれねぇぞ!」

 少年が怒鳴り声を上げる。女のメイシアと細身のルイフォンなので、少年はふたりを舐めきっていた。脅せば金を出すと思っている。軽薄な笑みを浮かべながら、大げさに腕をさすっていた。

 震えるメイシアの頭を、ルイフォンがくしゃりと撫でる。彼女が丸い目で彼を見上げると、「心配するな」と彼は囁いた。そして少年に向き直り、挑発的に目を細める。

「……どこの骨が折れているって?」

「なんだと? あぁあ!?」

 少年が一歩前に出た。

 周りの少年たちからも「こいつ……!」と憤りを含んだ響きが上がる。彼らのどよめきの波は、メイシアにぶつかった少年への期待となって押し寄せていった。

「やっちまえよ!」

 その声が引き金となり、少年がルイフォンに殴りかかった。

 ルイフォンは素早くメイシアを後ろに庇い、拳をかわす。皮膚のすぐ下に骨を感じるような痩せた腕だが、この辺りの住人だけあって決して弱々しくはなかった。まともに喰らえば脳震盪を起こすだろう。

「いいぞ!」

 声援に少年が口の端を上げる。

 少年は大きく振りかぶり、ルイフォンの顔面に向かって力強く拳を振るった。

 ルイフォンはわずかに頭を動かして避けると共に、ぐっと足を踏み込み、低い体勢から少年の手首を掴んだ。そして少年の拳の勢いに少しの回転の力を加え、同時に足を引っ掛ける。

「え――?」

 少年が自分の目を疑う。

 彼の体は、ふわりと浮いていた。ルイフォンに掴まれた手首が捻られ、宙を回る。

 詳細な動きを把握できていたのはルイフォンだけだった。皆が気づいたときには少年は片手をルイフォンに取られたまま、背中を強く地面に打ち付けられていた。少年は、ぐふっという呻きを漏らす。

 ルイフォンが手首を外側に捻りながら、少年の後頭部を足で押さえた。

「いっ……」

 痛い、と喚くことすらままならない様子で、少年は恐怖を顔に貼り付ける。

「折れるのは、どこの骨だ? 手首か? 首か?」

 ルイフォンの冷たい声に、少年たちが静まり返った。彼らは歯向かうべき相手を間違えたことを悟った。

 少年たちのひとりが、はっと顔色を変えた。

「こいつ、鷹刀ルイフォンだ。凶賊ダリジィンの、鷹刀……!」

 先程までとは打って変わり、彼らの間に恐怖が伝搬する。

「どうするんだよ……?」

「半殺しになった奴もいるって聞いたぞ」

 青ざめたのは少年たちだけではなかった。背後に庇ったメイシアの息を呑む気配を感じ、ルイフォンは渋い顔をした。

「人聞きが悪い。やったのは一緒にいたリュイセンだ」

 ルイフォンが、ぐるりと周りの少年たちを見渡すと、皆一様にびくりと肩を跳ね上げた。完全に腰が引けている。ルイフォンの足元にいる仲間を気にしつつも、そろりそろりと後ずさっていた。逃げるタイミングを図っているのが見て取れた。

「ま、そういうわけで。俺の連れへの無礼を詫びてもらいたいところだが……。お前たちは運がいいな。今日は先を急いでいるんで、こいつの手首一本で許してやろう」

「ルイフォン……!」

 メイシアが目を見開いた。

 彼女にとってルイフォンの言葉は残酷で――しかし、こういう場での流儀を知らない彼女には何も言えず、押し黙る。

「――と、思ったけど、連れが許してやる、と言っているから、今回は見逃してやろう」

 ルイフォンが柔らかく微笑む。それはメイシアの頭をくしゃりとやるときの表情だったのであるが、少年たちには悪魔の微笑に見えた。

 恐怖に動けぬ少年たちに、「行け!」と、ルイフォンが鋭く言い放つ。そして、彼は少年の肩を爪先で軽く蹴った。

 少年は弾かれたように、はっと立ち上がり、一目散に逃げていく。それを追いかけるかのように他の少年たちもあとに続いた。

 じっと見送るルイフォンの横顔に、彼は初めから少年に危害を加えるつもりはなかったのだと、漠然とメイシアは感じていた。

 少年たちの姿が見えなくなり、地べたの老人やイカ焼き屋が無関係を主張するように目を逸らすようになると、少しだけ空気が軽くなった。

「ありがとうございました」

 メイシアが深々と頭を下げる。それに併せ、艶やかな髪がきらきらと陽光を反射する。質の悪い服を身に着けたところで彼女の輝きが隠せるはずもなく、この灰色の通りの中では異彩を放っていた。

「いや、俺の落ち度だ。お前みたいなのをこんなところに連れてくれば、狙われるのは当たり前だった……ったく、シャオリエのやつ……」

 ルイフォンは、この場にいない面倒な人物に毒づいて、癖のある前髪を掻き上げた。こうなることが分かっていて、彼女はメイシアを呼びつけたのだ。根拠はないが、ルイフォンには断言できる。

「お強いんですね」

「あぁ? 俺がぁ?」

 極端に語尾が上がってしまったのは、彼にとってあまりにも予想外のことを言われたからだ。日頃から、武術師範のチャオラウにやられてばかりのルイフォンである。メイシアの純粋な気持ちは少し重い。

「……俺は、弱いよ。もともと鷹刀の屋敷で凶賊ダリジィンとして暮らしていたわけじゃないし、諜報担当の非戦闘員だから。相手が素人なら勝つ自信はあるけど、凶賊ダリジィンには歯が立たない」

 ルイフォンは灰色の街並みから視線を移して、青い空を仰ぎ見た。真昼の太陽が、中天高くから温かな陽射しを降り注いでいた。昨日とは違い、風はごくたまに、そよと吹くのみ。

 彼の瞳に映る空を知りたくて、メイシアもまた蒼天を見上げた。透き通った色はどこまでも澄み渡り、美しかった。しかし残念ながら、彼の心を窺うことは叶わなかった。

「おい、気を抜いていると、また面倒ごとに巻き込まれるぞ」

 唐突なルイフォンの声に、メイシアの意識は地上に引き戻される。先程の儚さすら感じられた様子から一変して、いつも通りの彼の戻っていた。

 彼は彼女に、すっと手を伸ばす。

 彼女は、わずかな逡巡ののちに、彼の掌にそっと手を載せた。

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