第419話 後嗣問題(Ⅵ)

「おめでとうございます!」

「おめでとうございます、陛下」

 生まれ落ちたことを喜び告げるが如く大きな泣き声が響き渡る廊下を足早に梨壺に向かう有斗に、すれ違う女官たちが口々に言祝ことほいだ。有斗の心に喜びと共に、子供が生まれたという実感が沸いてくる。

「うん、うん」

 有斗は心に余裕がなく、そこそこに生返事を返す。

 それにしても大きな泣き声だ。赤ん坊の声というのはこうまで遠くまで響くものなのだろうか。

 母親ウェスタに似て元気があり余っているのかもしれないが、内裏中に聞こえているのではないかと思われるほどの大声である。

 梨壺に足を踏み入れた有斗に女官が御包おくるみにくるまれた産まれたばかりの赤子を差し出した。

「おめでとうございます、陛下。元気な姫御子ひめみこさまのご誕生です」

 そこで初めて、有斗は産まれた子供が女児であることを知った。

 自分の子供が生まれたことは無上の喜びだったが、世継ぎたるべき男子で無かったことに落胆が無かったのかと言えば嘘になる。

 人としての有斗は子供が男であろうが女であろうが子に対する愛情に何の変りも無いが、世継ぎを持たない王としては子供が男であるのか女であるのかは大きな違いがあるのである。

「陛下、いかがなさいましたか」

「ウェスタ頑張ったね。元気な子だよ」

 落胆を表に出してはまずいと気を取り直し、有斗はおっかなびっくりその新しい命を両手で抱いた。

 産まれたばかりの赤子は首が据わらないということは知識として知ってはいたが、女官が手を放すと赤子の首が大きくぐらつき、もげるのではないかと焦った有斗は慌てて赤ん坊の後頭部に手を回した。

「姫御子かぁ。ウェスタに似て可愛い女の子だ・・・・・・ね」

 有斗は最後は少し言い淀んだ。生まれたばかりの赤ちゃんは若干湿っているせいかもしれないが、しわしわで猿に似ていて可愛いとは正直、言いかねる顔だったのだ。

 しかもよくよく見れば頭髪の薄さも気になるところだ。僅かばかりに生えた、やたらか細い髪の毛の間から地肌がくっきりと見える。このまま大人になってもハゲのままだったらどうしよう。有斗は娘の将来が心配になって来た。

 有斗が赤ん坊の顔をじっと見つめたまま固まっているものだから、興味を魅かれたセルウィリアも腕越しに顔を出してそっと赤ん坊の顔を覗き込む。

「可愛いですわねぇ! 陛下にそっくりです!!」

 それはセルウィリアにしてみれば褒め言葉のつもりであったろうが、逆に有斗はますます不安になった。ウェスタに似たのであれば嫁の貰い手に困ることはまずないだろうが、自分に似ているがために嫁の貰い手が無かったとしたら可愛そうではないか。有斗はずいぶんと先の長い心配をした。

「陛下、陛下。わたくしにもその子をもっと見せてくださいまし!」

 有斗は赤ん坊の顔が見やすいようにセルウィリアのほうに身体を向き直した。

「ほら」

 セルウィリアは恐る恐る指を差し出し、目の前の赤ん坊の頬に触れた。吸い込まれそうな、想像以上に柔らかな頬の感触にたまらず指を引っ込める。

「やわらかいです。かわいいですねぇ!」

 触れても嫌がったり、泣き出したりといった拒否反応を示さなかったことに気をよくしたセルウィリアは、今度はその小さな手に触れようと指を近づけた。手のひらをゆっくり優しく触ると、赤ん坊がその刺激に反応して握り返した。

 これは何も特別なことではない。人間の子供が生まれたときに既に備わっている能力の一つで、把握反射というやつである。

 だがその瞬間、体に電流に似た、得も言われぬ感情が駆け抜け、セルウィリアは興奮した面持ちで有斗に振り返った。

「陛下、見ましたか!?」

「何を?」

「この子、わ、わたくしの指を握りました!」

「そうだね。それで?」

 有斗は把握反射という言葉すら知らなかったから、それが赤ん坊のごく当たり前の行為だというまでは理解できなかった。だが手のひらで物を握るという行為に何か特別なものを見出すこともできなかった。だから何がセルウィリアをこんなに興奮させているのか分からなかった。

「わたくし、確信いたしました! この子とはきっと前世から何か強い縁があるに違いありません!! 運命を感じます! そう、わたくしと陛下との出会いのように!!」

「え・・・!?」

 有斗の脳裏に疑問符が浮かび上がった。

 有斗はセルウィリアとの出会いに何か特別なものを感じた記憶が無い。それはその後、アエティウスを失ったという、もっと記憶に残る悲劇的な大きな出来事があったということもあるが、脳をひっくり返しても噂通りの凄い美人だと思ったことしか記憶にない。

 それくらい特に心に引っかかるものが無い。

 セルウィリアにしたって戦に負け、女王の座から退いたというのは記憶に残る出来事であろうが、当時は有斗に出会ったということにそんなに意味を見出している様子はどう思い出しても見られなかった。

 運命というのならセルノアやアリアボネとの出会いのほうが特別な運命的なものを感じたものだ・・・いきなりぶん殴られたアエネアスもそれはそれで印象的ではあったが。

 有斗の困惑をよそに、セルウィリアは一人で勝手に盛り上がり始める。

「わたくし、この子をこの手で育てたいと思います! 梨壺、陛下、よろしいですわよね? なんと言いましても、わたくし正妃ですもの!」

「え・・・それはどうかな・・・?」

 有斗は横目で寝台に横たわるウェスタの表情をうかがった。

 産んだばかりの大切な宝物を取り上げられてはたまったものではない。ウェスタは言葉には出さないものの、眉間にしわを寄せて有斗を見つめ返すことで強い拒否の意向を表明した。

 有斗は先走るセルウィリアを押しとどめた。

「そのことはおいおい話し合っていこうじゃないか。急ぐことは無いよ。さ、清涼殿に帰ろうか。ウェスタも出産で疲れただろうし、休みたいだろう。この子もおねむの時間さ」

「わたくし、きっとこの子を立派な国嗣として育て上げますわ!」

 必ず説得してくださいというウェスタの視線を背中に感じながら、有斗はセルウィリアをその場から隔離した。

 後涼殿に帰ったセルウィリアは大量に作っておいた男物の衣服やおもちゃを、後宮の裏の部屋に押し込めるように女官たちに命じると、今度は女ものの衣服やおもちゃを前と変わらぬ熱意で作る準備を始めた。


 取り急ぎ溜まった仕事を片付けた有斗は、昼過ぎにもう一度セルウィリアと共に梨壺を訪れた。少しでも娘を見ていたかったし、名前を付けるという神聖な儀式が残っている。

 有斗はこればっかりは一向に成長の見られない、例のへたくそな字で書いた紙を二人の前に広げ、自分の腹案を披露する。

「遥かな香と書いてはるかと呼ぶのはどうだろう。雄大さと同時に繊細さを兼ね備えた女の子らしい、いい名前だとは思わないか!」

 出産では何が起きるか分からない。少しでもウェスタに対するプレッシャーを減らそうと口にしなかったが、有斗は子供の名前を男女それぞれ何組かを、ずっと心の中で考え温めていたのだ。

「・・・・・・・・・・はぁ」

「・・・ん? 皇后も梨壺もピンと来なかったのか?」

「はぁ・・・」

 考えに考え、自信のある名前だっただけに、セルウィリアとウェスタが揃って当惑した表情を浮かべる様子を見て、今度は有斗が困惑した。

 自分のセンスではアメイジアの人々の琴線に触れないのだろうかとがっかりし、しぶしぶ二番手に取って置いた名前に切り替えた。

「では翼というのはどうだ? なにものにも捕らわれない気概のある、王の子供に相応しい名前だとは思わないか?」

 セルウィリアとウェスタが揃って目線を合わせた。

「ツバサと言うのは・・・もしかして鳥の翼とかの翼のことでございますか」

「うん。他に何かあるのか?」

 有斗の言葉に、珍しくセルウィリアとウェスタが目線を合わせた。

「ひょってして・・・陛下は姫御子のお名前に漢字を使おうとお考えですか?」

「ひょっとするもなにもそのつもりだけど」

 有斗は先ほどから会話がかみ合わないと思っていたのだが、自分とセルウィリアやウェスタとはそこにずれがあるのだと初めて分かった。とはいえずれがあるのは分かったが、なぜそこでずれが生じるのかはさっぱり分からなかった。

 その疑問を氷解させたのはセルウィリアの言葉である。

「陛下、文字はサキノーフ様が授けてくださったものですが、当たり前のことですが名前というのは御降臨より前から存在しておりました。人名や地名に漢字が使われぬのは、昔よりの習わしなのです」

 そういえば漢字やひらがなを使うアメイジアにもかかわらず、漢字の名前の人物に出会ったことが無かったことを有斗は今更ながら思い当たった。

「ん? でも漢字の地名はあるよね? たとえば三京(東京龍緑府、西京鷹徳府、南京南海府)とか。名前に漢字を使うというのはおかしなことじゃないんじゃないか?」

「そういった東京龍緑府だとか青野ヶ原や朱龍山脈などはサキノーフ様御降臨以降に付けられた地名です。ダルタロスやハルキティアなど古来の部族に由来する地名は変わらずに今も残っております」

「新しい地名に漢字を使うなら新しい人命に漢字を付けたっていいじゃないか」

「地名と異なり人名は、今も昔ながらの名前をつける風習が残っており、決して漢字を使いません」

「そうなのか・・・」

 それがアメイジアでの通常の名前の付け方というのなら有斗としては無理に自分の意見を押し通すのは心苦しいところがある。

 有斗はいい名前だと思うのだが、それはこの世界の人にとって違和感を感じる、いわゆるキラキラネームのようなものなのかもしれない。有斗が付けた名前で子供がぐれてしまっては元も子もない。有斗は名残惜しそうに『遥香』と書かれた紙に目を落とした。

「それにハルカもツバサも名前としては短すぎ、まるで庶民の名前のようです。姫御子の名前としては格調に欠けます」

 またまた別の観点から否定され、有斗はますます気分を害した。

「・・・それを言ったら梨壺はどうなる。ウェスタだぞ? 短くはないか?」

 単純な文字数ではハルカのほうが確かに短いものの、ウェスタやアエネアスやアリアボネだって文字数はそうは変わらないはずだ。有斗は抗弁した。

 ところが、

「ウェスタはいいのです。母音が多く含まれており、格調高い名前です」

 と有斗が理解しがたい理由で擁護された。

「それじゃどんな名前が普通なのさ」

「一般の名前と異なり、姫御子は古の風習では母親の氏族、あるいは一族の封地から名付けられたと言います。梨壺はベルメット伯ですから・・・この場合、ベルメッティアとなりましょうか」

「皇后さまのおっしゃることは事実です。ただ最近ではあまりにも古風すぎてそういった例はなかなか見られません。それにベルメットは先祖伝来の土地というわけではありませんので娘の名前として相応しいとは思われませぬ」

「そうですね・・・確かにもうあまり見られない風習ですね。それにベルメッティアでは少し軽い気がしますね。もし封地が以前のツアヴタットのままならツアヴタッティアということになって語感も優れているのですけど」

「ツアヴタッティアはいい名前ですね! つくづく封地が変わったことが悔やまれます」

 二人の感性についていけないものを感じ、再び有斗は当惑した。

 有斗にはベルメッティアとツアヴタッティアとの良し悪しは全く分からなかったが、日本で考えるならばシモキタザワやサンケンジャヤだとかグンマーだとか名付けられるのと同じである。

 有斗にはとても受け入れられなかった。

「それは嫌だなぁ」

「でしたら、先祖や近親の名前を付けるというのはいかがでしょうか。王族に多い名前というものがございます。例えばわたくしの名前であるセルウィリアというのは高祖神帝サキノーフ様の妃の一人で、二代明帝の生母であるお方にあやかった名前です。良妻賢母として高名なお方の名前のため縁起がよいので、一世代に必ず一人か二人は付けられるという由緒ある素晴らしい名前ですのよ」

 セルウィリアは自慢げに自分の名前の由来を披露する。

 だが、そうは言うが有斗はセルウィリアという名前をそんなに耳にした記憶が無い。というよりセルウィリア以外のセルウィリアに一人も会ったことは無いのである。

 それに疑問に思うこともある。

「そんなに人気がある名前だっていうのなら、みんなセルウィリアって名前を付けたがらない?」

 セルウィリアの話が本当なら、国中がセルウィリアで溢れていなければおかしい話だ。

「家柄というものがあります。そういった名前は王の血縁以外は遠慮するものです。名前負けしてしましますから。それに諸侯の姫には諸侯の姫にふさわしい名前があります」

 そういえばアエネアスという名前には、どことなくアエティウスと同じ一族の娘であると感じられるものがあった。諸侯の家の名前にはそれぞれの諸侯の色というものがあるのかもしれない。

「ウェスタもそうってこと?」

「私は本家ではなく分家の娘でございましたから、やはり名前としては少し格が落ちますね」

 ウェスタは悔しそうにそう言った。既成の秩序が崩れる下剋上の世であり、諸侯の一族の出というこの世界では恵まれた出自だが、生まれで悔しい思いをすることもあるのであろう。

「また家柄とは別に、母の名前を継ぐというのも多うございますね」

「母と同じ名前か・・・つまりウェスタってこと?」

「はい」

「親子で同じ名前じゃ、名前を呼んだだけでは、どっちを呼んだか分からなくて不便じゃないのか?」

「その場合は母に『大』を娘に『小』をつけて呼ぶのが一般的です。梨壺女御を大ウェスタ、姫御子を小ウェスタと呼んで区別いたします」

「それがアメイジアでは当たり前ってことは分かるけど、親子で同じ名前っていうのはしっくり来ないなぁ・・・あまりいい考えとは思えない」

 現代でも西洋では親子で同じ名前というのもある話なのだが、名前のバリエーションだけなら世界一といってもいい日本から来た有斗には、親の思いが込められたその子だけの特別な名前を付けたいというこだわりがあった。

「私も陛下と同じ意見ですわ。ウェスタという名は王の子としては軽すぎます。それに相応しい立派な名前が欲しゅうございます」

 ウェスタは自身が分家の出だということで一段低い扱いだったことが悔しく、その分だけ我が子には自分と同じ思いはさせたくないという思いが強いようだった。

「遥香も立派な名前だと思うんだけどなぁ・・・」

 有斗は自分が考えた名前にまだ未練を見せる。

 だが二人は有斗の意をくんで賛成に回ってくれるようなことは無かった。

「さすがにそれは・・・やはりもう少し長い名前がよろしうございますよ」

「そんな名前をつけられた人をわたくしはこれまで聞いたことがございませぬ」

 異口同音に責められ、有斗はすっかりいじけてしまった。

「そこまで言うのならば皇后と梨壺とで幾つか考えてよ。その中から最終的に僕が選ぶから」

 セルウィリアとウェスタはとても珍しいことに仲良く熱心に姫御子の名前について何時間も論じ合った。

 そして二人が選んだという、やたら長ったらしく発音しにくい(セルウィリアらに言わせると荘厳で気品あふれるそうだが)名前の中から、有斗でも口に出しやすい、語感の優れた、女性的な名前を最終的に選んだ。


 有斗王の女一の宮はオフィーリアと名付けられた。

 彼女こそ後の世に有名な、いわゆる『天下御免のオフィーリア姫様』である。 

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