第392話 潜龍坡の戦い(Ⅷ)

 その頃、教団幹部たちの意見は割れ、なかなか最終的な結論を出すことができなかった。

 コルペディオンに引き続いて、彼らが立てた作戦が脆くも崩れ去ったことに大きく動揺して、自慢の知恵とやらを存分に働かせられないでいるのだ。

 教団を支える幹部たちの大半が、教団という既存の団体の中で理論や理念ばかりを追い求め、机上の空論ばかりもてあそんで済むようなぬるい閉鎖的な世界で育ってきたツケが回ってきたか、とガルバは苦い思いで一杯だった。

 想定外の非常時に対する対応が無能なら無能で別に構わない。人間誰だって得手不得手がある。

 俺だって金勘定は得意だが、信仰理論とやらはさっぱり分からない。だが、分からないことは専門家に任せるというのが一人前の大人の対応というやつではないかと、ガルバは思う。

 確かにいったん軍事指揮権を渡すことは兵の私物化につながり、将来的に教団にとって危険な存在になるかもしれない。

 しかし王との戦が終わればすぐに軍から切り離せばいい話ではないか。それでも心配ならば、戦が終われば始末してしまえばいいくらいに考えておけばよいのである。手段はいくらでもある。

 まずは何よりも目の前の巨大な王という存在を消すことだけを第一に考えなければいけない時だ。

 了見が狭い、器量が小さいと言わざるを得ない。


 王師が教徒主体となる教団の本隊を視界に収めたときは、折りしもそんな会議が行われている最中だった。

 敗兵をひたすら勢いのままに追撃してきた王師だったが、さすがにその数を目にしてはそのままでは打ち向かう気にはなれなかった。たたらを踏むように立ち止まった。

 後続の兵と将軍を待ち、自然と各部隊ごとに布陣するような形となる。

 前線の敗報に動揺し、軍の足を止めて会議中の教団幹部たちにもその一報は届けられた。

 敵を至近距離に目にしては、いまさら撤退という選択肢もありえないし、会議をこのまま続けるという選択肢もありえない。

 幹部たちは手持ちの部隊へと馳せ参じ、いつ王師と戦いが起こってもいいように即応体制を整える。

 だが撤退してくる傭兵たちの悲惨な姿を目にし、既に戦う前に教徒たちの士気は最低にまで落ち込んでいた。

 追撃に隊伍を乱し、指揮系統も乱れ、戦線は縦に伸びた。なおかつ兵力差は大きい。まもなく夕刻で戦闘可能時間も短い。

 王師が終結し、それなりの体勢を整えてから攻撃するか王に判断を仰ごうと王師は動きを見せなかったのに、教徒たちは指揮官や下士官の命を無視して隊列を抜け出し、後退を続ける傭兵の中に混じって逃げ始めたのだ。


 大きく動揺を見せる教団に付け込もうと戦いの口火を切ったのは、何の因果かいつのまにやら王師の中にしれっとした顔で紛れ込んでいたマシニッサの部隊である。

 マシニッサ隊は王師の後、諸侯軍の只中に位置していたから潜龍坡を抜けてきたのは相当後のことになるはずなのだが、王師が追撃戦を行っている間に、次々と部隊を追い越して王師の中ほどに入り込んでいたのだ。

 マシニッサ率いるトゥエンクの兵一千はベルビオ隊とザラルセン隊の間にある僅かな隙間を抜け出て、真っ直ぐに教団の分厚い壁目掛けて駆け出していった。

 王の命令も無い、勝手な行動を見て、王師の将軍たちは唖然あぜんとして口を半開きにした。

 マシニッサの迂闊うかつな攻撃から全面戦闘になって、その結果として敗北したら責任を取れるというのだろうか。

 本人はそう思っていないかもしれないが、教団との戦いは諸侯の争いとは違い、妥協の余地は無い。敗北したら領土の一部を引き渡すとか金銭を差し出せば解決をつけられる問題ではない。喰うか喰われるかである。教団が求めるのは王の首とアメイジア全てなのだ。マシニッサの首ひとつで解決するような生ぬるい問題ではないのだ。

 そう考えるのは王師の将軍だけではない。マシニッサの側で兵を指揮するスクリボニウスもそう考えた一人だ。

「勝手に攻撃しても叱責されませんかね? せめて陛下に許可をいただいてからにしたほうがよろしいかと思うのですが」

 マシニッサの腹心をもって自負するスクリボニウスだ。本人も相当に図太い性格をしている。それこそ自分に直接の利害関係が無ければ、主の危機も放置しておく程度に。だが、主のこの突拍子も無い行動には面食らって、忠告せざるを得なかった。

 もっともマシニッサがこのまま兵を教団の只中に乗り入れたら、マシニッサだけでなく腹心である自身の命も風前の灯となるのである。必死にもなろうというものであった。

 だがスクリボニウスの嘆願にも似た忠言にもマシニッサの心が動かされるよう数は見られなかった。

「王・・・いや、陛下の到着を待っていては、教団側に立ち直る機会を与えてしまう危険性がある。ここは敵が大きく動揺している間に敵を攻撃することで更に揺さぶりをかけ、勝敗を一気に決してしまうべき時であろうが」

 まるでその戦闘で自分が死ぬことなど微塵も思いつかないかのような明るい声に、スクリボニウスの心はむしろ暗くなる。

 今までマシニッサの多少の(とはいえないものも多々あるのだが)無茶に付き合ってきたスクリボニウスであっても、僅か一千ばかりの兵で、数万はある眼前の部隊にぶつかっていくなど正気の沙汰とは思えない。確かに教徒は素人に近い錬度の低い兵かもしれないが、二倍とか三倍とかいった程度の差ではないのである。圧倒的な数の前に圧殺される未来図が目に見えるようだった。

「見よ、敵は相次ぐ敗北に大きく浮き足立っている。一突きしたら崩れだすさ。この好機を見て分からぬほど王師の将軍は馬鹿じゃない。我らが攻撃すればそれを契機に一斉に攻勢に転じるはずだ。それにもし、我らを見殺しにでもしてみろ。ここまでの勝利の流れが一転し、今の優位性が崩れ去る。それが分からぬほど王師の将軍は馬鹿でもない」

「しかし理解していても動かぬ可能性があるではありませぬか。マシニッサ様は今はアメイジア屈指の大諸侯。やっかみや嫉妬から朝廷や王師内には煙たく思われる方も多うございましょう。これを好機としてわざと見殺しにし、亡き者にせんと謀るものがいないとも限らないのでは?」

「そう思うものが王師の将軍にいたとしても、あの王に俺を切り捨てるほどの冷酷さは無いさ。王としてはあの少年は甘すぎる。もっともそこに付け入る隙があるということが、俺があの少年の一番好きなところだが。そしてもし俺といえども、味方を理由無く見殺しにしたことを知ったら、王がどう思うか想像出来ない将軍もいない。大丈夫さ。俺に対する好悪の感情はともかくも、王の不興を買うだけの気骨のある将軍が今の王師にいるものか」

「はぁ・・・」

 気の無い返事をしながら、それは気骨があるというよりはマシニッサのように反骨があるというべきだろうな、とスクリボニウスは意地悪く考えた。


 死にたくは無いものの、それでも全てがマシニッサの思い通りにいくのは実にしゃくであるし、世界はそんなに甘いものではないだろうというスクリボニウスの願望にも近い考えとは違って、事態はマシニッサの想像通りに動くことになる。

 正しい情勢判断、勝利への渇望かつぼう、流動的な流れの中で重大な一瞬を見逃さない眼力、そういった戦国の世の諸侯に一番求められる能力をマシニッサは誰よりも所持していることを表したのは、この戦においてであるかもしれない。

 ベルビオ隊とザラルセン隊という肉体派が揃う王師の中でも一、二を争う脳筋集団の脇をすり抜けていったことも、巧まざる計算の一つだった。

 その両隊の兵士にとってマシニッサ隊の行動は、圧倒的多数の教団に寡兵で恐れずに向かっていく勇気ある行動でも、無鉄砲に向かっていく無謀な行動でもなく、先陣したにもかかわらず、後方の味方を待っている自分たちの好意を無視して、抜け駆けの功名を狙う汚い行動に思えた。一兵卒から旅長まで猛烈に腹が立った。もちろんベルビオやザラルセンも例外ではない。

 敵の数の多さを考えて王の判断を仰ぎ、攻めるにしても他の王師が全て揃うまでは待つという、先程までの慎重な考えはすっかり脳裏から消え去り、今すぐにでも敵に飛び掛らねば大事な獲物を横取りされてしまうといった浅ましい考えに取り付かれていた。

 なにしろマシニッサほどの目先の利く男が、僅か一千の兵を率いて敵に向かっていくのだ。よほど勝利の確信があるからに違いないと思ったのだ。

 それが何であるか分かるものはもちろん一人としていなかったし、もちろんマシニッサにもそんなものは無かったわけではあるのだが。

 ともかくもマシニッサ隊に煽られたベルビオ隊とザラルセン隊が動き出すと、それに合わせて移動するつもりも無かった王師の他の部隊も慌てて追従する。マシニッサだけならともかくも、同じ王師の兵は見殺しにするわけにはいかない。

 王師の兵は槍を引っげて教団の分厚い壁に向かって次々と向かっていった。

 攻撃を受ける側になった教団は睨み合いが始まっていただけに少し油断はあったものの、それでもなんとか防衛体制を整える。

 特に中央前列を受け持っていたバラス旗下の隊は正確に対応し、真っ先に攻め寄せたマシニッサ、ベルビオ、ザラルセン隊の攻撃をことごとく退けた。

 兵数が多い、連戦で王師の兵には疲労が見られたといったことがあるにしても、これは褒められるべきことであろう。

 何しろ他の部隊は王師の攻撃を受けて崩れ去っていたのだから。

 王師の攻撃を受ける前から既に兵の逃亡を許すなど、統率が取れなくなっていた教団は、一部の部隊は槍を突き入れられるや否や霧散するように兵が逃げ散り、戦にすらなっていなかった。

 多少不利な状況でも兵をまとめられるだけの力量を持った人材が教団には少なかったのだ。

 バラスをはじめとしたその一部の例外の者だけは奮闘し、なんとか踏み止まって惨めな敗北だけは免れようとする。

 望みは十分にあった。時間だ。まもなく日が暮れる。

 崩れ去るにしても、日が落ち、周囲が暗くなってからならば損害は軽微なものになるはず。兵たちの心理的な負担も少ない。

 今は敗北感に打ちひしがれた彼らも、翌日には少しは戦うことができるようになる。

 その時、正面に立ちふさがるバラス隊を避けるように左翼から斜めに突入したエレクトライ隊から一部の部隊が突出し、教団の部隊を次々と蹴散らして、バラス隊の後方、教団首脳部のいる本営を強引に強襲した。

 騎馬ではあるが数が少ない強襲用の部隊である。敵中で足が止まれば待っているのは死だけである。

 幾度か勢いを失いかけた部隊を強引に進ませたために、三割もの兵を失う決死隊となった。

 だがそれだけの価値はあった。この一突きは本営の陣幕を馬蹄にかけ、全体的に少しずつ崩壊をはじめた教団の陣を必死で立て直そうと指揮を取るイロスの胸を突き破ったのだ。

 幾人もの純真な教徒が盾となって王師の前に立ちふさがったが、彼らの献身的な犠牲も虚しくイロスは落命する。

「私はもはや助からぬ。戦のことはベリサリウスとガルバで協議して決めよ。将軍たちの知恵を借りるが良い。内治のことはアリスディアに任せればいい。あの女ならば上手くやるだろう・・・」

 それが彼の最期の言葉であった。野心家ではあったが、自らが所属する教団に対する忠誠もそれなりに持ってはいたのであろうか。

 だが、これが最後の決め手となった。教徒たちは幹部から単なる一信徒まで我先にと他人を押しのけ逃げ出した。

 もはや誰にも教団の崩壊は止められなかった。

 王師は追った。南海道とケイティオ街道が交わる場所まで追いに追いかけた。

 だが王師もそれ以上の追撃を諦めねばならなかった。前方の小高い丘の上に陣を敷く部隊の姿を視認したからだ。

 それは言うまでも無く、バアル、デウカリオ、ディスケスの部隊である。

 強敵だ。王師の部隊は街道が交わる狭い狭間で足踏みをした。ここで王師の追撃は終わることになる。

 兵たちの疲労はピークに達していたし、追撃することで王師の戦列は大きく長く縦に伸びた。ここでこれ以上、交戦しても損害が増すばかりであると有斗が判断し、追撃を中止させたのだ。

 王師は平原の入り口まで兵を戻して布陣し、明日の決戦に備えることとなった。


 一方、教団の敗勢は固まった。戦に負けたこともそうだが、指導者と見られていたイロスが死んだことが教徒たちには堪えたようだ。

 死が怖いものは闇に紛れて立ち去る。次々と逃げ出す教徒や傭兵、兵力は見る見るうちにせ細った。

 彼らの手に残された兵力は五万を割ったことは確実である。しかもその多くは敗残の兵であった。勝利の見込みは無い。

「終わりか・・・これで・・・」

 ガルバは力なく肩を落とした。

 残る手段は、篭城か散兵か・・・なんとか持久戦術に持ち込んで時間を稼ぎ、組織を再建するくらいしか良い手を思いつかなかった。

 だがここまで大事おおごとにしたのだ。王がソラリア教を大きく弾圧するのは間違いが無い事態である。そんな状況で再建ができると思うほどガルバは能天気ではなかった。

 だがそんな彼とは違い、この状況にも能天気なくらいに明るく、むしろ闘志をあふれさせるような奇特な男たちがいる。バアル、デウカリオ、ディスケスたちだ。

「終わりではない。まだ我々がいる。我々を打ち破らない限り、王はアメイジアを手に入れることなどできやしない」

 この絶望的な状況で、どこからその自信が湧いて出てくるのだろうかとガルバが思うようなデウカリオの言葉に、バアルもディスケスも大きく頷いた。

「ああ」

「まだ終わりじゃない」

 そう言って振り返った彼らの目には傾いた陽に迫る夕闇の中、彼らの心中の闘志のように煌々と周辺を照らしだす松明の明かりと、敗戦に動揺もせずに陣営地に留まる兵の姿があった。

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