第318話 ザラサ峠口の戦い(上)

 一方、芳野では河東との交通が途絶されあらゆる荷が止められただけでなく、厳重な警戒態勢によりサビニアス自慢の草の者の活動が制限されていた。

 彼らは地元の者になんら違和感なく扮装し、怪しまれること無く活動することができるが、そんな彼らでも怪しげな人物だけでなく、商人でも農民でも難民であろうとも国境誓いに近づく者は遠慮なく叩き返されるという現状では、まるで打つ手が見つからないのである。

 しかも小賢しいことにツァヴタット伯を継いだ小娘は、サビニアス同様に間者を使った工作に長けているのか、雪中の高山を抜けて国境を越えたり、大河を下流へと下って上陸するといった手法を使わせたにも関わらず、その全てのサビニアスの部下を捕らえるか殺すかし、一切の工作活動を無効化した。

 おかげで冬営中の王師の動静が一切伝わらない芳野側の陣営内には不安が渦巻いていた。

「王師は何を考えて河東との境をここまで厳重に警戒しているのか・・・」

「芳野では多くの生活必需品を外からの輸入に頼っている。我らに手を焼いた王師が我らを干上がらせようという作戦に打って出たということであろうよ」

 そうなのである。芳野は色々なものを外部からの供給に頼っている。特に生活必需品である塩を止められた現状は実に厳しい。もっとも雪が融ければ越への道が開く。越から必要なものは入ってくるだろうから、直ぐにどうこうといったことは無いだろうが、この状況が長く続けば民は不安を抱くかもしれない。

 芳野の施政者でもあるデウカリオにとっては頭の痛い問題であった。

「只の荷止めであるならば、ここまで厳重に情報封鎖を行う必要があるわけが無い。他に何やら魂胆があるように思えてなりません」

 サビニアスがそう懸念を表すと、地図に目を落としていたデウカリオが顔を上げて訊ねる。

「どのような魂胆があると?」

「我らにいつ侵攻するか、どういう手段で攻略を行うか情報を与えぬことで、神経をすり減らそうという精神戦を強いているのでは? 例えば密かに河東にて攻城兵器を製作しており、それを我らに知られたくないとか」

 それは十分に考えられることである。旗尾岳城の攻略に手間取った王師はその苦戦の過程にて、ある程度は対策を考えついたはずである。

 冬の間をただ雪を避ける為だけに河東へ退いたと考えるのではなく、何かの為に退いたと考えるのならば、それが一番妥当な回答ということになりそうだった。

 まさか春になるまでの数ヶ月をただぼんやりと過ごしてわけではないだろう。そこまで王師も馬鹿じゃない。

「・・・あるいは芳野を一時置いておいて、上州から越に攻め込むとか」

 バアルの言葉に諸将は一斉に沈黙した。それは彼ら全員が心の中で疑ってかかっていることである。

 有斗が考え、密かに進められていたその計画だったが、それを取られてはこの戦役における彼らの存在意義が全て失われる彼らにとっては実はまず、いの一番に考え付いたことだった。

 良い将軍とはまず自分に取って一番取られたくない作戦を考える。そしてそれを相手がしてくると仮定した上で対策をするものだからだ。

 実は真実に辿り着いていた彼らだったが、だからといって今すぐ芳野を去り、越へと向かうことは出来ない相談だった。

 まず第一に越との境はまだ豪雪が降り積もり、とても軍隊を移動させられる状況ではない。

 次にこれが敵の罠だという可能性も考えられるからだ。王師が上州へ行ったと見せかけ、デウカリオらを越へと移動させる。そして空になった芳野を王師は苦労することなく手に入れる。そういう作戦だってありうるのだ。それではこの芳野と言う王師を迎え撃つ絶好の場所を自ら放棄してしまうことに他ならない。

 それを考えると確実な情報を手に入れるまでは迂闊に動けないというのが現状だった。

 それに王はとんでもないことを考えているのではないかといった不安がバアルにはある。

「とにかくあの王は見かけによらず奇抜なことを考える。油断は禁物です」

 関西を北周りという常識破りの行程で征服しようとしたように、イスティエアで中央突破を用いてカトレウスを打ち破ったように、そしてこの戦国乱世を自分の手で終わらせようと考えたように。

 そもそもデウカリオらの兵力は結局のところ少ない。とにかく相手が動かないことには、こちらとしても動きようが無いというのが本音だった。

 こちらから動いて隙を見せても平気な兵力差ではないのである。

 デウカリオたちはれる思いの中で雪が融けるのをひたすら待った。


 事態が動いたのは三月七日。雪深い山の中、道を切り開き、越からの使者が到着したのだ。

 使者を伴ってデウカリオらカヒの将軍たちの前に現れたディスケスの顔は悲痛に彩られていた。

「王師は芳野ではなく上州へ目標を変えた模様、御館様はこれを迎え撃つために既に白鹿館を出立なされております」

 デウカリオらはこれで王師の動向をはじめて掴むことになった。恐れていた事態になったことにデウカリオらの顔も青ざめ気味だ。

 なにしろテイレシアが動くのが早すぎる。まだ越と芳野の間は軍隊を通せるほどには雪融けしていない。

 もちろん除雪し、道を整えながら向かうことは可能といえば可能だが、芳野入り口に陣取る王師の残留部隊から妨害を受けないとも限らないし、それで間に合うかどうかといった問題が今度は出てくる。

「それで・・・我らにどうせよと? 越へと援兵を向けよとでもお言いつけか」

 是非、そうあって欲しいといった願いもこめてデウカリオは使者に問い質す。

「いえ、今から出立しても決戦には間に合わないでありましょうから、芳野を堅守して欲しいとのお言伝です」

 だが使者の応えはデウカリオたちを大いに失望させるものだった。それはデウカリオら抜きで王師との決戦を行うといった意味合いだったからだ。

 デウカリオらには自負がある。いかにオーギューガといえども、王に勝つには自分たちカヒの精鋭が必要なはずである、と。自分たちなしではテイレシアは負けると考えているのだ。

 そしてこれに敗北すればオーギューガは滅びる。そうなれば僅かばかりの兵しか持たぬデウカリオたちはもう二度とカトレウスの敵を取る機会に恵まれないであろうし、バアルも王と戦場で相見あいまみえることは夢幻ゆめまぼろしと化してしまうことだろう。

 だが越への道はまだ雪融けしない、またテイレシアからも芳野の援兵を待たずに出兵すると報告があったからには、越へ向かってオーギューガと兵を合わせて王と決戦するというのとは違う方策を考えなければならないということだ。

 デウカリオたちは手早く会合を持つと、河東との境に留守する王師を打ち破って河東へと出て、王師の輜重を襲いつつ東山道を進み、背後から王師を追いかけることに決定した。

 もっとも例え王師を打ち破って東山道を東へと王師を追いかけたとしても、決戦に間に合うとは思えないし、補給線を寸断したとしても王師が彼らを迎撃する為に慌てて戻ってくるといったことはまずありえないことであった。

 それでも芳野に残された彼らにとっては、それが決戦に参加するほんの僅かに残された希望だった。

 とはいえ王師を打ち破って河東へ入れるといったその前提ですらできるかどうかわからないのだが。

 一方、この知らせにもっとも無念を感じていた男はディスケスであったであろう。

 ディスケスは山が雪で閉ざされる前に越から芳野へと配下の兵一千と共に派遣された。

 翌春の攻撃は芳野に向けられると見て、テイレシアの打った手が裏目に出てしまったのだ。

 オーギューガの双璧ともあろう者が、天下分け目の決戦に参加できないことが確定してしまったのだ。

 それに王師と比べて兵力に劣るオーギューガにとって一千の兵であっても惜しいに違いない。

 であるからオーギューガきっての守りの人、慎重派で知られるディスケスもデウカリオ発案のその積極策に一も二も無く飛びついた。

 万が一、戦線が膠着こうちゃく状態に陥れば背後をやくすように動くことは意味ある行動となるし、決戦に間に合う目も出てくる。


 雪が融け出しても旗尾岳城に篭ったままだった兵が雪もまばらな平野部に降り、河東へ向けて行軍を開始したと聞いたガニメデは、どうやらのんびりと焚き火に当たってあぶった干物で酒をちびちびやるのが唯一の日課という至福の時は終わりが来たことを悟った。

「そろそろばれたかな」

 移動の報告を告げに来たウェスタにガニメデが返したのはそんな暢気のんきな返事だった。

 ガニメデに代わってここまで八面六臂はちめんろっぴの大活躍をしてき、これからは謀略よりも戦術の出番、ガニメデには自分に代わってカヒの軍隊と立ち向かってもらわねばならないと意気込んでいたウェスタは思わず眉をひそめる。

 正直な気持ちとしては、こんな将軍で大丈夫かと言いたくもなる。王師の将軍が数いる中、よりによってコレを残した王の気が知れなかった。

 もっともウェスタにしてみれば天与の人であり、百年ぶりに誕生した巨大王朝の主催者であり、カトレウスを打ち破った戦巧者であり、側近の近衛隊長に頭が上がらない情け無い王であり、からかうと直ぐに真っ赤になって口ごもる初心うぶな少年である有斗は、総合すると捉えどころの無い人物であった。

「まぁ任せといてくれ。この退屈の合間に策は練っておいたのだ。ツァヴタット伯には高みの見物でもしててもらおうか」

 とガニメデは口を大きく開けてガハハと笑って安受けあいする。

 本当に勝算はあるのか大丈夫かと心配になって問いただしたいくらいだ。なにしろ自身の命もツァヴタットの兵一千の命もかかっているウェスタにしてみれば、ガニメデが何か失敗しようものならばそのとばっちりを直に受けることになるのだから。

「それよりもツァヴタット伯殿には今までと同じく山越えをしてくる敵を防ぐのをお任せしたい」

 といってガハハと下品に笑い、更にウェスタを不安に陥れた。

 これから本格的な野戦、もしくは陣地戦になるというのに一千もの兵を別方面に貼り付けたままにしておくというのは正気の沙汰とは思えないからだ。

 といっても曲がりなりにも王師の将軍、忍びの扱いに長けたウェスタといえども兵の扱いは素人同然、どうすべきかは具体的に思いつかず、口も挟めない。

 ウェスタとしては部下の安全を考えて退路を確保しておくことに全力を注ぐくらいしかできることはなさそうだった。

 もっとも提言しようにも、親子ほどもある二人の年齢差が互いの交流を妨げていた。といってもウェスタにとってガニメデはどこからどう見ても交流を持ちたいと思うほどの相手ではなかったが。

「あんな親父じゃ陛下みたいにからかいがいもないし」

 まだヒュベル卿、エレクトライ卿、ザラルセン卿あたりの美男子やリュケネ卿、エテオクロス卿あたりの渋めの男性ならば好みに十分合うんだけどな、とウェスタは思った。

 こんな親父、うっかりからかいでもしたら尻でも触られそうだ。

「あ、いや、待たれよツァヴタット伯殿」

 そんなことを考えながら、もう用件は無いとばかりに出て行こうとしたウェスタの後ろからガニメデが声をかけた。


 騎馬を中心としたカヒ四翼と芳野諸侯の兵七千が雪もまばらになった芳野の大地を疾走し、芳野国境を封鎖している王師第十軍、ガニメデ隊目掛けて南下を始めた。

 ガニメデは偵騎を出して常にその位置を把握し、敵の行動を監視していた。もちろんそれをデウカリオらも知っている。知っていてあえて無視しているのだ。

 それは自らの持てる力に対する自信の表れか、それともそこにまで気を回すことができないほどの余裕の無さの現われなのか。

 デウカリオらが城から出たのに攻撃しようとして来ないのは、王の本体が上州へ向かい、留守部隊しか残っていないという越から得た情報が正しかったということを表している。

 ならば彼らの目的は河東への侵入を防ぐことだ。さらにいえば兵力規模はそれほど大きくは無いはずである。

 王師はオーギューガより大兵力を有してはいるが、二方面作戦を行うほどの兵力は保持していないのだから。

 芳野の留守部隊に兵力を割り振り、上州でオーギューガに敗れたら洒落にならない。それくらい分からぬ王ならばこんな苦労はしていないのである。

 だとすると芳野の兵だけでも十分野戦で勝機はあるとデウカリオは判断した。

 敵は冬営のため、小さな陣営を作って、そこに今も留まっている。それは冬営という特殊な条件に合わせて作られた、戦争には不向きな陣営地だ。敵の体勢が整わぬうちに急襲すれば大きな勝利が拾えるかも知れぬと、デウカリオは馬を走らせながら考えていた。


 敵に近づくにつれ、デウカリオは速度を少し落として兵馬に息を入れさせ、隊列を整えた。

 双方の間を激しく偵騎が往復する。相手の奇手を恐れてか、どちらも正面からぶつかる構えを崩そうとしない。

 互いに互いを警戒した、そのすくんだような状態は眼前に一舎の距離にいたってもまだ続いた。

 悪手、あまりにも悪手に見える敵の動きにも、デウカリオは喜ばなかった。むしろ苛立ちを隠せない様子だった。

「敵は冬営地を放棄し、布陣し直す様子を見せないな」

 王師の芳野側の冬営地は中越街道のザラサ峠口の出口から少し離れた平地に陣取られていた。

 特に険所に拠って陣営が築かれているわけでもなく、高所というわけでもない。防衛を主眼にして布陣したのではないことは一見しただけで明らかであった。

 場所的に雪の吹き溜まりになることは無いにしても、格別雪を避けれる場所とは思えない。さらには水の便すらいいとは思えず、王師の将軍が何を考えてそこを冬営地にしたのか誰にも理解できなかった。

「敵はよほどの愚か者なのか、陣営地に格別の仕掛けがあり、我らを迎え撃てる目算がついているのか・・・」

「恐らくは後者でしょう。あのガニメデほどの男がそんな迂闊うかつな手段を選ぶはずが無い。我らを誘い出そうとしていると見るべきです」

 幾度も苦汁を舐めさせられたバアルは、敵将がガニメデと聞いて心をたぎらせる。心中には今度こそあの男にいいようにやらせはしないと固く誓うものもある。

 そのいつになく険しいバアルの眼差しをサビニアスは興味深げに見ていた。

「・・・だがどちらにせよ、あの眼前の敵をほうむらなければ我らは河東へと抜け出られない」

 そのサビニアスの意見には、そこにいる者が皆一斉に肯定の意を表した。

「罠だとしても我らにはそれを回避することなどできぬのだ。まさか敵は中越街道を我らが通っていくのを横目で指を咥えていてくれるわけでもあるまいし」

「確かに」

「だがだからといってこちらも策も無く総掛りで攻め寄せるのも芸が無い。バルカ殿もこうおっしゃっておられることだし、敵の大将に敬意を表してそれなりの馳走をせねばなるまいよ」

 そう言って不敵に笑みを浮かべるデウカリオにディスケスが問うた。

「何か策がおありで?」

「挟み撃ちにする。敵の注意は我らの騎馬隊に向いているはずだ。そこが付け目となる」

 そう言うとデウカリオは地図を取り出して一堂の前に広げ始めた。


「我らが近づくと敵は間違いなく陣営前に布陣する」

 さすがに敵はあの陣営地内に兵を籠め、堅固にそこを防衛するということはないはずだ。何せ陣営地前には堀も土塀も無い。雪が積もった後に設営を始めたとはいえ無防備すぎる。

 狭い陣営内には兵も多く暮らしている。可燃物には事欠かないだろう。雪も消えた今となっては火攻めすれば苦も無く落とせそうだった。

 だから、そのデウカリオの予見に反対するものは一人もいなかった。

「そして陣営地に誘い込み、何らかの罠をもって我々を姦計に陥れようという腹に違いない」

 デウカリオのその意見も十分な説得力を持つように彼らには思われた。

「陣営地に深く誘い込み、建物を燃やして我らが混乱しているところを強襲し、一気に突き崩すとかな」

 彼らとて火計の危険性は承知しているに違いない。放置しているからにはそれを利用しようと考えているのではないかというデウカリオの考えはその場にいる全員から大いに賛同を得られた。

「あるいは陣営地な内部は複雑で入り組んだ構造になっており、初体験の我らがまごまごしているうちに、個別に討ち取られるようなしかけがあるのかもしれませんな」

 ディスケスのその考えも頷けるだけのものを十分に持っているように思われた。

 なにせ敵は冬の間中、こちらの妨害を一切受けずに冬営してきたのだ。雪が融けるまでの、その有り余る時間を何もせずに無為に過ごしていたなどと考えるのは、人がいいのにも程があるだろう。

「だから我々はそこにあえて乗る。おそらく敵はあっさりと崩れ、我々を誘い込もうとするだろう。我々は敵の誘いを受けて陣営地に攻め込むが、深くは攻め入らない。敵の反撃を受け次第、負けを装い兵を返す」

 言葉にすると簡単だが、それを指揮する指揮官に求められるものは多い。敵に敗北が偽りであることを気付かせぬそれなりの演技力と、後ろを向いて背走する兵を崩れさせぬ統率力、劣勢のまま陣形を支えるための兵からの絶対的な信頼などが必要である。いずれもそこらの将軍にできることではない。だがデウカリオは自ら進んで囮となることでそれを解決した。

 総大将が囮とはまさか敵も思うまい、というわけである。主将自ら危険な役目を引き受けることで、この寄り合い所帯のたがを締めなおしておこうという意図もそこにはあった。

「我々を追って出てきた兵を表へ誘い出したところで、山岳部を迂回し後方へ回ったサビニアスが陣営に火をつける。そうすれば敵兵は混乱を来たすだろう。我々はわざと退路になりそうな場所に穴を一箇所開けておけさえすればいい。敵兵は崩れ去って我先にと逃走に入る。もはやガニメデという男がいかなる策を思いつこうとも、それを実現するための兵はどこにもいない。その手腕を振るわれる気遣いはいらない。後は力押しで一気に踏み潰せる」

 敵の思惑、こちらの兵の構成、彼我の兵力差、どれを考えても穴の無い作戦であると皆一同に判断したのか、全員首肯した。

「では決まりだ。細部の詰めに入ろう」

 そう言うと地図を指差してそれぞれの兵の配置場所を決めていった。


 その軍議後、サビニアスはデウカリオらと別れると山間部へと獣道を分け入って進んだ。

 案内は地元の芳野諸侯より借りうけた、普段は猟師をしているという兵士が務めた。

 予定では開戦の半日前には山を越えて陣営地の裏側へと兵を回りこませることができるだろうとのことだった。

 はぐれぬように隊列の間隔に気をつけて慎重に獣道を進む。

 だがサビニアスらが王師の陣営地の裏手にまで辿り着くことは結局無かった。その行く手を阻む存在が現れたからである。

 それは険しい急坂にへばりつき抜けたその先の、比較的平坦な獣道を通り抜けている時だった。険しい山中のこと、足元を確認することに集中し、完全に意識は周囲から欠落していた。

 そこに突然として一斉に矢が降り注ぎ、一行に襲い掛かったのである。サビニアスも腕に矢が刺さり負傷する。

「伏せろ! 伏せて潅木かんぼくや木を盾にしろ! ここで慌てて後ろを見せれば敵の思う壺だ!」

 すぐに矢の飛んできた方向に木を背にすると、低く身を沈める。

「しかし右からも左からも矢が来ます! おそらく周到に準備された待ち伏せかと! ・・・ぐわっ!!」

 サビニアスにそう報告した兵も次々と飛んでくる矢に身体を貫かれて落命する。

 敵はどうやらこの低地を見張らせる両側に兵を配置して奇襲をかけたようだ。

 身を隠すのすら容易ではない現状に、混乱し右往左往する部下の惨状を見て、サビニアスはデウカリオの策が裏目に出たことを悟った。

「しかし普通に考えればデウカリオの考えたこの奇手を取るなど考えもよらぬことだ。それに敵は総兵力でこちらに劣っている。例え考え付いたとして、この作戦を取ってくると確信があったにせよ、何故、敵は貴重な戦力をこうも容易く山中に孤軍として配置したのであろうか?」

 サビニアスは敵から放たれる矢の多さから敵兵の規模を推測し、その数の多さをいぶかしんだ。


 ツァヴタットの兵は殺戮さつりくの饗宴に酔いしれていた。サビニアスの兵がこちら側を隠せばあちら側から撃たれ、あちら側を隠せばこちら側から撃つ。

 面白いように敵兵は矢の餌食となり、次々と倒れた。

「本当に来るとは思わなかった!」

 ウェスタは命じられたから兵を伏せたものの、まさかガニメデの言うとおりに本当に山中を進んでくる部隊があるとは思いもよらなかった。

 嫌がる兵をわざわざ水の便の悪い高所に登らせておいてよかった、とウェスタは思った。もし兵を申し訳程度に低所に配置していたら、敵兵の発見が遅れ、ここまで綺麗に奇襲は成功しなかっただろう。

「それともあのハゲオヤジには敵の動きが見えていたのかな」

 だとしたら大したものではあるが、とウェスタは一瞬だけ思った。だけどあの外貌からするとそこまでの将軍とは思えないな、と直ぐに否定する。

 若い彼女は見かけで人を判断する女性である。たまたま、まぐれで勘が当たったのであろうと結論付けた。

「まぁいい下げ。敵を射つつ、見せ付けるように背後へと回る動きをする! 援護しろ!」

 ウェスタは敵の退路を防ぐかのように兵を動かした。

 彼女には戦の経験がほぼ無い。もちろん最低限のことくらいは知ってはいるが、射撃戦ならともかくも、混戦になったときに的確に指示できるかまでは心許ないのである。だからそれは陽動だ。だが絶大な効果があった。

 その動きに釣られてサビニアス隊は大きく動揺を示した。サビニアスは逃げ出そうとする兵の首根っこを掴んで、大声を出して督戦せねばならない有様だった。

 と、一人の兵がそのサビニアスを狙っていた。ただむやみやたらに矢を放つ他の兵と違い、じっと呼吸を整え、一点を狙って矢を引き絞る。

 ひょうと放たれた矢は狙いと寸分たがわずにサビニアスの眉間を打ち抜いた。

 飛び散る鮮血、うめき声、絶叫、そして周囲からあがる悲鳴。

 それが合図となったかのようにサビニアス隊は一気に崩れ去った。


 敵兵を追い散らし、戦場に転がる死体を眺め、勝利を確認していたウェスタの袖を郎党が軽く引っ張る。

「お嬢、これを!」

 ウェスタが振り返るとそこは一団の人だかりが出来ていた。中心にはひとつの死体が転がっていた。

 その死体を調べていた郎党が、ウェスタの顔の方にその死体の顔を向けた。彼女も幾度か見たことのある大物の顔がそこにはあった。

「これは・・・サビニアスか! ・・・わたしたちはとんでもない大物を仕留めたらしい・・・!」

 ウェスタは喜びに震え上がった。

 王師との戦の前だ。サビニアスという大物が率いていた兵が単に山中を河東へと抜けるためだけに本体と別行動をしていたはずが無い。

 彼女には分からなかったが、何らかの役目をもって別行動を行っていたと考えるのが一般的だ。

 ということはそれを事前に防いだウェスタはサビニアスを仕留めたことだけでなく、本当の殊勲をあげたことに他ならないが・・・

 まだガニメデの手腕に懐疑的なウェスタは何かしっくり来ないものを感じて頭をかしげるのだった。


 一方、ザラサ峠口では双方ついに肉眼で互いを目視できる距離にまで接近していた。

 その時になって初めて、それまで動かなかったガニメデがようやく動きを見せた。

 ガニメデはいかにも慌てて敵に備えて急ごしらえの配置をしますよ、といった風に陣営から巣の壊れた蟻のように兵をわらわらと出し、前面に配置する。

 左右で兵数も違えば、戦列も乱れている。あくまで急ごしらえの布陣っぽく見せかけていた。わざと愚将を装って敵を誘おうというのだ。

 彼自身は自身の名が敵にまで知れ渡っていることをまだ知らなかった。

「さぁ、せっかく冬の間を使って準備をしてきたんだ。攻めかかってきてくれよ」

 ガニメデは祈るような思いで敵の動きを見守った。

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