第282話 七郷へと通じる八本目の道

 西七郷山脈をくしけずるように流れる鹿留川は並み大抵の急流では無い。

 川幅はあるものの、切り立った断崖の谷底を流れる故、ごつごつした岩がせり立ち、そんじょそこらの操船技術では川を下るだけでも命がけに近かった。

 そこに土を入れても、土嚢どのうを入れても、岩を投げ込んでも次の瞬間片っ端から押し流されて、有斗が命じた堤防作りは最初のうちは思うようにはいかなかった。

 有斗は川の両側にある堤防のうちの南半分を切り開き、分水流を作って南方の大地へと水を引き入れることで、川の流れを弱めて水位を下げていった。川から流れ出た水はやがて土砂と共に田畑を埋め、民家を押し流し、大地をえぐり、川を作って南へ南へと流れて行く。

 人工の大災害だ。一応念のため事前に避難を呼びかけているから人的被害はないとは思うんだけど、生活基盤が失われる周辺の住民にとってはなまじの略奪よりも性質が悪いと思うことだろう。

 七郷を攻略するためだ。後できっとこの埋め合わせはするからと心の中で謝りながら、有斗は最後の仕上げに取り掛かる。

 こうなるともう岩を投げ入れても水流に押し流されることは無い。兵は次々と岩を投げ入れ、石を敷き詰め、土をかぶせて堤防を作る。

 水量が減り勢いの弱まった鹿留川を南北に貫く堤防を僅か十日あまりで完成させ、七郷への水流を完全にき止めた。

 とはいえ急造の堤防だ。水を全て塞ぎきることはできないし、川の地底を流れる伏流水ふくりゅうすいが下流では湧き上がるので完全に水位をゼロにすることはできなかった。

 それでもこれで有斗の思惑通りにことは進んだ。後は水が引いていくのを待つばかりである。


 一方、その間も三つの切通だけでなく、王師は南側へと兵を回し、納所関口からも攻めかかって一進一退の攻防を繰り広げていた。

 これはカヒに有斗の思惑を悟らせる心理的余裕を与えないため、そして同時に離間工作を行うためである。

 王師は宛名の無い書面を敵陣内に矢と共に大量に射掛けていた。

 いわく「委細承知した。約定のことを果たされたならば旧領安堵はもとより、新領加増を約束する」だの、「書状を拝見した。数々の方々へ調略を働き成されてることに陛下も満足なされている様子です。七郷へ攻め込むまでに是非とも必要な処置を取っていただきたい」だの、「決行の日は近づきつつある。その時には後方で挙兵し退路を断っていただきたい」だの、である。

 馬鹿馬鹿しいことに、中にはカトレウスが死亡したとの風聞が書かれているものもあった。

 だいたい宛名の無い文など信憑性もあるものかとカヒ側は最初はまったく相手にしていなかった。

 だがなんら変化がないのに、数日置きに大量の矢文が射掛けられるのは何故であろうか?

 それは内部に王師側と本当に連絡を取り合っている裏切り者がいて、それに対する返書を送っているのではないかと疑い始めたのだ。

 こんな状況だ。カヒの裏切り者から王師へと連絡を取るのは矢文一つで済むが、内通者というのは正体がばれては何の意味も無い。そこで宛名を伏しているのではないかという至極もっともらしい考えを話す者もいた。

 それに複数送るのは、一通だけでは直ぐにしかるべきところに届けられて、裏切り者に内容が正確に伝わらない可能性が高い。だから大量に射込んでいるのではないかというのだ。確かにそう考えると全ての辻褄が合うのである。

 そして段々と兵たちの間に奇妙な噂話が広がっていった。

 それは王師の言うことは本当で、カトレウスが萩谷村で死んだと言う風聞である。それをその目で見たという兵士まで現れたが、その兵士はまもなく戦場から姿を消してしまった。

 おおやけには戦死したと言うことになっているが、本当は国府台こうのだいのカヒの館へと連れ去られたらしいと兵たちは密やかに噂した。

 馬鹿馬鹿しい、ただの噂だった。

 だがその頃には最初のころのように全てを笑い飛ばすだけの確証をもはやカヒの中の誰もが持ち合わせていなかった。

 今や鉄の結束を誇っていたカヒの親族衆も譜代衆も互いに疑心暗鬼に陥っていた。

 何より兵士たちを腐らせたのは裏切り者がいるかもしれないということではなかった。カトレウスが既にこの世にいないということだった。

 カトレウスがいてこそカヒは戦に勝てるのである。それは一種、信仰に近いものだった。だから一兵卒でも天与の人と呼ばれる王に刃を向けることに躊躇ためらいなどなかったのだ。

 だがもし本当に、カトレウスがもういないというのなら・・・、心の奥底で考えると空恐ろしかった。

 天与の人に槍を向けるのは天に唾することに等しい愚かな行為ではなかろうか・・・


 鹿留川の水流の低下はグラウコスらの予想を上回る速度で進行した。

 前日までは満々と水を湛えていた鹿留川が三刻(約六時間)ほどで水がほとんど引いたのだ。

 その知らせは国府台の館へも当然伝えられた。

 だが今行っている王師の工事は、篭城している敵に対して行う、水の手断ちというありふれた攻城方法の亜種で、田畑に行き渡らないように水を減らす長期的な兵糧攻めの一つであろうとの説明を受けていた現場の隊長は、急激な水位の低下にも危険性を認識せずに直ぐの報告を怠った。

 だからそれがグラウコスらに伝えられたのはもうほとんど水が無くなってからのこととなった。

 それを聞いたガイネウスは顔面を蒼白にして慌てて命令を下す。

「急げ! 兵を鹿留川へと向かわせろ! 敵の狙いは水断ちじゃない! 敵は鹿留川を道代わりにして七郷へと侵入するつもりだ!!」

 彼らとてその可能性を予想していなかったわけではない。

 ただ鹿留川の水量の豊富さ、流れの急さを考えると川を完全に塞ぎとめることはそう簡単なことではない、成功する可能性は低いと安心していたということでもある。

 それにもし成功したとしてもこんなに直ぐには完成はしないだろうと甘い見積もりをしていたのだ。

 自然の持つ力の巨大さを過信するあまりに、王師の持つ十万と言う数の力を甘く見てしまったのだ。

 それに王師がわざわざ迂回水路を作ってまで、最後まで水を鹿留川に供給し続けることで、工事の進捗しんちょく具合をカヒ側に把握させなかったことも判断を誤らせる一因となった。

 七つ口と呼ばれる切通から攻め込むのは至難の業だ。そして他には兵を進める道は無いという。

 だが道が無いなら作ればいいのだ。八つめの出入り口を。山を崩して道を作るのは何年もかかる事業になるが、水を干上がらせた川を道路に見立てれば短い時間で済むのではないか。有斗が考えたのはそういうことである。

 とはいえ干上がったとは言うものの、それはあくまで言語表現だけのことである。

 また鹿留川もこの辺りは上流で砂利や砂でできた岸など無く、兵は干上がった川底を進むしかない。

 岩は苔し足を取られ、大小さまざまな石だとも岩だとも言えぬ大きさの石塊が転がり、足元は不安定で、いたるところに水溜りと呼ぶには相応しくないほど大きな池があり、また重なり合った岩は段差有り、落差有りと行軍には想像以上の苦労が伴った。

 山間部を抜ける渓谷の十町(約一キロ)の距離を進むのに半刻もの時間を費やさねばならなかった。

 おかげでまだ敵と干戈を交えぬのに怪我人が多数発生する。

 だが間口二間の七つ口と違い川幅はその何倍、何十倍もある。兵が通れるような道を探し、確保し、不要な石をどけ、段差を降り易いように石を重ねて梯子をつけ、先陣の古強者どもが道筋を一旦つけてしまえば、後続の兵はさほど苦労すること無く進んでいけた。

 先頭のガニメデ隊が西七郷山脈の反対側のふもとに姿を現したのは行軍を開始してから二刻後、未の刻(午後二時)を過ぎた頃であった。

 その時、カヒの首脳部に鹿留川が枯れたことは既に伝わった後だったのだが、未だ敵影は周囲にひとつも見られなかった。

 王師は終に七郷盆地内部へと足を踏み入れたのである。


 七郷に帰還したカヒの残兵は一万三千を超えていた。それをグラウコスらは七つ口のどこへでもいつでも救援できるように四方に配置していた。もちろん王師の主要な攻め口となるであろう西に厚く兵力を配置したことは言うまでも無い。

 ガイネウス、ダウニオスは馬を走らせ慌ててその宿営地に駆け込むと、自ら指揮を執り、その兵力を全て鹿留川上流へと向けた。

 カヒの旗が近づいてきていることは斥候より逐次、ガニメデの下に届けられていた。

 河川の七郷への入り口を守るように、既に陣を折り敷き待ち構えていたが、現状の兵はわずか三千である。

 友軍どころかガニメデ隊ですら未だ全て七郷に入りきったわけではなかったのだ。

 その様子を見たダウニオスは即戦を決意する。

 時間が経てば経つだけ敵は干上がった川を伝い七郷へと兵力を侵入させる。その分味方は押されることになる。当然の判断だった。

 手前に見えるのは三千程度の数である。この兵を蹴散らして、川から出てくる王師を食い止めれば、再び戦況は膠着こうちゃくし、カヒの命はまたしばらく永らえることができる。ここが勝負どころだ、とダウニオスは気を引き締めた。

 三千しかいない兵である。しかも即席の陣である。

 ガニメデはイスティエアの時のステロベのように馬防柵を作る暇は無かったし、エピダウロスの時のリュケネたちのように戦列を重ねた厚みのある陣形を取ることも兵数を考えるとできなかった。

 だからダウニオスは先頭に立つと陣形も隊伍も整わぬままに兵を前へ押し出した。

 それは敵に少しでも時間を与えたくないと言うこと以外に、敵の数と味方の数を比べて、そして敵が歩兵で味方が騎兵であることを比較して十分に勝機有りと思ったと言うことである。

 なんのことはない。つまりは敵の無勢を舐めきって攻め寄せたのである。

 ダウニオスが率いた騎兵は精強で、熱した鉄器に水が触れた瞬間蒸発するように、ガニメデの隊伍を蹴散らした。抵抗は極めて微弱だった。

「敵は無勢、勢いのまま突き入って敵を粉砕すればよい! 川を下ってくる王師を七郷から押し返せ!!」

 ダウニオスのげきに応えて次々と兵は突撃する。そこもかしこも食い荒らされ、ガニメデ隊は崩れたかに見えた。

 だがそこで鈍い反撃を受けた。激しくもなく、鋭くも無く、押し込められるというわけではないが、どうにも破れない。

「さすがは王師といったところか。寡兵でもよく防ぐ」

 それはダウニオスの余裕から発せられた一言だった。

 目聡く地形が防御に不利で攻撃に有利、そして敵の隊伍も乱れている一点を見つけ、兵力をそこに集中し戦列を突破した。同じように隊伍を組まずして打ちかかったカヒの兵も次々に戦列を突破し外に出る。

 だがダウニオスはそこで驚愕の真実を知る。

 突破したと思って出た先には王師の兵ではなく、カヒの兵がいた。つまりダウニオスはガニメデの隊列の向こう側に出たのではなく、入った方向に追い出されたのである。

 陣内で敵に全力で反撃することよりもあえて堅く守ることで敵の思い通りの突破を許さず、わざと陣内に隙を造りそれを見せつけ、その方向に巧みに誘導することで敵を引きずり回し、方向感覚を狂わせたところで陣から叩き出したのだ。

 ガニメデ隊は敵の先制攻撃を大した損害も無く交わしきって、機先を制する。

「手品のよう奇妙な真似をしやがる」

 恐るべき用兵術だ。だが正体が分かればなんということもない。

 ダウニオスは剣を振って兵を呼び集めて、急いで隊伍を組む。そしてガニメデ隊と正面からぶつかった。

 こうなると面と面の戦いとなる。面の厚みの薄いほうが圧倒的に不利だ。すなわち数の少ないガニメデ隊は徐々に押されだした。

 同時に王師侵入の一報を受けて、各所から次々と駆けつけてくる兵たちも戦闘に加わった。

 こちらは隊伍などありはしないが、刻一刻と増え続ける数が厄介だ。ガニメデも正面のダウニオスに対処することで手一杯である。

 だがその間王師も指をくわえてみていたわけではない。鹿留川を通って七郷へと続々と侵入しつつあった。

 次々と戦場に駆けつけるガニメデの兵はカヒの兵のように一兵一兵のまま敵に向かって突進するのではなく、百人隊長の下に一隊としてまとまってから、前線へと向かった。

 そのことで隊伍をいまだ組めずにいるカヒの兵の何倍もの力を援軍として発揮することとなった。

 一時は劣勢に陥っていたガニメデ隊だが、新たに加わった兵のおかげでなんとかもう一度盛り返したようだった。


 その姿は後方河川の中ほどで未だ立ち往生している有斗の目にもはっきりと見ることができた。

 有斗は軍と共に前方へと行って指揮を執りたかったのだが、ガニメデが敵の攻撃を支えきれず全軍が総崩れになったときのことを考えて、将軍たちがこれ以上前に出ることを禁止したのだ。

「ガニメデが先陣と言うことで心配だったんだけど、意外とやるなぁ・・・見直した」

 有斗はリュケネかステロベ辺りの無難な用兵をする将軍を先鋒として起用したかったのだが、エピダウロスの戦いで二隊とも大きく損耗しており、とても先鋒としての働きはできないと指摘されたのだ。

 そこで複数の将軍から推薦のあったガニメデを先鋒として起用したのだった。

 複数の将軍から推薦があったとはいえ、くだんの外見を見ると、思わずガニメデで大丈夫かなと思ってしまわずにはいられなかった。だがこの活躍はどうだ。素晴らしいの一言でしかなかった。

「ガニメデ殿は見かけはともかく用兵は拙くないですよ。ベルビオ殿やヒュベル殿のように先頭に立って敵を圧する破壊力には劣るかもしれませんが、兵を手足のように使いこなします。どんな混戦でも劣勢でも、戦況を正確に把握する目は王師で右に秀でる者はいないでしょう」

 エテオクロスの言葉に有斗は驚いて顔を向ける。

「エテオクロスよりも?」

「もちろん私など足元にも及びますまい。あれほどの才人が今まで王師に埋もれていたというのはまったくもって不思議なことです。もしかしたら天が陛下の為に用意してくださったのかもしれませんね」

 手放しでガニメデに賛辞を送るエテオクロスの言葉にも、天などと言うものを一向に信じてはいない有斗は、どうせ用意してくれるのならば絶世の美少女の形で用意してくれればいいのに、と信心深いアメイジアの人が聞いたら眉をひそめそうなことを思っただけだった。


 両陣営の兵は強壮で一歩も退かず、夕方になっても一進一退の激闘は続いた。

 交戦することその間六十余度、切っ先から火花を散らし、刃を欠けさせ、ただ剣を交えた。

 だが時間が経つにつれ、カヒの援兵はそれ以上増えなくなったのに対して、王師は新手が次々と戦線に加わり、数で圧倒する。王師の優勢が確立しつつあった。

 それでもカヒが崩れなかったのは、先頭に立ったダウニオスの存在があればこそである。

 兵が崩れ去ろうとするたびに、また疲れの余りに戦いを投げ出そうとするたびにダウニオスは叱咤激励し、兵はもう一度気力を振りしぼって王師を押し返そうとした。

 ガイネウスも敵に叩き返された兵を再び纏め上げて、横から槍を入れるなど活躍し、ガニメデ隊はいくつか危ない場面を見せることもあった。

 だが王師は二番手どころか三番手の部隊までもが七郷へ入り終え、戦闘に加わっていた。

 やはり隊伍を組まずに攻め入ったのが、全ての過ちの根本であったか、とダウニオスは唇を噛んで悔しがる。

 もしあの時、全軍の隊伍を組んでから敵と戦っていれば、押し返していたはずである。今頃は川の七郷への入り口付近で双方にらみ合いをしていることだろう。

 そう思うと悔やんでも悔やみきれない気持ちだった。

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