第262話 芳野攻防戦(Ⅰ)

 さてここで、一旦時間をき戻してマシニッサに率いられ芳野に向かった南部諸侯軍の動向について書きたい。

 上陸した南部諸侯たちは、すぐに北西へと一舎、軍を進めて野営した。これはあまりの大軍に川辺に宿営地が足らなかったための措置である。そして次いで上陸する王師が攻撃されることを防ぐためである。さらにはもし東進軍が苦戦するようなら兵を割いて援兵を出す為でもあった。

 マシニッサはそこで数日留まり、東進軍の状況を見守る。

 三月二十三日、前日にステロベたちの東進軍がクチャニ伯の立てこもる城を攻略したという知らせを受けて、ようやくマシニッサは全軍に北西、芳野方面へと延びる中越街道を使い、最初の難関、ザラサ峠を目指すことを指令した。

 河東と芳野の間には越と河東とを分ける高山地帯が延びている。というよりも芳野そのものもその高山地帯の一部なのだ。かつてあった巨大な火山が噴火してできたカルデラ盆地が芳野なのである。

 中央が崩落して残った巨大なふちが河東と芳野を分けている境ということになる。

 さて河東から芳野に入るには、河北から芳野へ入るよりは中越街道が通っているだけあって、格段に楽ではある。

 とはいえいまだ一千メートル級の山となって残っているふちだけでなく他の山々もあり、大軍を行軍させるには大河沿いの河川沿いに敷設された道を通るか、中越街道を使いザラサ峠を越えるか、やや進路を北に取り木の実峠を越えるかしかない。

 つまりその三箇所を塞ぎさえすれば芳野から兵が漏れ出してくる心配はないわけだ。

 その三顧所はどこも狭く険しい。万を超える兵を進軍させるには細く長い隊列を形成しなければならない。出口に堅陣を敷きさえすれば圧倒的に優勢な立場に立つことができる。一万の軍を三分して、そこを一万四千の兵で攻められても他から援軍が来るまで余裕で耐えることが出来る。

 それが当初、有斗が頭に描いていた計画だった。

 マシニッサはまず抜け目なく偵騎を放ち、芳野の軍勢の動きを注意深く観察した。

 軍を二分し、こちらが布陣するのを見計らって兵を進め、ザラサ峠で小競り合いを始めると同時に、もう一方の部隊を側道から迂回させて前面にばかり気を取られている南部諸侯軍の後方を急襲する可能性を恐れたのである。

 あるいは既に河東へと兵を向けているかもしれない。

 俺が敵将の立場ならそうする、とマシニッサは思った。確かに芳野に配された兵はオーギューガや王に対して芳野を守るために配された兵ではあるが、坂東が王の大軍に攻められ危急存亡のときに、芳野に兵を分けたままでいるなど愚の骨頂だ。

 たしかにカトレウスが討ち取られても、芳野の地を守りきれば芳野の守将としての面目は十分立つのではあるが、それで実利があるかと考えたらあまり無いと答えるしかない。

 その後に残された選択肢は王と戦って滅亡するか、芳野を差し出して王の足元に跪くかの二択なのである。

 それならば例えカトレウスに助力するにしろ、カトレウスを裏切り王に付くにしろ、王とカトレウスが戦うその現場に行くべきだ。

 現場で活躍してこそ、その行動が目に留まり恩賞がもらえるのである。

 もしカトレウスを助け、この劣勢を跳ね除けることが出来ればカトレウスから多大な褒章がもらえるであろう。

 また、カトレウスを裏切ることで王に勝利をもたらせば、これまた莫大な褒章がもらえることであろう。

 どちらも利益を得る期待値が十分高い話だ。討ち死にするにしろ、王に跪くにしろ、それを試みてからでも遅くはない。

 カトレウスの滅亡を待ち、芳野を押さえ独立するという考えも無きにしも非ずだが、さすがにオーギューガと王に挟まれたその地を保ち続けるのは不可能に近い。マシニッサにしてみれば乱世に咲いたそんな一瞬の光明のために命を失うことなど馬鹿げたことだ。

 総合的に考えるとやはり芳野に一万もの大兵を置くのは無駄なのだ。

 もっともそれに気付くか気付かないかは芳野の守将の素質によるのではあるが。

 だがマシニッサの考えと違い、敵は近づく南部諸侯軍に合わせて兵を動かす様子は一切見られなかった。

 カトレウスが坂東で取ろうとしている戦い方と同じく、敵を引きずりこんで戦うという手法を取ったということであろう。


 マシニッサはそれを見極めると、王の指示を無視して芳野に兵を進めることにする。

 巧みに南部諸侯を炊きつけ、その同意を得たのだ。根っから血の気の多い南部諸侯は芳野の押さえといえば聞こえは良いが、実質本戦場から外されたことで大いに不満を持っていたため、マシニッサのその提案に大いに乗り気になった。

 本来なら目付けともなるべきロドピア候も有斗に叛旗を翻すわけでもないし、と積極的に同意に回る始末である。

 マシニッサが積極的に兵を進めたのは、戦場で指揮することを通じて諸侯に影響力を増そうと思ったというわけではなかった。

 いみじくも有斗がマシニッサを評したように、彼自身も彼が同輩の南部諸侯からどう見られているかくらい百も承知なのである。

 彼に言わせれば諸侯を取り込むなんて必要などない。家中に巨大な勢力があったら、気を配らなければならず、運営するにも一苦労なのである。

 そんなことをするくらいなら、いつか隙を見て叩き潰し細かく寸断して、一からその土地も家臣も民も奪ってやる、というのが本心なのである。

 彼は王になりたいのではなく、乱世を終わらせたいのではなく、彼が自由気ままに振舞える自由な天地が欲しいだけなのである。

 だがここでマシニッサの手腕を諸侯に見せ付けておくのは悪くないことだ。

 今後、マシニッサがどこぞの諸侯を攻めたときに、その諸侯を助けようなどとする物好きな諸侯を減らす効果があるだろう。

 それに一万もの大兵を自由に指揮することができるというのは誰にでもできる体験ではないのである。

 王や大諸侯だけに許された、とびきりの真の贅沢。

 そのことが珍しくマシニッサを興奮させていたのかもしれない。


「デウカリオ殿、我らはこのまま芳野にいてよろしいのですか?」

 バアルは王師が大河を渡る気配を見せると、デウカリオに面会を求めてそう提言した。

 これは大変珍しいことだ。とにかくデウカリオとバアルの間に間隙があることは、この頃には一般兵の間でも知れ渡るほどのことであったのだから。

 今まではガイネウスかサビニアスが間に入りクッションのような役目を果たしていた。だが上州攻め後、芳野に戻ったのはバアルだけだった。

 カトレウスは薄々、バアルとデウカリオの不仲は感づいていたものの、そのくらいのほうが双方牽制しあって余計な動きをしなくていいだろうと判断した。

 芳野に必要なのは迂闊うかつに動くよりも、岩のように鎮座して芳野の動揺を抑えることであると考えたのだ。

 王の河東侵攻が直近ではないとカトレウスが判断した以上、それは仕方が無いことであろう。

それにこのように王の河東侵攻を眼前にすると、王との対決に全力を注ぐためにも、カトレウスはガイネウス、サビニアス両謀将を手元から離すわけにはいかなかった。だから芳野にはデウカリオとバアルだけがいるということになってしまったのである。

 もちろんバアルはそんな裏事情を知るわけではない。

 だから主将に進言することは残された副将である自分の役割であると、嫌われていることも承知であえて声をかけたのだ。

 バアルは個人の感情はともかくも、自分がいるのに負けてしまうのは我慢ならなかったのだ。

「と言われると、バルカ殿には何か考えがお有りか?」

「いずれ王との決戦が行われることは間違いありません、総兵力で劣る我らに一万四千もの兵力を死兵にしておく余裕などありますまい。河東への道を塞がれる前に芳野を脱出するべきです」

「だがそれでは御館様から預かった大事な芳野を敵の手に渡すことになる。幾千の戦士たちの血と引き換えに得た芳野だ。みすみす敵にくれてやるには惜しいであろうが」

「一時のあいだ敵に預けておくと考えればよろしいではないですか。王を決戦で倒してから再度取り返せばよろしいのです」

 王が負ければ当然のことだが河東遠征軍は撤退せざるをえない。そうなれば苦もなく取り戻せるではないかというのがバアルの考えだった。

「だが芳野の諸侯は芳野を離れることに容易く同意はすまい」

 それはそうであろう。自分の封地が敵に踏みにじられると分かっていて家を空き家にしたい諸侯などいるはずがない。

 だが芳野の諸侯をまとめあげて、その作戦に同意をさせるのが芳野主将に与えられた職務ではないか。バアルは唖然とした。

 さすがにそれを口には出さなかったが。

「ならば四千の兵だけでも取って返すべきです。その兵力が決戦の帰趨を左右することもありえるではないですか」

「決戦というが、その為には王は河東西部の諸侯を平らげなければならぬであろうし、さらには東山道沿いにあるいくつもの堅城を抜かなければならない。七郷に行くなど無理な話よ。いずれ補給に難をきたして撤兵せざるを得ない。それに我らが芳野にいる限り敵も迂闊に奥地に進めぬであろうよ。敵が攻めてきたら芳野の地形を利用して敵を翻弄すればよいし、芳野を無視して敵が坂東へ進むのなら、我々は芳野から兵を発し輜重を襲えばいいだけだ。やはり我々は芳野の地にいたほうが御館様のためにもなる。すまんがその献策は却下させてもらう」

 だがデウカリオはバアルの提言に気の無い返事を返しただけだった。

 バアルはこの地にサビニウスもガイネウスもいないのが残念でならなかった。

 本来ならそういったことは客人まろうどにすぎないバアルではなく、カトレウス家中で重きを置いている彼らの役目だった。

 それに彼らならバアルの言が真実カヒの為を考えて話された言葉であると理解してくれよう。

「王がこんな大軍を率いてきたのはカヒを本気で滅ぼそうと考えているからです。甘く見てはいけません。それに王はあの通り稀に見る強運の持ち主。その王を倒すためには一兵でも多くの兵が必要なのです。これは私が武功を立てようとか思って言っているのではなく、カヒの為を思って言っているのです。どうかお聞き入れください」

 デウカリオとバアルの仲はよくは無い。だからバアルは意図を勘違いされないように、懇切こんせつ丁寧に自分の心境まで披露して説得を試みる。

「ワシがそんな器量の狭い男と思っているのか」

 だがそれはデウカリオの機嫌を損ねただけであったようだった。確かにバアルの言葉は取り様によっては、デウカリオがバアルの言を武功を立てるためだけに言っていると思っていると指摘しているように取れるのだから。

 デウカリオはぷいと横を向いてそれ以上バアルと話そうとはしなかった。

 バアルは芳野からの撤兵を諦めざるをえなかった。

 だがバアルは勝ちへの執心を棄てはしなかった。用は芳野にいる兵力を死兵にしなければいいのである。

 芳野にいるカヒの兵を抑えるために、王はきっと派兵するに違いない。

 どうにかして芳野に引きずりこんで、それに勝利する。次いで逃げる敵兵を追って河東に侵入し、補給線を断ち切るのだ。

 かならずや王は慌てて兵を帰すに違いない。カトレウスほどの男ならその転進する時の隙を突くことが出来るだろう。

 勝利の糸口がきっと生まれるはずだ。

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