第226話 乃ち東に大河を渡らんと欲す。

 翌朝、兵士たちは疲労で泥のように倒れこんで眠っていたはずだが、勝利に高ぶったのか、敵の来襲に怯えたのか、よく眠れなかったらしく、目をこすっては欠伸あくびをする者が多かった。

 戦場の片づけを行う兵士たちの動きにはいつもの切れが無い。

 それを見て、やはり昨日の激戦はぎりぎりの勝利だった、と思う有斗と違い、将軍たちは鼻息も荒く、この勝ちを完勝に変えようと追撃を主張した。この勢いのまま敵に立ち直る時間を与えず、一気に河東の歴々を打ち倒し、戦国の世に決着をつけようというのだ。

「兵の疲労だけじゃないよ。今の朝廷にこの規模の軍兵を長期の遠征に出せるだけの体力は無い」

 河東に攻め入るには大河を渡らねばならない。船が要る。兵糧がいる。とどのつまりは金が要る。

 諸侯と連絡を密にして味方に引き入れねば長期間の遠征はおぼつかない。そのためには時間がかかる下工作が必要だろう。糧道の警護、要地の確保、もし抵抗を続ける諸侯がいれば、それを押さえる為の兵もいる。今いる七万近い兵は確かに大兵であるが、関東の奥へ進むにつれ戦いに割ける兵は減っていくに違いない。

 それにいくら大敗北を喫したといっても、カヒが大諸侯であることには何ら変わりない。

 例え全ての諸侯がカヒを見限ったとしても二万を越える精兵が健在だ。本拠地で戦うのならば、その何倍もの民が兵となってカトレウスを助けるであろう。それを相手に戦うにはまだ実力不足だ。せっかく大きな勝利を手にしたのに、それをすぐさま敗北で帳消しにするような手は打たないほうがいい。むしろこれを生かす一手を今は打つべきだと思う。

「大河を越えずとも、今から追っても間に合うはずです! 是非追撃を!」

 ベルビオは強行に追撃を主張した。

 疲れてるのは敵も同じ、いや戦いに敗れたということが敵の心にさらに圧し掛かっているはず。足取りも遅いに違いない。さらには大河を渡るには時間がかかる。そこを襲い掛かって被害を増やそうといのだ。

 追いつくことは無理ではないし、無駄でもないといった主張だった。

「一旦距離が離れてしまった。それに、逃げてる兵のほとんどが諸侯の兵だ。諸侯の恨みを買うのは避けたい」

 そう、諸侯は今度はカヒに味方したけれども、次もカヒに味方するとは限らない。

 諸侯の兵を攻撃し、兵を殺したとしよう。それだけでも多少の恨みを買う。さらには、その中に諸侯その人や諸侯の家族がいないとも限らない。有斗を仇敵とし、敵対することになるかもしれない。かといって逃げる兵の中からカヒの兵だけを選び出して攻撃するなどは不可能ごとだ。

 それにベルビオみたいな体力馬鹿はともかく、昨日の激戦で王師の兵士は疲れている。

 力も十全には発揮できないし、集中力も無いだろう。カヒの伏兵に襲われて、せっかくの勝利を台無しにする可能性を考えると追撃を許す気にはなれなかった。


 それに戦場を確保した勝利者である王師にはやるべき仕事が残されている。

「死んだ兵を埋めてやってくれ」

 有斗は王師に命じ、巨大な穴を掘って死体を埋めるよう指示した。

 いままで戦後の死体がどうなったかなんて考えていなかった。それについて有斗に具申する将軍もいなかった。

 勝っても負けても戦場など直ぐに移動していたから、戦場で死んだ兵がどうなったかとか気にしていなかった。迂闊うかつだった。

 アエティウスの遺体を移送した時は特別扱いだったのだ。今まで死んで行った多くの兵はおそらくその場に放置されたのであろう。

 それが戦国の常識なのだ。

 なぜならよくよく思い出せば、人通りの多い街道を移動しているのに、頭蓋骨しゃれこうべが普通に道端に転がっている光景を見るからである。誰一人それに目を向けようともしないくらい、普通に転がっているのである。

 有斗はそういったものを見つけるたびに小さく眉をひそめたものだが、それについて深く考えようとはしなかった。

 それは目に付く場所にあったとしても、誰も埋葬したりしないということを表しているのではないだろうか? その光景に誰一人として違和感を感じることがないということではないだろうか?

 だが今回勝利して一夜経ってから落ち着いた頭で見た、死体で埋まった原野は有斗に大きな衝撃を与えた。有斗のせいでこれだけの命が奪われたことに呆然とした。

 そりゃあ戦争が人の命を奪うってことは知っていますよ。数字としての死人の数は把握していたさ。

 だけど、この見渡す限り死体で埋まったこの光景は、有斗の心に大きく深くナイフのように突き刺さった。

 そして何より驚いたのは、まったく衝撃を受けた様子の見られない周囲の姿だった。周りとのこのギャップが有斗にひとつの考えを思い浮かばせた。

 心の荒廃は、戦争があるからという理由だけではなく、こういった光景からも産まれるのではないだろうか。

 死体を見るのが当たり前になっているから、人を殺すことも人に殺されることも大したことではないと思ってしまうのではないだろうか。

 ふと気が付くと普通に暮らしていても身近で暴力があり、人殺しがあり、死骸がある。それを見ただけでも民の心は荒廃するのではないか、それゆえ戦国が終わらないのではないだろうか、と有斗は思ったのだ。

 戦国の世を終わらせるには諸侯を平らげ、法と秩序を取り戻すだけでなく、殺気立った民の心や考えを落ち着かせ、平穏なものの考え方をするようにしなければならないのではないだろうか。

 人が道端で死んでいても何も感じない、そんな世界ではきっと争いごとはなくならない。

 ならばいつまでも死体を野ざらしにしておいてはいけない。

 野ざらしの死体が近場の住民や街道を行き来する民に与える影響を考えたら、放置しておいては駄目だ。

 かといってアエティウスのように王都まで搬送するわけにもいかないであろう。どれが味方でどれが敵かも分からぬ、何千何万もの死体なのだ。せいぜいが生前を見知った兵が形見の品を知り合いに持ち帰るくらいであろう。

 それに死体を腐乱したまま放置し、疫病が発生でもしたら一大事だ。

 有斗は後始末を王師に命じると羽林の兵と共に一足先に王都へと帰還した。


 風が吹く。イスティエアの地から、大河の東岸へと。河東へ帰れとばかりに兵たちの背中を押し続けた。

 カトレウスは河畔近くの丘の上から、船に乗り込む河東諸侯の兵の列を見ながら、気になるのかちらちらと街道の西の方角にも時折視線を向ける。

「やはり来ぬか」

 残念そうにカトレウスはそう呟く。

 敵はイスティエアで戦場から退却しようとするカヒの軍に痛撃を食らわせた。おそらく戦いの間に死んだ兵士の幾倍もの犠牲をその撤退戦では払ったことだろう。

 だが王師はその流れのまま追撃はしなかった。そして翌日も追撃はなかった。

 東山道は隊列を乱した大勢の兵で大混雑なのである、追いかける気があれば十分追いつけるはずである。だが大河の岸が兵に見えるようになっても、追ってくる気配は皆無だった。

 それでも念には念を入れて、街道を眼下に収める丘陵地帯にカヒの兵を折り敷いて王師の兵が来るのを準備万端待ち受けていた。

 追撃してきた王師に一太刀浴びせてカヒの意地を示すつもりであったのだ。負けっぱなしでは格好が付かない。

「王は用心深い性格と見える」

 その横でマイナロスは安堵の溜息を洩らす。良かった、御館様が自分を取り戻しなさった。

 ひとたび覇気を失ったカトレウスは、これから何をするかといったことすら考えられなかった、しばらくは廃人のように、ただ馬につかまり呆然としているだけだった。それは自身を見事な戦術で打ち破った有斗は、本物の天与の人ではないかという考えに囚われたからである。

 だが立ち直りは早かった。

 なぜならカトレウスが生き延びたからである。

 もし王が噂どおり天に愛された男であるというのなら、この勝利でカヒを破るだけでなく、邪魔な存在であるカトレウスの命を奪うはずではないか、そうカトレウスは思った。

 だがカトレウスはこの切所せっしょを生き残った。ならば逆説的に考えると有斗は天与の人ではない、そういうことになる。

「御館様、この時間までに来ないということは、おそらく敵は追撃をしないということでしょう。我らも岸辺に兵を移動させ、河東に帰るといたしましょう」

「ふむ」

 そう言われてもカトレウスはまだ未練たらしく西の方角に目をやっていた。

「諸侯は戦意をなくしております。とにかく一度仕切りなおさなければ、王と戦うこともできません。ここは敵地、時間を使えば使うだけ、我らは不利となります。ご決断を」

 もう一度マイナロスに畿内からの撤退を薦められてようやく、カトレウスはしぶしぶ諦めを口にする。

「わかった。それが道理だな・・・」

「御意」

「一度河東に帰り、態勢を整える。再び兵を募り、諸侯の心をこちらに引き寄せる。そして再び兵を挙げ、今度こそ王の息の根を止める。大勢の兵を逃がすために犠牲になったニクティモの仇を討たなくてはな」

 それはマイナロスや周囲の兵に言ったのではなく、カトレウス自身に言い聞かせる言葉であった。

 犠牲になった大勢の将士のためにも、ワシはそうしなければならぬ。カトレウスの胸中に黒い炎が燃え上がった。

 そしてもう一度西の空に、いやその空の下にいるであろう王に向けて約定をする。

「待っていろ、王よ。ワシは必ず戻ってくるぞ」

 カトレウスは目を閉じる。その耳元ではどこからともなく馬蹄の音が響き渡り、閉じたまぶたの裏ではカヒの赤い旗に押されて崩れ去る王旗を映し出す。

 いずれ来るであろう未来、まだ見ぬ未来を思い描いたのだ。


 二月十五日昼、カトレウスとカヒの兵を乗せた最後の船が近畿を後にし、河東へと戻った。

 カヒの畿内侵攻は頓挫とんざし、有斗は最大の危機を脱したといえる。

 だがカトレウスが全ての力を無くした訳でもなく、有斗がカトレウスを殺したわけでもない。

 二万を超える精鋭とカトレウス自慢の猛将はまだまだ健在であった。

 少なくとももう一度、二人が戦場で相合えるのは避けようが無い未来図である。

 アメイジアの民の目は、どちらが最終的な勝者となるのか、固唾かたずを呑んで事の成り行きを見守っていた。



 [第六章 完]


戦場で干戈を交えることだけが戦争では無い。戦争とは外交の延長線上にある単なる政治の一形態に過ぎないのだ。

戦場は喧嘩や格闘技の試合とは違うのである。

戦場に辿り着くまでに手を打つことで、いくらでも勝敗を左右、いや、勝敗を決することができるのだ。

故に孫子は『上兵は謀を伐つ。その次は交を伐つ。その次は兵を伐つ。その下は城を攻む』と云ったのである。

だからこそ一勝一敗の五分の形成に持ち込んだ有斗とカトレウスは兵をしばし休めて、互いに次の戦いに備えようとする。


次回 第七章 帷幄の章


『荒廃したこの世に星があるとするならば、それはあなたなのかもしれない』

彼女は夜空を見上げてまじろぎもしない有斗を見て、そう思った。

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