第225話 イスティエアの戦い(Ⅶ)

 ニクティモは戦場にいったい何が起きたのかまったくもって分からなかった。

 大軍が一瞬で崩壊するというあまりにも想像を超えた事態を前にして、ニクティモにできることは崩れ去る左翼戦列を呆然と眺めることだけだった。

 その原因がマシニッサという南部一諸侯が兵を後方へと下げたことに端を発するということと、結果が左翼部隊の壊滅にあたるということは彼の目の前で繰り広げられたことだ。両方とも認識はしていた。

 だがその間を結びつけるものが彼には理解できなかったのだ。

 何故、たかが一諸侯が兵を少し動かしたくらいで、五万を数えるカヒの左翼がこうもあっけなく崩壊するのだろうか?

 ニクティモが人並みはずれた勇猛さを持つ優れた指揮官であるがゆえに、普通の人間が持つ恐怖や不安、弱さと言ったものがその原因であるとはなかなか思いつかなかったのである。

 ようやく、マシニッサのしたこと、それがカヒに対する極めて悪質な裏切りであると気付いた時にはもう全てが終わっていた。

 南部諸侯と傭兵が戦場を退いたことで今やニクティモ隊は敵中に孤立していた。ザラルセン隊は右から回り込みを図り、王側の傭兵たちがそれに呼応して、左から退路を断つような形で回り込もうとする。

「ニクティモ様! このままでは我々は戦場にて完全に孤立し、包囲されることになります! 今ならばまだ組織的な撤退は可能です! ご命令を!」

 呆然としたままのニクティモは側近にそう叫ばれてようやく我を取り戻した。

 今やカヒの左翼で軍隊の形状を残しているものはニクティモ率いる六翼だけであった。

「退くぞ! だが諸隊混乱のまま、我先に退いては被害はますます増えるばかりである。ここは最後尾にあたる我らが後拒こうきょを行い、味方の為に僅かでも時間を稼ごうではないか! 繰り引きを行うぞ、準備せよ!」

 このまま混乱の中、壊滅することだけは避けねばならぬ。

 ニクティモが預かっているのはカヒ二十四翼の兵なのである。それはカヒの誇りそのもの。河東の精鋭、カヒの精神的支柱なのである。これをここでむざむざと失うわけにはいかない。

 東山道は今や敗兵でごった返している。そこにこのまま部隊を退却させ逃れようとしても、前が塞がっていて思うように進めない中、後方よりの攻撃を受けて兵をみすみす無駄死にさせるのがおちだ。

 どうせ攻撃を受けて兵を失うのならば、せいぜい敵にも痛撃を食らわせカヒの意地を思い知らせたほうがいくらかマシというものである。

「それに・・・」

 ニクティモは口中で小さく呟く。

「それに戦はまだ終わったわけじゃない。撤退のしかた如何いかんによっては結末が大きく異なる。苦労多く実り少ない撤退戦を行って、御館様を無事に戦場から落ち延びさせ、味方を一兵でも多く逃がすことができれば、この負けは小さな敗北程度に変えることができる」

 一度の戦いで大敗北を喫しても、それで全てが終わるわけじゃない。

 河東には広大な大地と数百万もの民がカトレウスを崇めている。のがれさえすればいくらでも再起は可能であろう。

 決してここで天下取りの夢を終わらせてなるものか。御館様の夢を叶えることが俺の夢であるのだから、とニクティモは唇を噛み締めながらそう思った。


 アエネアスは眼前で展開される光景が未だ信じられなかった。

 韮山での戦で分かったようにカヒの兵は少ない数で王師を圧倒できる恐るべき強兵だ。その将軍たちも王師の将軍たちと遜色そんしょくない働きを見せる高名な武人たち。そしてそれを率いる大将は時代の寵児、カトレウスなのである。

 そのカヒがここイスティエアで王に戦いを挑むに際し、引き連れてきたのはこちらを大きく上回る兵力。さらには大軍の戦で何より物を言う騎馬兵力もカヒのほうが上回る。しかもここには兄様もアリアボネもいないのである。いるのはこの───

「なに?」

 と、とぼけた顔でこちらを見上げる有斗だけなのである。

「・・・」

 だが有斗の先程の疑問にも一切答えず、アエネアスは黙りこくっていた。

「だから何? さっきから僕のこと見て黙り込んでるけど・・・」

 間違っても有斗の横顔に見惚れていたなどということではないことは重々承知していた。アエネアスはとにかく面食いなのである。

 だが戦のただ中で理由がわからぬまま見つめられることこそ気持ちの悪いものはない。

「いや・・・どこでこんな作戦を思いついたんだろうな、と不思議に思って、さ」

 作戦会議で有斗が指示したこの作戦に大勢の将軍たちは尻込みした。

 まず部隊が行う複雑な機動に難色を示した。相手と戦いながら移動する、それも後退するというのはかなりの難事なのである。

 それに戦争は相手あってのものだ、こちらの思い通りに敵が動くとは限らない。もし有斗が考えたとおりに敵が動かなければこの機動は兵士に疲労を強いるだけの単なる無駄骨となる。

 だがそれを有斗は兵数の多い敵は絶対に両翼包囲を行うと主張して己の作戦を押し通した。

 相手の主力はカヒ二十四翼なのである。つまり騎兵だ。それを中央で敵に正対させ、正面の敵の攻撃に使うなどありえない、機動力を何より一番の武器とする騎兵をそんなもったいない使い方をするはずがないと主張したのだ。それに中央戦列は一番被害の大きくなる部署だ。損耗を避けるために二十四翼を置きたくないはずだ。

 ならば、中央の戦列は諸侯の兵で構成されるはずだ。

 そう、普段は別々の場所で暮らし、違う戦闘訓練を受け、異なる命令系統を持つ雑多な軍だ。

 カトレウスとて大まかに進めだの、引けだの、攻撃しろだの、包囲しろだのとしか命じることはできまい。以心伝心、弱点を補い合って戦うなど無理な相談なのだ。

 こちらがわざと退却をすれば何も疑うことなく、こちらに合わせるようにして同じ動きで前進することになるに違いないのだ。

 そう、目の前の戦闘に心を奪われ右翼の戦列と断絶ができ、側面を、そして背後に回りこむほどの隙間を生み出すなどと思うこともない、と主張したのだ。

 そして戦いはまったく有斗の想像したとおりに進行したのである。

 初めて南部に来た時の有斗は何も知らないふうだった。戦略や戦術や戦闘、この世界のこと、いやそれどころか一般常識ですらまるで知らなかった。それをアエネアスは幾度も馬鹿にしたものだ。

 だが今の有斗はどうだ? まるで別人、歴戦の将軍のようであった。

 どこでその洞察力と戦術を見につけたというのだろうか? 人知れず努力をしていたのだろうか・・・?

「全部教えてもらったことだよ。アリアボネやアエティウスに」

 返ってきた想像もしていなかった答えに、アエネアスは目を丸め、思わず有斗と目が合った。

「兄様やアリアボネに?」

「総大将としての心構えから、戦争の仕方、部隊指揮の仕方、戦場における物の見方まで全部さ。今度の戦いだってそうさ。関西に攻め入って王城前で決戦した時、中央に位置した敵をわざと逃げたふりをして、戦列から誘い出し、突出したところを横に配置した部隊で側面攻撃を行うという戦いかたをしたことがあったんだ。横から回り込まなくても、側面攻撃を行うことは可能だと教えてくれていたんだ、アリアボネは」

 ・・・そうか、まだ続いているんだ、とその答えにアエネアスは胸の奥に小さく高鳴るものを感じた。

 彼らが残したものは人々の胸にまだ残っている。有斗に、そしてアエネアスに。

 まだアリアボネや兄様と描いた夢は途切れたわけじゃない。二人の死で全てなくなったわけではない。

 今まで二人が為したことも全ては無駄じゃない。無駄じゃなかった・・・

 そう、いつか有斗がアメイジアを平らげたその瞬間が訪れるなら無駄じゃない。兄様の死もアリアボネの死もきっと意味のあるものに変わることができる。

「・・・その言葉はアリアボネに聞かせてやりたかったな」

 ふと、そう思った。きっとその言葉に何よりも喜んだことであろう。

 四師の乱を起こされ、王様失格の烙印を押された有斗を最初に天与の人であると言い切ったのは、兄様でもアエネアスでも、そしておそらくアリスディアでもない。アリアボネがこの世界で初めて、召喚の儀で呼び出されたという一事以外で有斗を天与の人かもしれないと認めたに違いない。

 誰よりも有斗を信じ、支え、愛し、そしてその命も有斗に捧げたのだから、きっとその言葉はアリアボネにとって何よりもの褒詞となるに違いない。

 大好きな親友であるアリアボネにとって喜ぶべきことは、アエネアスにとっても大いなる喜び・・・であるはずだった。

 だが何故か嬉しい気持ちだけでない自分がここにいることに気付いて、アエネアスは驚くとともに、何か嫌なものを発見したかのように表情を曇らせた。


「左翼が崩壊した以上は、もはや如何いかんともしがたし」

 カトレウスは自慢の軍団が崩れゆくのを見ながらそう言うと大きく嘆息した。

「御館様、ここは一旦河東へ退き、捲土重来けんどちょうらいを図るべきかと」

 あまりの出来事に少しの時間、我を失っていたマイナロスだったが、物事の優先順位を見誤る男ではなかった。まずはさておき、御館様を逃がすことだ。

 敗北は仕方が無い。ここまで味方の兵に逃げられてはもうどうやっても戦況をひっくり返すことはありえないであろう。ならば少しでも犠牲を減らすことを考えるべきだ、一刻も早く撤退すべきだ。

 敗北は恥ではない。今、目の前で戦勝に酔ったような目をしているであろう王ですら、韮山でカヒに一度敗れたではないか。次に再戦して勝つのがカヒではないと誰が言い切れようか。

 だがそれもこれも全ては御館様が生き延びたらの話である。御館様に死なれては王に再戦など及びも付かない。こんなとんでもない機動戦術を考案し駆使する王相手に互角に渡り合うには、どう考えても稀代の戦略家である御館様が必要なのだ。

 ここで御館様を失えば、例えここから全軍を無傷で撤退させるという奇跡が起きたとしても、きっとカヒは二度と畿内に足を踏み入れることすらできはしないであろう。

 だがマイナロスの言葉にカトレウスは首を縦に振らなかった。

「しかし東山道は先に逃げ出した兵で思うように後退できまい。一旦逃げ出すと決めてしまえばどんな勇士であっても心くじけるものだ。いくらカヒの二十四翼の兵といえど命大事と思い、まともに防戦もできずに討ち取られてしまうだろう。負けは兵家の常、死ぬのは人の運命さだめ、何ら恥じることも恐れることもない。だが何もできずに後ろから討たれることだけは我慢ならん。せめて前を向いて王に立ち向かって死にたいではないか」

 カトレウスはこの地での末期の決戦にまだ未練を残している様子だった。

 華やかなる討ち死に、それはこの戦国の世を生きるなべての武者にとっての憧れ、苦難に満ちた現世からの救済に近いものがあった。

 だがカトレウスは一介の武者ではないのだ。大勢の家臣を抱える大諸侯の長なのだ。カヒ三万の家臣の家族のためにも生きて帰って貰わなくてはならない。

 こんな時こそ口八丁の軍師の出番ではないか。この地にガイネウスがいないことがマイナロスには妙に腹立たしかった。

 焦りがあった。一秒時が過ぎるたびに逃れる確率は低くなるのである。

「確かに東山道は敗残兵で埋まっておりましょう。だが一旦その中に埋もれてしまえば、探し出すことなどできはしますまい。東山道が不安だとお考えならば、山野を駆け逃れるという方法もあります。まだ河東に逃れることは可能です」

「河東へ逃れて何とする。何万もの河東の若者がこのワシとともに大河を渡った。何千もの命を失い、死体すら持ち帰れぬ。何の面目があって彼らの父母に再び相見あいまみえることが出来ようか」

 思わぬ大敗にカトレウスは大いに気落ちしている様子だった。

 だがマイナロスは華やかなる死を口にする度に、カトレウスにあらゆる言葉を尽くして何度も何度も食い下がった。

「一回敗れたぐらいで何を気弱な。河東に戻って敗兵を集め、河北に送った軍を呼び戻し、さらに新兵を募り、諸侯の力を借りて王師を迎え撃ちましょう。最期の戦をするならそれからでも遅くはありますまい」

 結局、カトレウスは首を縦に振って逃げ出すことに同意した。

 マイナロスの執念深さには降参したよ、そういった諦めの表情がカトレウスの顔を覆っていた。

 そうと決まれば話は早い。マイナロスは前線から翼長と主な侍大将を呼び集め、手早く退却の方針を指示する。

 先程の押し問答の間に、もはや東山道を後退するという手段は現実性を失っていた。

 ならば道なき道を東へ後退するしかない。それも北東へと逃れるのが最適であると思われた。

 北側、つまり王師の左翼は唯一カヒ側が最初から最後まで優位に戦を進めていた場所である。ダウニオスの六翼の兵と合流することもできるだろう。それにダウニオスと戦っている騎兵は数が少なく、敵の第一戦列は重歩兵で移動に適しない。軽歩兵はその後方にいる為、すぐには追撃に移れない。なおかつ敵が築き上げた柵がこちらへの進軍を阻む盾となって、撤退を容易にしてくれるであろう。

 だがその予想と異なり、カトレウスの撤退行はいきなり苦難に満ちたものとなる。


 それは本陣で指示を受けた部将が持ち場に戻るのとほぼ同時であった。

 カトレウスの本陣に突然左手から現れた敵が旋風の如く襲いかかった。

 巨大な手柄を立てる好機とばかりにベルビオとヒュベルが競うように前を塞いでいた河東諸侯を蹴散らし、カトレウスの旗が高々と立てられた本陣に槍を突き入れたのだ。

「行けい! 例え一兵卒であろうとも、カトレウスの首を得たものは諸侯の端に連なることができるぞ!」

 ベルビオの叱咤に兵卒は槍で応えた。

 戦場でも矢の飛んでこない安全な場所にいた本陣の兵卒たちは、驚く暇もなく刺し連ねられ叩き潰された。だがそこは曲がりなりにも本陣を守るカヒ精鋭中の精鋭。彼らの誇りである御館様を守ろうと体で防壁を作り、カトレウスの元まで辿り着かせなかった。

「さすがは本陣、手練てだれが揃っている」

 ベルビオだけでなくヒュベルでさえも一刀の下には斬り殺せず苦戦を強いられる。

 とはいえ彼らとて河東では名の知れた剛の者たちだ。それを複数相手にして切り伏せていくヒュベルの強さが異常なのだ。

 敵味方人馬入り乱れての大乱戦となった。

 幾度かはもう少しでカトレウスの旗下というところまで片手をかけたのだが、そのたびに敵の粘り強い反撃に合い押し戻された。

 だがカヒの反撃もいつまで続くことやら。

 こうしている間にも正面からは重装歩兵が一歩一歩近づき、左翼の兵を一通り排除した他の王師も一目散に大将旗目指して集まろうとしていた。

 だがここで迂闊うかつにカトレウスが逃げようものなら、その瞬間兵士の士気は崩壊し、隊伍は乱れる。そうなれば後ろを見せて逃げるカトレウスと敵との間を阻む壁が無くなり、カトレウスの命は風前の灯火となるだろう。

 逃げる前に少し、そうほんの少しでいい、簡単には崩れないだけの心理的余裕、有利な体勢に持ち込むことができれば・・・

 いつでも退却できるよう用意をしながら、マイナロスは懸命に防戦を続けていた。

 と、そこでベルビオ隊の後備で騒ぎが起き攻撃が緩んだ。

「そりゃあ横腹に食いつけ!」

 聞きなじんだしわがれ声を聞き、マイナロスは顔をほころばせる。それはニクティモの声だった。

 本陣が襲われるのを見て、王師の追撃を受けながらも戦場を横断して救援に駆けつけたのだ。

「御館様! 早く戦場から脱出を! ここは私が食い止めます!」

 ニクティモの言葉にカトレウスは頷いて馬に飛び乗った。

 マイナロスはまず赤備え二千と共にカトレウスを脱出させる。ちょうど北側ではダウニオスが敵をあしらいながら後退しているところだ。本陣から脱出する赤備えを見ればその意図を悟り、背後を守ってくれるであろう。

 ベルビオはニクティモに背後からの強襲を喰らい、隊を二つに分断させられた。

 左翼だけでなく右翼の河東諸侯も東山道へ向けて後退したのだ。カトレウスの本陣と最左翼のニクティモ隊の間には王師に攻撃されて逃げ惑う兵で埋め尽くされていたのだ。その人波をかき分けてカトレウスを救いに長駆するなど考えも及ばないことであった。カトレウスの強力なカリスマを見る思いだった。

 とはいえ感心してばかりはいられない。カトレウスを討ったか討たないかでは戦の結果に雲泥の差がある。

 ベルビオは再び手の戟を振り回し、逃れ行くカトレウスになんとか追いすがろうとする。

 しばらくニクティモはマイナロスと一手になり、王師の攻撃を受流して時間を稼いでいた。

 だがそれもあと少しであろう。敵兵は眼前の野を埋め尽くして刻一刻と彼ら目指して集まってきているのだから。カヒの名高い二十四翼の兵九千といえど七万を超える軍を相手に踏みとどまることなど不可能だった。

「マイナロス、お前は本陣の三千と俺が率いてきた中から四千を連れて御館様の後を追え」

 ヒュベルの攻撃を防ぐマイナロスに馬を寄せて近づいたニクティモはそう切り出した。

 マイナロスは驚きとともに同僚の顔を見る。

「そなたはどうするのだ?」

「俺は俺の白備えと共にここに残る」

「しかし・・・」

 共にカヒ家累代の家臣の家系。家としては何代前にもさかのぼる長い付き合い。そして二人も共に幾多の戦場で槍を並べた戦友なのだ。ここで見捨てるのは心が痛む。

 そんな感傷に捕らわれたマイナロスをニクティモは笑い飛ばした。

「誰かが殿しんがりをやらねば軍が壊滅する」

 だがこれは尋常じんじょうの殿ではない。追撃する王師は七万を越えるのである。ここは平原だ、地の利は無い。万を越える兵でもその行く手を防ぐことは容易ではない。

 なのに残るのは、たった二千だとは・・・!

「御館様の再起のためには少しでも多くの兵が必要なのだ。坂東で無敵を誇った二十四翼の兵は精強、一朝一夕に簡単に得られるものではない。来るべき時のために、一人でも多くの兵を逃げ延びさせるべきだ」

 第一、ここに九千の兵が残ったとしても、事態が改善されるわけではない。敵の攻撃を受け続けるのみ。最後に待つのは全滅なのである。

 ならば目の前のヒュベル隊、ベルビオ隊を防げるだけの最低限の数だけを残して、後は戦場を落ち延びさせるべきだ。その方がずっといい。

「すまぬ」

 マイナロスは沈痛な面持ちで頭を深々と下げた。さっそく持ち場をニクティモの兵に渡し、用意のできた隊から離脱にかかる。

 逃がすものかと王師は攻撃を試みるが、ニクティモは巧妙に動かすことで寡兵を補い、それを辛うじて食い止める。もっともその一瞬だけでニクティモは百を越える兵士を失ったが。

 だがその犠牲は無駄では無い。マイナロスに率いられたカヒ二十四翼の精鋭はその間に矢も届かぬところまで退却することに成功したのだ。

 そこまで来ると隊列を乱し、人も馬も我先にただただ東へ向かった。だがもう大丈夫。これだけ距離が開けばそうそう追いつくこともできない。

 それでもしつこく追撃しようと欲目を出す王師の前にニクティモはことごとく立ち塞がって、それを許さない。

 だがその度にニクティモ隊の兵はみるみる減っていった。もはや立っている兵は二百もいなかった。

 そしてとうとう破局の時は訪れる。

 右翼から転進してきたヒュベル、ベルビオ、エテオクロス隊、柵を乗り越えて進軍してきた重装歩兵に軽歩兵、一面を埋め尽くす兵の群れに四方から攻撃を受けて、兵たちは次々とあっけなく命を落としていった。それでもニクティモ隊は逃げることなく最後まで戦場に踏みとどまった。

 残った三十人ばかりの兵を集めると、ニクティモはいよいよ最期の死に戦にとりかかることにする。

「すまんな。もはや逃げ延びる道は塞がれてしまった。だが味方はこれで戦場を脱したはずだ。最悪の事態だけは避けえたということだ。よく戦ってくれた、このニクティモ感謝の思いでいっぱいだ。これで思い残すことは何も無い」

そう言ってニクティモは生き残った兵卒に頭を下げた。血まみれの、立っているのがやっとの兵卒から悲痛な叫び声が一斉に上がる。

「戦いましょう!」

 名も知らぬ兵卒がそう叫んだ。

「まだ我らは戦えます!」

「せめて敵に斬り込んで華々しい最期を飾ろうではありませんか!」

 勇ましい同意の声が次々とあがった。

 絶望的な状況で多くの兵が死んでいった。にも関わらず、まだこんなにも共に死のうとしてくれる者がいる。そんな武人はそういるものではないことを考えると自分は果報者であった。ニクティモは小さく微笑んだ。

「ならば今ひとたび俺に力を貸してくれ。一兵であっても敵を切り、一時ひとときであろうとも時間を稼ぎ出すぞ! 最期の時までせいぜい器量いっぱい狂い舞って、王師に一泡吹かせてやろうではないか!」

 ニクティモの言葉に、片手を無くして死んだように倒れていた者や足を引き摺り満足に立てない者すら立ち上がった。

「俺はカヒに名高い四天王が一人ニクティモ、命が惜しくないものはかかってくるがよい! 討ち取って見事に功名とせよ!」

 迫り来る王師にそう叫ぶと、刃こぼれした刀を手にニクティモとその三十余名の兵は王師の中に一塊になって突撃を敢行し、二度と戻ってくることは無かった。

 戦場は残された一面の死体で覆われ、周囲は夜の闇に包まれる。

 カヒは戦う気力を、王師は追撃する体力を残していなかった。


 二月七日 イスティエアでの戦いはこうしてたった一日で決着がつき、王師の勝利に終わった。

 王師側の死者は三千人足らず、だが負傷者は八千人を超えるという多大な被害を被った。特に右翼戦列を形成していた諸隊の損害は特筆もので、一番長く戦っていたザラルセン隊とリュケネ隊は負傷していないものを探すほうが難しかったとまで言われる。

 対するカヒ側の死者は七千人、負傷者は一万二千人にも達した。ほとんどの死傷者は右翼崩壊後の撤退戦における追撃によるものだった。カヒはニクティモを始めとして四人の翼長、七人の諸侯、二十余もの侍大将を失い、敗北の代償はその損耗率以上の高いものについた。

 もし、王師に追撃するだけの余力が残っていたら、大河を渡ることができたカヒ兵はさらに少なくなっていたであろうというのが、歴史家の統一した見解である。

 カヒはまるで最終ゴングに救われ、KOかんぜんけっちゃくだけは免れた挑戦者と言ったところであった。

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