第224話 イスティエアの戦い(Ⅵ)

 三方を包囲された形となった左翼の河東諸侯は一挙に浮き足立った。

 特に中央から背後に回りこまれたことで総指揮官であるカトレウスと切り離されたことがまずかった。

 このままでは全滅する、その見通しを正しく全員が認識したまでは良かったが、その後の行動がいけなかったのだ。左翼を担当していた二万を超える河東諸侯の集団は、大きくても千を越える程度でしかない諸侯の集団なのである。この事態をどうすべきか判断する頭脳が三十を超えており、さらにはカトレウスの命令以外に、統一された動きを取る手段が確立されていなかったのだ。

 あるものはいち早く逃げようとし、あるものは前面の敵を打ち破ってこの苦境を脱しようとし、またあるものは背後や側面に兵を動かして攻撃を受け止めようとした。

 もし全体としてどれか一つの統一された行動を取ったならば、その後の混乱は無かったであろう。

 だが逃げる味方は周囲の味方の陣に逃げ込んで隊伍を乱し、そのまま前面の攻撃を続けようとした兵は背後から痛撃を受け、攻撃を防御体勢でやり過ごそうと試みた諸侯は、三方からの同時攻撃に指示が追いつかず、全ての箇所でみるみる死体の山を築き上げるだけであった。

 それまで防戦一方だったリュケネ、エテオクロス、プロイティデス隊はその鬱憤うっぷんをはらすべく、息を合わせて一斉に攻撃し、河東諸侯に槍を突き入れ、さらなる混乱に陥れる。

 逃げた諸侯も一息つくことはできなかった。背後には開戦からしばらくのあいだ槍を振るう機会を与えられなかったヒュベル隊とベルビオ隊が手ぐすねを引いて待ち構えていた。

 彼らはまるで冬眠前の熊に狙われた秋の川面を埋め尽くす鮭のように、軽々と王師に首を献じるだけであった。


 同様にニクティモ率いるカヒ左翼の白色備えをはじめとする六翼六千の騎兵隊も極度の苦戦に陥っていた。

 それまで一方的に駆り立てられ、無様に背中を見せていたザラルセン隊七千余が、まるで別人のように立ち直って反撃を開始したのだ。

 数は多いとはいえ、正面からの反撃だ。兵の質も悪い。その反撃だけならばニクティモも受流して防ぎきることは可能だったであろう。

 だが横合いより南部諸侯や傭兵隊が横槍を入れてきたことが戦の流れを変えた。彼らのたった一度の攻撃だけで百を超える歴戦の兵を失った。それくらい苛烈な攻撃だった。彼らは王師に比べると質は悪いが数がいる。ザラルセン隊に戦力の大半を振り分けているニクティモには手に余る相手だ。

 そして何より問題なのは退路に当たる背後を守る河東や南部の諸侯が浮き足立っている。

 その動揺が伝わって、ニクティモ旗下の強者を大きく揺さぶっていた。

 一旦安全な場所まで退き、再度態勢を整えないと反撃もおぼつかない、ニクティモはそう素早く判断した。

 追いすがろうとするザラルセン隊を何度も追い返してその隙に僅かな距離を退く、その絶え間ない繰り返しを忍耐強く続けた。

 そうやってニクティモ隊がザラルセン隊、南部諸侯、傭兵隊の二万の兵を食い止めていたことで、この時点でのカヒの左翼の全面崩壊の危機は一旦は去ったかに見えた。もちろん王師右翼の三軍とヒュベル、ベルビオ隊によって今この時も河東諸侯からなるカヒの左翼は食い荒らされている。戦況は圧倒的に王有利。

 だがニクティモの六翼と河東諸侯の間にはまだ無傷に近い傭兵隊と南部諸侯の軍がある。その数、二万。陣形の変形につれて距離ができたそれら部隊との間に有機的な繋がりを回復さえできれば、左翼は再び勢いを取り戻すことができる。戦の趨勢すうせいはまだまだ予断を許さない段階にまで押し戻すことができる。勝つのは厳しいかもしれないが、負けを無くす程度にまで押し戻すことは難しいことではない。

 そうニクティモは考えていたし、この戦闘を分析した戦史家も皆、口を揃えてそう言う。

 右翼ではカヒが五分の、いやどちらかというと優勢なまま戦いを続けていたのだから。

 それに自ら前進し、敵の攻撃を受けて防衛しながら後退し、再び反撃に移るといった一連の機動は王師の兵に多大な負担をかけている。元々の人数も王師の方が少ない。この好機に押し切れなければかえって危うい。いつか必ず息切れし、新たに打つ手が無い状況になるに違いない。

 この自らの陣形を崩すことによって敵の陣形をも崩し、その結果として現れる断点から中央突破を計り、敵の後背に回るという王の作戦と、それを寸分狂わずに実行した王師の機動は後世の手本となるべき優れたものであったが、軍記物語が書くように、この戦術がカヒを破滅させるほどの効果をもたらしたかというと、実はそうではなかったのだ。

 片や召喚の儀でアメイジアに降臨した天与の人有斗、そしてもう片方や戦国の寵児ちょうじカトレウス。

 戦の女神は両者にいまだ微笑まず。

 彼女は少しばかり意地悪な笑みを隠しながら、戦国の覇者を決めるこの戦いに相応しい、劇的な幕切れを用意していたのである。


 前だけでも数に勝るザラルセン隊、右横からは傭兵隊と南部諸侯、それでも勇を挫かずに陣形を保ったまま、ニクティモと名高いカヒ二十四翼の一員である六千の誇り高い騎兵たちは味方の南部諸侯や河北諸侯の軍の息の届くほどの距離にまで後退することに遂に成功した。

 このまま攻撃を続ければ今度は横合いから槍を入れられるのは自分たちになる、と王についた傭兵隊も南部諸侯も足踏みをするようにその場で追撃を止めた。

 そうなれば相手はザラルセン隊だけだ。

 味方と合流できたこと、そして敵の攻撃が下火になったことに、それまで浮き足立っていたニクティモ旗下の六翼の兵も、ようやく落ち着きを取り戻す。

 目前の破滅は回避された。

 もちろん、その間も河東諸侯からなるカヒ左翼戦列は王師の攻勢を支えきれず四散するように崩壊を続けていた。

 だがここにはまだ一万の傭兵、一万の南部諸侯という無傷の二万の新手がおり、そして六千のカヒの騎馬軍団がいるのだ。連携してこの目前の兵を追い払い、返す刀で今度はこちらが相手の後ろに回り込めばいい。そうすればまだ五分に戦えるだけの力をカヒは残しているはずだ。

 そう安堵の息を洩らした瞬間だった。

 ニクティモの斜め後方二百メートルに翻っていた剣桔梗けんききょうの旗が一斉に裏返った。

 そして軍勢から離れると、東山道を東へと急速に歩を速めた。

 つまり、それは撤退だった。戦場で剣を交えもしていないのに、敵を目にしただけで退却を開始したのだ。

 ありえない話だった。

 敵に追いまくられて逃げるのならまだ分かる。敵が優勢だから裏切るのも、もちろんそれは憎むべきことだが、まだわかる。

 戦はたけなわなのである。多少の優劣はあろうが、まだどちらかが大きく優勢であるとは見られない。

 まさにその最中での突然の戦場離脱。

 だが意味が分からないからこそ、味方に与えた衝撃は大きかった。

 戦況はいまだ拮抗しているように見える。だが事態は我々の見えないところで悪化しており、本当はもはや破綻寸前なのではないだろうか? だからこそ突然あの諸侯は撤退を始めたのではないだろうか? そういった不安が音を立てずに兵たちの心に襲い掛かった。

 なにせ今回の戦いは両軍合わせて十五万もの兵が一度に戦っているのだ。誰もが戦場の全体を把握しきれてない。

 だからこそ自分の見えないところで何かとんでもないことが起きているのではないかという、そういった未知の恐怖が彼らの心臓を鷲掴みにしたのだ。

 大きな動揺が一斉にカヒの左翼の将士に広がった。河東諸侯も、傭兵たちも、南部諸侯も、ニクティモはじめカヒの将士にも。

 それが最高潮に達した瞬間だった。南部諸侯が我も我もと持ち場を離れ、撤退を開始した。

 それは急速に津波のように広がって行った。南部諸侯だけでなく傭兵たちも、それまで王師に抗戦し、なんとか右翼の崩壊を食い止めていた河東の諸侯たちの中にまで、たちの悪い病気のように伝染していった。その中にはダルタロスの一千の兵の姿もあった。

 五万もの大兵を数えたカヒの左翼は今、ここに完膚なきまでに崩れ去った。もはやニクティモにもカトレウスにもどうすることもできない。

 全ては剣桔梗の旗一枚翻るところから、イスティエアの戦いの勝敗はそんな些細なことから決着が付いたのである。

 剣桔梗、それはトゥエンクの紋章である。


「いやいや、やはり前方に他の兵がいないっていうのはいいな。実にいい。行軍がはかどる」

 それに比べればカヒの大軍の中に埋もれていたここ最近は実に肩のこる軍隊生活だったことよと、マシニッサは上機嫌で前方に障害物のない街道をトゥエンク目指して馬を走らせていた。

 もし王師の追撃があっても、まだ戦場にはカヒの兵が残っているのだ、当然あったとしてもそう直ぐにではない。それに後方で退却するどこぞの諸侯が殿しんがりをきっちりしてくれることであろう。退却と言っても後ろを気にすることのない気楽な行軍だった。

「これでよかったのでしょうか・・・」

 馬を寄せるとスクリボニウスは不安そうな顔を主君に向けた。

「何がだ?」

 マシニッサはいつものニヒルな笑みでスクリボニウスに訊ね返す。

干戈かんかを交えず戦場を離脱したことです」

 あれはどう言いつくろっても裏切り行為に他ならない。しかも裏切りではなく撤退というところが輪をかけて酷い。

 裏切りなら周囲の諸侯が憤慨し、寄ってたかって攻め寄せる。裏切りを許さないだろう。むしろ裏切りに発奮し、裏切らなかった残った諸侯の結束は固く結ばれるであろう。

 だが撤退ならばどうだ。あくまでまだ味方であるから周囲の諸侯も攻撃することもできない。同格の諸侯だから逃げるなとも言い辛い。そのくせ、周囲に与える心理的な衝撃は裏切りに等しい。

 つまり一兵も損ずることなく、カヒ陣営に計り知れないダメージを与えることができるのだ。

 自分がカトレウスならマシニッサのことを死んでも許さないだろうな、とスクリボニウスは思ったくらいだ。天下を手に入れたと思った瞬間に、伸ばした手をはたかれたようなものなのだ。通常の裏切りとは訳が違う。

「カトレウスは南部諸侯に出兵を要請した。それに応えて俺は戦場に兵を出した。死ぬまで戦えとか、全滅するまで逃げるなとか、命じられたわけじゃない。だからそれでカヒへの義理は十分に果たしたさ」

 だがマシニッサは気楽なものだった。それで貸し借り無しとでも考えているのであろう。実に利己的な思考である。

「しかし、それで納得してくれるでしょうか・・・?」

 そんなわけがあるはずがない、そう思うスクリボニウスにマシニッサは別の視点から考えよう、と言った。

「ここで敗れて後が無いのは王かカトレウスか、どっちだ?」

「それは・・・」

 言うまでもなく王であろう。畿内に兵を進められ、諸侯からも裏切り者が出る始末、動員兵力は地元にもかかわらずカヒに大差を付けられていた。王都までの距離も近い。ここで敗れたら王にはもう後が無い。

 対してカヒはここで負けたとしても、河東へ戻れば再起を図ることができる。この差は大きい。

「俺はカヒにも王にもまだ勝負を終わらせて欲しくない。ならば負けたら終わりのほうに肩入れするのは当然のことと言える」

「しかしカヒからとんでもない恨みを買いませんか?」

「それならそれでせいせいするさ。二度と味方しないだけのことよ。あいつらは俺を大いに見下していやがったからな」

 彼は何よりも他人から見下されることが大嫌いだった。舐められるのだけは我慢がならなかった。それは権謀術数を駆使し利益の為なら親でも売りかねない計算の男、マシニッサの中にある意外な稚気であった。

「だが、もしカヒが本当に天下をまだ手中にしたいなら、いくら頭にきても俺を許さざるをえんさ。大きな度量があるところを見せねば、諸侯の離反につながる。王師と戦うには諸侯の協力が是非とも必要になるのだからな。それに天下取りには俺の持つ千を超える兵力は魅力的でもあるだろう。王とカヒの間に位置するというトゥエンクの地政学的な観点からも味方にしておかねばならない。そもそも王の作戦に引っかかって中央突破からの後方回り込みを許した時点でこの戦は負けたようなものさ。俺のせいじゃない」

 と言ってのけたところをみると、マシニッサの中では見事なまでに責任転嫁に成功したようだった。

 しかしあんな作戦があるとは・・・実に驚きだった。

 カトレウスが思いつかなかったように、マシニッサにもまったく想像もできなかった。

 王が右翼に戦力を集中していることからてっきり右翼からの片翼包囲でも企んでいるのかと思っていた。

 どうやって思いついたか知らないが、まるで魔法のような一連の機動だった。

 アリアボネやアエティウスがいたころでもここまで華麗な戦術は見たことが無い、そうマシニッサは思った。

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