第221話 イスティエアの戦い(Ⅲ)

 一月二十九日に東京龍緑府を発した有斗は、二月四日には足守川を望み、翌二月五日遂に足守川を渡った。

 素早く川から離れると、二月六日にはイスティエアのわずかばかりに盛り上がった丘に本陣を置いた。

 起伏の多い複雑なイスティエアの地形に兵を巧妙に隠したので、坂東における数々の戦で鍛えたカヒの物見といえど、王師の全貌を把握することは不可能ごとだった。

 だがそれこそがすなわち王の自信の無さの現れであるとカトレウスは受け取った。

 カヒより劣る兵力の実態を隠して、カヒを牽制しようとしていると見たのである。

 王が十二万と号しているその軍だが、王城の内通者より手に入れた情報によると実数は七万程度でしかないと言う。

 今でこそ野戦に応じようとする王だが、気が変わって籠城策に変更するかもしれない。そう思って最初の三日間こそ兵を急がせたカトレウスだったが、王が着実に近づいて来ていると確認ができたことで安心し、上音羽川を越えた辺りで一旦兵の足を止めた。

 今度は逆に王師を少しでもおびき寄せたいと思ったのだ。

 その誘いに乗ったかのように王は足守川を渡った。

 ならば王都への退路を川が防ぐ形になってくれる、とカトレウスは満面の笑みを浮かべた。

 もちろん足守川に橋は何本もあるが、万の軍の撤退を考えると無いも同然である。敗兵で橋が埋まり、きっと立ち往生するに違いない。

 例え何日かかろうとも、王の足を捕まえるまで必ずや追い続けてみせる。

 カトレウスは幸せな未来図を脳内に浮かべて悦に入っていた。


「陛下!」

 イスティエアの野に兵を南北に展開する。おおよその陣割を決め、諸将に位置に付くように指示して一刻後、王旗の下で作戦図とにらめっこしている有斗にエテオクロスが声をかけた。

「エテオクロス、なんだい?」

「陣割は終わりました。して柵や堀を構築しますか?」

 カヒとの決戦は死闘となる。有斗の策に納得したエテオクロスだったが、それだけに頼るのは危険だとの思いは依然としてあった。

 だから少しでも勝つ可能性を上げるために、野戦築城する気はないのか訊ねたのである。

「僕らの最初の形は斜線陣ぎみに兵を布陣することになる。敵は基本どおり弱点である右翼に精鋭配置を行うかな? それとも敵は左翼に主力を集中して斜線陣を行ってくるかな?」

 だとしても有斗の立てた作戦は十分に機能するはずであるが、細部の調整が必要になるであろう。

「おそらくはそのどちらでもないかと・・・敵は騎兵兵力において圧倒的に優勢なのですから、当然左翼からだけでなく、右翼からも回り込みを計ると思われます」

「両翼包囲か」

 只でさえ兵力に余裕がある。さらに騎馬兵力においては圧倒的な差があるのだ。しかも布陣するのは多少起伏はあるものの平原だ。そうするのが当然であろう。もし有斗が相手の立場であってもそうする。

「御意」

「ならば左翼を中心に柵と堀を構築しよう。こちらの作戦を変形斜線陣であると思わせるためにも有効だし、実際敵の攻撃をいくらかは防いでくれるだろうし」

 有斗の作戦は味方の軍が来るまでの長い時間、左翼が戦場に踏みとどまってくれるかどうかが全てだ。

 もし有斗が立てた作戦に沿って物事が進んでいったとしても、作戦が終わる前に左翼が崩壊すれば、それに相対していた敵右翼が作戦遂行中の他の王師に襲い掛かるであろう。

 そうなれば戦いの行方はまだわからない。いや、どちらかと言えば騎兵戦力の多いカヒの方が機動力がある分、有利と言わざるを得ない。

「ですが左翼にだけ柵があると不自然です。敵に不審を抱かれませんか?」

「だけれども中央と右翼の動きだって、この作戦の成否の鍵だよ。その前面に柵や堀を構築すると身動きが取れない」

「そうですね・・・じゃあこうしたらいかがでしょう? 急いで作りかけたけれども間に合いませんでしたといったふうに擬態する。兵が後退した時に、素早く退却しやすいように長く繋げて作らない」

「それで大丈夫かな。柵に背後を塞がれて、そこで戦列が途切れてしまい、敵に集中攻撃されて突破されたりしないかな?」

「この作戦で問題となるのは右翼。右翼を構成するのは元関東王師中心の部隊、槍兵と軽歩兵です。後ろに後退する時は弓で援護させ敵の足を止めれば、被害を減らすことができるでしょう」

 言うのは簡単だが、やってみると難しいことは想像に難くない。

 敵に攻められながら戦列を維持して後退するだけでも難事なのに、その退路にはあろうことか味方が築いた柵が邪魔をするのだ。

「リュケネが怒りそうだなぁ・・・」

 いつも王師の中で面倒な役割を押し付けられるのは決まってリュケネだった。今回も多分にもれずその厄介な役目を任されたのはリュケネだった。

「大丈夫ですよ陛下。王師の将軍は陛下の御為に命を懸けて戦うことこそが誇り。そんなことくらいでは怒りません」

 とは言っても限度ってものがある。特に今回はいつもにもまして、あまりおもしろくない仕事である。作戦全体で見たとき、重要ではあるが、その手で勝利をもぎ取る役目は他の将に譲るという地味で損な役回りだ。さすがに不満を洩らすかもしれない。

 だがこの作戦では右翼の兵の動きが全てを決すると言って間違いは無い。

 戦列を保ちながら後退するという起用なまねを行えるのは王師の将軍数多くいれど、やはり第一人者はリュケネである。何度考え直してもリュケネに頼むしかなかった。

「後はカヒがこちらの思惑に乗って、ここイスティエアに兵を進めてくれるかということですね」

状況はカヒ有利のまま進んでいる。だがカトレウスは極めて慎重な性格だ。

 兵を進める前に、いま少し諸侯の切り崩しを行う可能性は少ないながらもあるのではないか、そうエテオクロスは考えていたのだ。

 そうなれば柵と堀を中途半端に建設したことがカトレウスの猜疑心を刺激することになるかもしれない。

 もはやカヒの偵騎はどこか遠いところから王師をこっそりとうかがっているに違いないのである。何日も経ったのにも関わらず、柵と堀の工事が全然進展しなかったら、どう考えても怪しまれる。かといって、王師の前面全てに柵と堀を作ってしまえば、有斗の作戦を実行することはできない。

 たしかに野戦に置いて野戦築城をすることは極めて効果がある。

 だがそれは正面にだけ。そして敵はカヒなのである。堀や柵などはその豊富な騎兵の持ち味である機動力を生かして、回りこんで無効化するだろう。

 そうなったら敗北は必至だ。そうなる前にエテオクロスは王を説得して、無理矢理にでも王都に撤退させるしかないだろう。

「敵がこちらに向かっていることは偵騎から報告は受けている。それにカヒは十万もの軍勢だという話だ。それに対してこちらは七万であるということも、おそらくは掴んでいるだろう。この兵力差なら慎重なカトレウスといえども全面攻勢をかけるはず」

「はい」

 それに戦場に王旗が翻るのだ。天下を狙っているカトレウスからしてみれば僕を葬るまたとない機会だろう。

 有斗を討ち取ろうとするあまりにきっと多少不利な態勢であっても攻め込んでくる。

 ましてや兵力において上回っているんだ、攻め込まないはずがない。

 だがカトレウスは二、三万の兵を率いたことはあるが、五万を超えるような大兵を率いて戦ったことがない。有斗は西京、韮山と二回も超大規模な軍勢を指揮する機会を経験している。

 その戦で、兵書と実践との差異を有斗は学んだ。だがカトレウスはまだ知っていない。この差は生きるはずだ。

 最初の布陣を見て、カトレウスが勝ったと思って舞い上がってくれたら、勝利することは必ずしも難しいことではない。


 翌二月七日、イスティエア原野の端に赤い大菱旗がはためいた。

 東山道の向こうから黒い集団が巣から湧き出る蟻のようにうごめき、こちらに近づいてくる。

 王師、それに味方した諸侯は一斉にどよめき、その内心の動揺を表すように旗が乱れた。

 旗は不思議と軍勢の現在の状況を表すものだ。軍隊の顔と言っても過言ではない。一糸乱れぬように旗が凛然としている時は、将軍の命が隊の隅々まで行き渡り、統率がとれているものだ。逆に指揮官と兵士に親和無く、兵士がめったに命に服さないような軍隊だと、旌旗せいきも不思議と乱れるものである。

 であるならばこの旗の乱れはカトレウスにとって吉兆であるように思えた。


「王旗はあるな」

 イスティエアに到着したカトレウスが、先行していた物見の兵に真っ先に確認したことはそれだった。

 王がいるといないでは大違いだ。韮山では逃がしたが、あれは山岳地帯で狭い街道しか追跡することができなかったからだ。

 今度は平原だ。いくらでも回り込むことができる。包囲すればいい。しかも退路には川だ。これほど王を捕まえるのにお膳立てされた状況になることはもう二度と無いであろう。

 ここが俺が天下を取れるか取れないかの分岐点だ、カトレウスはそう強く思った。

「はい、昨日と変わらずに中央のやや左辺りに立っております」

「それは何より」と、カトレウスは朗報にほほが緩んだ。

 此度は必ず王を戦場から逃がさぬ。必ずやここに王の立派な墓を立ててやろうと決意した。

「敵は昨日より柵と堀を作りだしました。それで我らの騎馬攻撃を防ごうと考えたのでありましょう」

「ふむ」

 その言葉にカトレウスは伸び上がると、手庇てびさしを作って遠くに布陣する王師を眺めた。

「左翼はかなり完成しているようだが、中央や敵右翼にはほとんど無い。間に合わなかったということか?」

「はい、中央や右翼は間に合わなかったようです。なにせこの原野では柵を作ろうにも、木もまばらです。使えると思った木はほとんど切り倒してしまった模様です」

「おかげで騎馬にとっての障害が取り除かれたというわけか」

 やはり風はカトレウスに吹いている。馬を動かすのに邪魔な木を敵が取り除いてくれたことだけではない、柵が全て構築されなかったこともある。

 前面全てに堀と柵が構築されたなら、カトレウスとて交戦を躊躇ためらったであろうが、そうではない。左翼だけであるなら作戦を変える必要すら感じなかった。なぜならカトレウスの頭にあるのは包囲殲滅作戦だ。極端な話をすれば、両翼の騎兵以外は動かなくてもいいのである。戦線さえ維持していればいいのだ。

 とはいえ柵や堀がある敵よりは、何も無い敵と戦うほうが騎兵にとっては遥かにいい。

 敵の陣形をじっくりと見ておきたかったのだが、柵と堀が完成する前に戦わねばならぬな、とカトレウスは思った。

 この時のカトレウスは前代未聞の大軍を率いることや、敵陣に王旗が翻っていること、急がねば柵と堀が完成するという時間的制約とで、いつもの慎重さはどこかに吹き飛んでいた。

 とはいえ完全にその慎重さが消え去ったわけではない。

「これ以上、敵に柵を作られる前に今すぐ速戦で決着をつけるべきなのでは?」

 という言葉にカトレウスは同意しなかった。

「まずは一息入れる。こちらは到着したばかりだ」

 兵は行軍で疲れている。最低でも息を整える時間は必要だ。

 それに好都合なことに、敵はカヒの兵を目にして慌てたのか、ほとんどの兵を自陣に戻して、戦列を再度組み直そうとしていた。作業中に襲われたらたまらないとでも考えたのであろう。現場に残って作業する兵はわずかだった。あれしきの数なら作業はそんなにははかどるまい。

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