第134話 訪ねる。

 その日、ヘシオネの姿はアリアボネの屋敷にあった。

 南部時代からの顔見知りとはいえ、アリアボネはヘシオネとはそれほど親しい間柄ではない。ヘシオネは諸侯の総領姫、アリアボネはしがない士大夫したいふ出身の娘と世界が違いすぎた。

 朝廷を動かしているのは、いわゆる士大夫と呼ばれる階層の人々になって久しいが、諸侯には先祖が過去に大功を立て、今も王と共にアメイジアを分かち合って統治しているという自負がある。地下の農民からしてみると、どちらも同じく雲の上の偉い人といった感覚があるが、実は極めて異質な存在なのである。

 アリアボネにとってアエティウスとアエネアスとは同じ月鏡先生門下ということで親しかっただけなのだ。

 それはもちろん南部の有力諸侯と将来有望な若手官吏ということで繋がりがあったほうが互いの為になるといったこともあったのであろうが、アエティウスやアエネアスが出自で人を差別しない人柄だからということもあった。

 だからそんなヘシオネが病気で出仕叶わぬアリアボネの見舞いにわざわざ訪れたのは不思議なことである。

「ヘシオネ殿、わざわざのお越し何事でしょうか? 朝廷で何か大事でもおきましたか?」

 ヘシオネは起き上がろうとして咳き込んだアリアボネに手を差し伸べ、慌ててその背を支えた。

「起きることはない。寝台にて寝たままで結構」

「しかし、それでは礼を失します」

「無理に押し掛けたのはこちらなのだ。気に病むことはない」

「すみませぬ」

 なおも咳き込むアリアボネを無理やり寝かしつけたヘシオネは、時候の形ばかりの長々しいあいさつはアリアボネの負担になるだけだろうといきなり本題に入った。

「もたぬのか?」

「はい」

「せめて来年の春までもたぬか?」

「無理でしょう。おそらく、もうまもなく」

「そうか・・・」

 ヘシオネは口籠って何事か考え込む。

「アエティウス殿に続いてアリアボネ殿まで失くして関東はこれからどうなる? 心細いな」

「そのことですが・・・ヘシオネ殿、私亡き後の陛下のことをお頼みいたします。私とアエティウス殿に代わって陛下をお支えください」

「私に頼んで大丈夫かな? 二人が無くなったのをいいことに、陛下を飾り物にして全権を握り、この国をわがものとする悪女かもしれない」

 アリアボネが真面目なことを話しているのに、ヘシオネはおどけてみせた。

「ヘシオネ殿はそのようなお方ではありません」

「どうかな? 私だって権力は欲しい。贅沢だってしてみたい。人の欲望は果てしないものさ」

「ヘシオネ殿がそのようなお方であれば、弟御をとうに始末なさっているはず。ヘシオネ殿は不道殿とは違います」

「・・・・・・生来の病弱で始末するまでもないと思っているのかもよ?」

「もし貴女がこの世の贅を尽くしたいと願い、ハルキティアという大家を手に入れようとするなら、弟御は邪魔です。弟御の周りにいる者もなにかとヘシオネ殿に反発しており、目障りでしょう。しかしヘシオネ殿は奔走して弟御に嫁をめとらせ、家督はあくまで弟御のままにしております。弟御が公として執務が取れるまで病状が回復なさらなくとも、ゆくゆくは弟御の子に継がせるように配慮なされているのでは?」

「・・・」

「弟御と同じように陛下に御配慮を賜りたく存じます。陛下が乱世をお鎮めになれば、病弱な当主を持って波風があるハルキティア家内も何かと収まりましょう。ヘシオネ殿の気苦労も減るはずです」

 アリアボネはヘシオネに深々と頭を下げた。

「だけど私はアリアボネ殿ほど頭がよくない。古狸どもを相手に宮廷を切り回せるかな?」

「そちらのほうは・・・別の考えがあります。ヘシオネ殿はとにかく陛下をお支えになっていただきたい。アエティウス殿のように陛下と南部諸侯との懸け橋になっていただき、戦場で陛下が迷われた時、助言を行い判断の手助けをしていただきたい」

「・・・別の考えとは?」

 ヘシオネの問いにアリアボネは笑っただけで答えなかった。

「それにしても陛下は不思議なお方だ。天下の奇才、アリアボネ殿をしてそこまで執心させるとは」

「執心ではございませぬ。陛下への心からの忠心です」

「陛下のどこを気に入られた?」

「陛下の凄いところは苦難の目に遭っても理想を忘れずに生きれること。そして何より人の言葉を真摯しんしにお聞きになること。苦難に耐えられる人でも権力を持てば人は変わる。権力を手にするまでは謙虚で聡明な人物だったのに、権力の座に就いたとたん豹変する人物は歴史上、枚挙にいとまがないほどではありませんか。だけど陛下は権力を持っても独尊にならず、真摯に臣下の言を聞こうとなさいます」

 王が全てを決めるのがこの世界の習わしと言えども、王と言えども万能の神人ではないのだ。他人の意見を聞き入れず、自分が万能で正しいと思い込んで他人の意見を退け、何もかも決めてしまっては必ず道を誤る。それが王の身に留まるだけならいいのだが、最終的にそのしわ寄せは下にいる者、臣民に来るのだ。

 それを避けているだけでも有斗は賢君であるとアリアボネは思う。

「ですからヘシオネ殿には間違っていると思えば、恐れずに陛下に自分の意見を言っていただきたいのです」

「それくらいならなんとかなるが・・・」

「よろしくお願いいたします」

「それにしてもアリアボネは本当に陛下のことが好きなんだねぇ」

「な、なにをおっしゃるのですか! 陛下が私のような労咳の身など・・・!」

 ヘシオネはいつにないアリアボネの狼狽ぶりにくすくすと小さく笑い声をあげた。

「臣下として、と言ったつもりなんだけど?」

 アリアボネの顔が赤くなったのは病のため、だけではあるまい。


 アエネアスは今でも毎朝、有斗に剣の稽古をつけるのが日課だ。

 アエネアスは傍若無人とはいえ家臣であるから、王である有斗よりも先に準備を

整え終えておかねばならない。

 そしてアエネアスは夜は王都内の自宅に帰るから、有斗が起きる前に王宮に入るには、その分だけ早起きしなければならない。といっても有斗と違って夜遅くまで公務をしなければならないことはないから、有斗よりよっぽど寝ているのだ。早寝早起きなのである。

 アエネアスはその日、起きるとまずは顔を洗い、湯漬けをさらさらと腹に流し込む。ちなみに剣術の稽古の後、アリスディアが用意した食事を有斗と一緒に頂くのがアエネアスに言わせると本当の朝ご飯で、これはあくまで軽い腹ごしらえなのだそうだ。だから自分は一日二食であると言い張っている。

 それはともかく、その日はいつもより半刻(約一時間)は早くにアエネアスは起きた。まだ薄暗がりの中、愛馬に鞍を付けて街路へと駆け出す。

 アエネアスは王宮ではなく、近くの門へと向かった。

 王都は古くからのしきたりで治安や防衛のため夜間は門を閉じ、人の出入りは完全に制限される。一番鶏が鳴き、日が昇るまでは門は固く閉じられたままだ。

 だが各地から急を告げる早馬までもが夜間は通行できないとなれば、それは本末転倒である。

 だから一部の門には緊急時に出入りができる通用門が備え付けられていた。

 本来ならば羽林中郎将どころか公卿大臣であっても通してはならぬ決まりではあったが、有斗が許可したことで特別に官符が発行され、それを所持したアエネアスだけは通行できるようになっている。

 アエネアスはそこをくぐり抜け城外へ出ると、王城を見下ろす場所にある小高い丘へ向かった。

 そこにアエティウスの墓がある。

 アエネアスは少なくとも週に二回は訪れて、墓の周囲を清掃し、花を供えることにしていた。

 アエティウスの墓のあるところは王都が一望できる風光明媚な場所で、風通しも良く、傍に生えた大きな老木が日差しを遮ってくれる文句のつけようのない墓所だったが、木の葉がよく舞い落ちて油断していると墓が埋もれてしまうという欠点があった。

 アエネアスはアエティウスの墓の周りの落ち葉を手早く箒で綺麗にすると、新しい花を供えて手を合わせた。

「兄様、今日も見守っていてくださいね」

 兄様の死は決して無駄にはしない。アエネアスは固く心に誓う。

 その為には有斗を戦国の世を終わらせる偉大な王にするのだ。

 そうすればその第一の功臣としてアエティウスの名は未来永劫語り継がれることとなるだろう。

 だけどここまで有斗を政治軍事両面で影で支えてきたのはアエティウスである。更には軍師として、あるいは官吏として実務を取り仕切っていたアリアボネの命の灯も間もなく消えようとしている。

 その二人無くして有斗にこれからそのような大事が可能だとはアエネアスにはとうてい思えなかった。

 かといってアエネアスにはとてもその二人の代わりは務まりそうにない。そして周囲を見回しても、その二人の穴を埋めれそうな人物はどこにもいない。

「私にもできることが何かあるのかな・・・」

 アエネアスには有斗の身辺を守るというアエティウスから命じられた重大な任務がある。だがそれは別にベルビオだってできる。アエネアスでなくても構わない。

 そうではなく、アエネアスが探しているのは自分にしかできない、他では代わりがきかない特別ななにかである。

 兄様のためにも、そして有斗のためにも自分でもできる特別な何かがあるのだろうか、アエネアスは自分にそう問いかけるが、答えはまるで浮かんでこない。

 アエネアスは朝ぼらけの風に吹かれながら、じっと立ち尽くして考えていた。

 そんなアエネアスの目に王都が浮かび上がる。地平線が一段と明るくなって太陽が顔を出そうとしているのだ。アエネアスはそれを見て目を見開いた。

 次の瞬間、アエネアスは赤く染まる地平線を見てにこりと微笑む。

 日が昇る、当たり前の日常、それだけだったが、刻々と明るくなる空のようにアエネアスの心の中にも同様に光が差し込むような、暖かくなるなにかを感じたのだ。

 政治や軍略などの難しいことはよくわからない。だけどあの太陽のように人に希望をもたらすことをしたい。アエネアスはそう思った。

 今はそれが何であるのかは当のアエネアスにも分からなかったけれども。

「きっとある。きっと見つけてみせる。わたしにだけできる何かを」

 朝焼けの光に赤い髪を更に紅に染めて、アエネアスはゆっくり坂を下っていく。

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