第二章 佐伯怜香   (七十四)

「理恵さん、それ?本当ですか・・」

驚いた孝一が理恵に聞き返した。

「ええ、本当のことよ」

「じゃ、ヤヤちゃんは自分がこうなるってこと・・、分かっていたんですか?こんな酷い目にあうって」

「それは私にも分からないわ。ただ、夢を見て・・、とても不安だったから、もしそんなことがあったら孝一さんに伝えて欲しいと頼まれていたの」

「ヤヤちゃんは僕の為に・・」


「ええ、でも勘違いしてはダメよ孝一さん。確かに目の前の出来事は、直美さんの姿は、悲しくて苦しいことよ。でもそれは誰のせいでも無いわ。ましてあなたの・・、孝一さんのせいじゃない。怜香さんから事情は聞いたわ。強いて言うなら、それは人の心に巣くっている他人を羨ましがり、嫉み、他人が一生懸命に作り上げたものを、幸せを、何の苦も無く努力もしないで手に入れようとする。自分勝手な考えを持った人の欲の深さがさせたことよ。あなたのせいでは無いわ」

理恵はひと言ひと言、孝一に言い聞かせるように言った。


「でも、ヤヤちゃんがこんな目にあう必要はないでしょ?朱鳥を守るのは僕です。父親である僕なんです。だから本当は僕がここに、このベッドの上にいないといけなんです」

孝一は、包帯に巻かれて蝋人形のように血の気の無い姿でベッドに横たわらなければいけないのは、直美ではなく自分だと言いたいのだ。

だが、現実は違う。

自分ではない。

目の前のベッドの上には直美が横たわっている。

それが余計に父親として、男として、何一つ守れていないでは無いかという自分のふがいなさを責めているのだ。

理恵にはその気持ちが痛いほど分かる。

夫が病に倒れた時。

そして、あっという間にこの世を去った時。

それから、その事実を消化し切れていない間に、子ども達に知らない苦労をさせていたと気づいた時。


どれ程苦しく、自分は妻として、母として、何をしていたのかと責め続けた。

日々、罪悪感の塊のような心をもてあまし・・。闇の中で、もう一歩も歩けなくて蹲り・・、疲れ果てていた。

だから目の前にいる孝一の悲痛な心の叫び声を聞くことが出来る。


―今の私なら・・。―


「それも違うわ」

理恵の声は滑るように出ていた。

「どこが、どう違うんですか?理恵さん。」

が、孝一の声には誰に向けていいか分からない怒りがにじむ。

「勿論、自分のことを捨てて、誰もが直美さんのように行動出来るかといえば、きっと出来ないでしょうね」

理恵の声は静かだ。

「だから、僕がいけないんです。僕が、一楽の跡取りとしても、父親としても情けないから・・。ヤヤちゃんがこんなことになるんです」

孝一は泣きながら鼻水をすすった。気のいい孝一が、これほどしつこく理恵に食い下がるのは理恵にとっては初めてのことだ。


だが、それほど孝一は後悔しているのだと分かる。

なぜ自分が身代わりにならなかったのかと・・。きっと何度も、何度も、自分に問いかけ、自分を責め、後悔しているのだと言うことが理恵には理解出来た。


―私も・・、そうだったからー

理恵は静かに首を左右に振ると、孝一に向かって優しく、だがはっきりとした口調で言いきった。


「必要以上に自分を責めてはいけないわ。それに、あなたは何も悪くない」

理恵の言葉に孝一はただ唇を噛んだ。理恵は、あの時一番言って欲しかったことを、今孝一に向けて言ったのだ。

そう、理恵は目の前の孝一と、あの頃の自分に言ったのだ。


あなたは何も悪くない。

そのとき、そのとき出来ることのすべてを、あなたはやってのけた。

だから、誰に恥じることもない。

過去の自分を信じなさい、そして今の自分に自信を持ちなさいと言ったのだ。

これから何が起ころうとも、胸を張って、顔をあげて生きて行くために・・。


「あなたは何も悪くない」

理恵はもう一度、孝一の目を見て言った。



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