第二章 佐伯怜香 (七十三)
直美は目の前に横たわる自分の身体と、意思はあるが透けて見える自分を暫く見比べた。
怖いという感覚は無かった。
痛くて苦しいという苦痛も無かった。
ただ、そんな自分が不思議だった。
―それに、何処も痛くないし怪我もしていない。なんだか身体も軽く感じる。気分もスゴくいい。なんだろう、この感覚・・、自由だなぁって感じがする。ー
―今なら、なんでも出来そうな気がする・・。ヘンなの?―
そんなことを考えながら直美は、自分の透けた手を上にしたり下にしたりして見ていた。
するとドアが静かにガァーと開いて、白衣を着た背の低い・・、メガネをかけた若い医者が入ってきた。
孝一と大女将の顔に緊張が走る。
二人とも無言で若い医者の動きを食い入るようにして目で追う。
彼は、悲痛な面持ちで「今晩一晩もつか・・」と呟いた。直美は慌てて壁に掛かった時計を見た。時計の針は午後十一時を少し回って、もうすぐ五分を指そうとしていた・・。
―もう夜なんだ・・、あれから随分時間がたったんだ・・。―
だが、カーテンが引かれた部屋の中は白いシーツに反射する蛍光灯の光で、直美の目には妙に明るくヘンに白っぽく見えた。
そして、若い医師の感情を押し殺したその言葉に、大女将の横で下唇を噛んだ孝一が、彼をジッと見つめたまま声を上げずにボロボロと大粒の涙を流して泣いていた。
若い医者が、自分を見つめる孝一の瞳を避けるように黙って部屋を音も立てずに静かに出て行く。
その後を追って部屋を出た大女将の美也が、「先生、たった一人の弟さんが、今、田舎から遠い道のりをこちらに向かっているんです。せめて、せめて・・、それまでは・・先生。弟さんには温かいままで会わせてやりたいんです」と悲鳴に近い声を出しているのが遠のきながら聞こえてきた。
―私・・、死ぬんだ。…やっぱり、死ぬんだ…―
―孝ちゃん、ごめんね・・―
自分はもう助からないんだ・・、何処も痛くはないけど・・、と直美は思った。それに死ぬことに対して不思議なことだけど悲しいとか、苦しいとかは感じなかった。思わなかった。
ただ・・。
―朱鳥ちゃん、朱鳥ちゃんはどうなったんだろう?―
そう思うと直美は急に不安になってきた。自分のことより小さな朱鳥の方が心配になったのだ。
―朱鳥ちゃんは無事なの?孝ちゃん?―
そう聞いたところで孝一に直美の声は聞こえていない。
さっきまでの自由で心地よい気持ちとは違い、今度は急に恐怖が直美の胸に押し寄せる。
―どうしょう、もし朱鳥ちゃんに何かあったら―
直美は不安で泣きそうになった。・・が、涙が出てこない。
―私、泣けなくなったの?―
死ぬということはそういうことなのかと直美の心がざわつきだした。と、コンコンとドアを軽く叩く音がして、ガァーと遠慮がちに開いた先に緊張した理恵の顔が見えた。
小さな朱鳥を抱いて、意地でも病院から帰らないという怜香を説得するために、孝一が理恵を呼んだのだ。そしてほんの数分前に、理恵に説得された怜香は眠る朱鳥を連れて一旦一楽に帰っていた。
―理恵さん!―
直美は、聞こえぬ声ですがるように理恵の名前を呼んだ。
「孝一さん、入ってもいいですか?」
孝一は黙って頷く、涙を拭く気も無いようだ。
理恵はその姿に眉を寄せ、何か言いたげに唇を噛みしめながら中に入り、後ろ手にドアを閉めた。
そして、ベッドに横たわる直美に近づき・・。そっと、その手を取り優しく撫でた。
「直美さん、あなたが守った朱鳥ちゃんは無事よ」
理恵のその声と共に、「ごめんよ!ヤヤちゃん、僕がしっかりしていないばかりに、ごめんよ!僕は、僕は・・、自分の子どもも守れなかったんだー」と今まで喉の奥に溜めていた想いを、孝一は言葉に出して声を上げて大泣きしだした。
―孝ちゃんのせいじゃないよ、理恵さん、お願い・・伝えて下さい。私の代わりに―
直美は両手を握りしめて、祈る気持ちを想いに託し理恵を見た。
〝伝えて欲しい。伝えて欲しい。私が、お願いしたことをここではっきりと伝えて欲しい〟と…。
「孝一さん」
理恵はそっと直美の手を戻し、代わりに大泣きする孝一の肩に手を置いた。
―空豆が・・、泣いている・・―
理恵の声は静かに孝一に語りかける。
ひと言、ひと言、ゆっくりと語りかける。
そのたびに孝一の声が泣き詰まり…、歯を食いしばりだしていた。そして孝一の顔は泣き笑いの悲しくて、苦しくて…。
直美の目には切なく歪んで見えていた。
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