第77話 決断

「おい。ここでばてたらどうなるか、わかってるんだろうな」

 葦原の言葉に、霧香が慄いた。

「大丈夫です。だ、だから、おいていかないで下さい……」

 いまの霧香はあまりにもか弱い存在だった。

 もともと彼女は葦原を嫌っていたが、いまはそれどころではないのだ。

 一歩、間違えれば女性として最悪の運命が待ち受けており、最期には殺され、ことと次第によっては死体まで解体されて人々に食われてしまう。

 こんな常軌を逸した状況では、人はくだらない誇りや矜持など保てなくなる。

 いや、自分たちはもうとっくに「人ではない」のだ、と等は暗鬱な気分になった。

「でも、結構、歩いたはずだぞ。平、あとどれくらいだ」

「たぶん、距離にして三キロくらいだと思います」

 そう答えた等の息もあがりはじめている。

「三キロか。いつもならどうってことはない距離なんだがな」

 一歩歩くたびに足がひどく重くなっていく。

 まるで重石でもつけられていくかのように。

 すでに太腿やふくらはぎのあたりが痛くなり始めていた。

 慢性的な熱量の不足のせいで、もともと現代日本人の体力は低い。

 そろそろ限界が近づいてるのかもしれないと思うと、三キロが三百キロのようにも感じられた。

 時間にすれば、おそらく一時間ほどでたどり着くはずなのに。

 そのとき、後ろの人々がにわかにどよめきがあがった。

 相手は距離をおいているのでなにを言っているのかはわからないが、明らかに彼らにとっては喜ばしい事態が起きたようだ。

「まずいですよ」

「わかってる。ひょっとすると……そろそろ、挟み撃ちの準備が整ったのかもな」

 ぞっとした。

「どうするんですか?」

「決まってるだろう。突破する。しなきゃ俺たちは嬲り者だ」

 葦原の意見は単純明快だったが、その通りなのでうなずくことしかできない。

 すっと葦原がこちらに近づいてくると、耳元でささやいた。

「もし霧香が駄目だったら、あいつは置いていく」

「そんな……」

 すでに霧香は朦朧としているのか、等たちが二人だけで話していることすら気づいていないようだ。

「ありゃ、長くない。いずれ俺たちについてこられなくなる」

 さきほどまで霧香の体調を気遣っていたのはなんだったのだ。

「可哀想だが仕方がねえ。そう割り切るしかない。よく考えろ。女一人が残って男が二人、逃げる。俺たちを追っているのはほとんどか男だ。だとしたら、みんな俺たちと霧香、どっちを選ぶかな」

 卑劣だ、とは思わなかった。

 そんなことを言っていられるような呑気な段階はとうに終わっている。

 とにかく自己の生存を最優先するしかないのである。

「それに考えてもみろ。霧香だって、食欲に負けて人の肉を食った……つまりは、もう人間をやめているんだ。お前はまだ良心があるのか吐いたが、あいつは平然としていた。同情することもない」

 それもそうだと思ったが、ふいに愕然とした。

 ひょっとしたら、葦原は最初からそれを狙っていたのではないだろうか。

 人の肉を誘惑として差し出し、食わせた。

 それはいざというとき「あいつはもう人間じゃない」と思わせるための策だとしたら。

 伊達にこの男は、長生きをしてきたわけではないのだと改めて戦慄した。

 しかもいままでは日本解放戦線の人間として社会の裏側で暮らしてきたのだ。

 文字通り、ありとあらゆる反人権的行為に手を染めたことがあるのかもしれない。

 そんな男からすれば世間知らずの高級学校の生徒を操るなど、赤子の手をひねるようなものだろう。

 葦原の言うことは正しい、と等は冷静に判断を下した。

 ここで霧香を守ろうとしても、たぶん犬死にするだけだ。

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