第70話 人間をやめる儀式

 旨い。

 味蕾が歓喜に爆発する。

 熱い肉の旨味が口の中で狂喜乱舞している。

 いままでの生涯で人工肉は数度、ほんのわずかに口にしたことはあるが、天然ものは初めてだ。

 しばらくの間、その肉が「もとはなんだったのか」を忘れて、ひたすらに等は咀嚼を続けた。

 弾力はあったが、やわらかい肉だ。

 動物性蛋白質には人間の生存に重要な意味を持つ必須アミノ酸が多数、含まれている。

 美味に感じられて当然なのである。

 二切れ、葦原からわけてもらった肉はあっという間になくなった。

 結局、霧香も陥落した。

 彼女も香ばしい肉の誘惑には勝てなかったのだ。

 その正体は頭では理解できていても、実感を伴わないのである。

 あくまでも等も霧香も「すでに小さく切られた肉片」という姿でしか、その肉を見ていない。

 かつての日本人が牛肉や豚肉を見ても、元の動物が殺され、解体されるところなど想象もしないように、等も霧香の意識からも「その肉ができるまでの過程」がすっぽりと抜け落ちている。

 ましてや二人とも、肉食には不慣れなのだ。

 霧香の場合、甲種市民なので等よりははるかに豊かな食生活を送っていたが、それでも肉が貴重な品であることにはかわりがない。

 もっと食べたいとも思ったが、葦原は残る肉をすべて平らげてしまった。

「なんだ……もっと、欲しいのか?」

 等はうなずいた。

「そんなに欲しければ、自分で取ってくればどうだ? まだ、ガキの死体から、その気になればかなりの肉、とれるぞ」

 葦原が笑った。

 ガキの死体、といま彼は言った。

 この肉は、人の、それもまだ幼い女の子の肉なのである。

 一瞬、胃の奥が奇妙な蠕動をしたように感じられた。

「血抜きする暇はないからな。とりあえず皮を剥いで、太腿や二の腕を切り取った。ああ、あとは頬肉な。頬の肉って、どんな動物でもだいたいうまいんだよ。ほら、飯食うのには必ず顎使うだろ。だから……」

 頬肉を削がれ、歯茎をむきだしにした少女の無残な死に顔が脳裏をよぎった。

 恨みがましい目で、女の子がこちらを見ているような錯覚にとらわれる。

 肉を食った。

 うまかったが、それは本来、食べてはならぬものではないのか。

 魍魎は人の肉を食うという。

「はは……ははははは……」

 突然、吐き気がやってきた。

 自分がなにをしたのか、ようやくほんとうの意味で等は理解してしまったのである。

「うぷ……おろ……おろろろっ」

 口から吐瀉物が一気に溢れた。

 さきほど食べたジャガイモ麺麭までもが吐き出されていく。

「うわ、きったねえなあ、おい」

 葦原が罵声を浴びせた。

「せっかくの貴重な食料、粗末にしやがって。死んだ者の肉はせめておいしくいただいてやるのが、作法ってものだろうがよ」

「なにが……」

 胃の奥から苦いものがこみ上げてくる。

 目から、涙が勝手に溢れだした。

 嘔吐のための生理的なものなのか、また別の理由があるのか自分でもよくわからない。

「なにが、作法だ……あんた、なにも悪いことをしていない人間を何人も殺して……」

「ああ、だからどうした?」

 葦原は平然と言った。

「俺たちゃ、もう魍魎なんだよ。人間じゃあないんだ。だいたい、お前が俺に偉そうに言えた義理かよ。肉を下さいなんでもしますって頭さげて、うまそうに肉を頬張っていたお前が、いまさらどの面さげて、そんな偽善者ぶった口をきく」

 一言も言い返せない。

 なぜなら、葦原の言っていることはすべてが事実だからだ。

 もう、等も人間ではなく、魍魎となってしまったのだ。

「ま、ぶっちゃけると、俺はお前らにわざと肉が食いたくなるようにそそのかしたんだけどな」

「そんな……」

 すでに人肉を口にした霧香の顔に冷や汗が浮かんでいた。

「なんで、そんなことを……」

「お前らがあまりにもぬるいからだよ。これは一種の通過儀礼のようなもんだ。そしてお前たちは、もう言い訳はできない。さっきのは『人間をやめる儀式』みたいなもんだ」

「儀式……」

 ぽつりと等はつぶやいた。

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