第58話 醜態
これからなにが起きるか想象はついている。
恐怖のあまり、心臓が恐ろしい勢いで鼓動していた。
このところずっと落ち着いていられたのは、心の防御作用が働いていたためだろう。
現実を受け入れたふりをしながら、どこかで逃げ場をつくっていた。
だが、もういよいよ先がないと気づいた瞬間、心のなかの防壁がついに破壊されたのだ。
「た、平さん……」
霧香の顔も、恐れのためかひきつっていた。
「私たち……私たち、あの女に売られたんです! 神城光は、絶対人権委員会のスパイだったんですよっ」
悲痛な声をかつて甲種だった少女は放った。
「みんなあいつに騙されていたんです! こんなの……こんなのひどい……」
目から涙がぼろぼろと溢れていく。
違うのだ、と事情を説明してもおそらくは無駄だろう。
いま、完全に霧香は取り乱している。
こうしたときは、どうやって声をかけても人は簡単にはおさまらないものだ。
到底、まだ心が落ち着いたとはいえない状態だが多少の冷静さを等は取り戻した。
自分より恐慌に陥っている相手を見ると、人はかえって客観的になれる生き物なのだ。
葦原はといえば、皮肉げな笑みを口元にはりつかせていた。
顔の筋肉がひきつっているようにも思える。
ひょっとしたら暴れたため、大量の薬物を投与されたのかもしれない。
「はは……笑えるよなあ……俺も下手打ったもんだ……あの小娘、どこかおかしいとはうすうす、気づいてはいたが、まさか絶対人権委員会の手先だとは……」
若干、ろれつがまわっていないのはやはり薬物の影響だろう。
「違う……光は別に俺たちを売ったつもりなんてないんだ……彼女も一種の犠牲者で、本人も知らないうちに……」
「なに言ってるんですか!」
霧香の目が血走っているのが眼鏡越しでもはっきりとわかった。
「あの女、本当は嫌いでした! あんな破廉恥な格好して、男、誘惑するみたいで……きっと、そうやっていろんな男を自分の体で釣ってるんです! そして誘惑して最後には絶対人権委員会に売るなんて最悪!」
もともと霧香には潔癖なところがある。
だが、これほどまでに光を嫌っているとは思わなかった。
おまけに発言もかなり過激だ。
「やっぱり、甲種のお嬢ちゃんはどうしようもねえな……へへへ……」
葦原がまた笑った。
その笑みは、この世のすべてを嘲笑し、そして絶望しているように見える。
「所詮、世の中ってのはこういうもんなんだろうよ……俺みたいな愛国者は昔から差別されていた……それで、C国人のクソどもに国を乗っ取られていまじゃこの始末だ……」
あいかわらず、葦原の怒りの矛先は絶対人権委員会というよりは、C国人に向けられている。
「やれやれ、私たちもずいぶんと嫌われたようで」
いきなり扉が開けられると、何人もの男たちが部屋に入ってきた。
鈴木をはじめとする白衣の職員の他、数名の警備員、そして見知ったC国人もいる。
「どうも、関東管区絶対人権委員会の周銀平と申します。平くん以外のお二人は、これが初対面ですな」
絶対人権委員と聞いて、霧香と葦原の顔色が変わった。
霧香の顔は蒼白となり、一方の葦原は真っ赤になっている。
あまりにも対照的だ。
「わ、私は……その、本当の人権というものを考えていただけなんですっ」
霧香が悲鳴じみた声をあげた。
「た、確かにいまの絶対人権委員会の見方とは少し解釈が違いますが、私も人権を尊重する立場の人間であることにはかわりがありません。私は甲種の人間として、人権はなによりも大事と教わってきました。だから……」
「だから?」
周があのにこやかな笑みを浮かべた。
「だから、特別になんとかしてくれ、とでもいうんですか、お嬢さん」
霧香の顔がこわばった。
「それはさすがに、お仲間たちに失礼じゃないですかね。自分一人、助かりたいってことでしょう?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます