第57話 精神崩壊

 さまざまな感情が心の奥底で複雑に交じり合っているのだが、表面には出てこない。

 絶望。恐怖。諦観。怒り。

 そういったものがどろどろと渦巻いているのに、ひどく分厚い強化硝子の板のようなものが心の途中に張られているため、表向きは平然としている。

 鈴木にうながされるようにして保護室から出た。

 当然のことながら、鈴木の他にも人間が何人もいる。

 彼らは鈴木と同様、白衣をまとっていたが、それでも屈強な体格と威圧するような雰囲気が通常の職員とは異なっていた。

 おそらく人権保護官か、警備員のようなものだろう。

 さらには何体もの小型自律機が壁面や壁にはりつき、小さな機械の目で油断なくこちらを見つめている。

 ここで騒ぎを起こしても一瞬で鎮圧されるはずだ。

 もちろん、そんなつもりは等にはなかったのだが、いきなり膝の力が抜けた。

「あれ?」

 間が抜けた声とともに、床に転んだ。

 たちまちのうちに警備員に取り囲まれる。

「すみません。なんか、うまく力が入らなくて……」

 その瞬間、心の奥底に亀裂が入ったような気がした。

 膝が笑っている、というのはこういう状態のことを言うのだろう。

 立ち上がろうとしても、今度は腰からも力が抜けていく。

「おかしいな……」

 警備員に手を掴まれ、強引に立ち上げられた。

 自分の手が激しく震えていることに、ようやく等は気づいた。

「大丈夫です。俺、冷静ですから、大丈夫です……」

 嘘だ。

 心の奥底で流動するものを封じていた強化硝子の板にひびが入るのがわかった。

 いやだ。魍魎になどなりたくない。俺は人間だ。人権があるんだ。だから、守られるべきなのだ。

「いやだ……」

 突然、分厚い心のなかの強化硝子が、あっけなくばらばらに粉砕され、そこから凄まじい圧力でさまざまな感情が噴き出してきた。

「いやだああああ! ふざけるな! なにが魍魎だ! おかしいのはこの国だ! 反人権的ってなんだよ! この国がそもそも人権なんて無視してるじゃないか!」

 必死になって逃げ場を探したが、警備員の一人にいきなり肩を掴まれた。

 凄まじい力で、まるで万力にでも挟まれたかのようだ。

「離せよ! くそっ! 俺は人間だ! 人権があるんだ! お前らみたいな、絶対人権委員会の犬どもになにがわかる!」

 そのとき、鈴木の顔がちらりと見えた。

 両目が涙でわずかに潤んでいるのを目にして、なぜかひどく哀しい気分になった。

 いきなり、頭蓋が揺さぶられた。

「乱暴はやめなさい!」

 鈴木の悲鳴みたいな声が遠くから聞こえてくる。

「この程度なら大丈夫です。我々は訓練をうけています」

 警備員の声はひどく冷静だった。

 こいつこそ、実は有機自律機じゃないのかと思ったほどだ。

 いきなり、首筋に鋭い痛みが走った。

 針のようなものを撃ち込まれたらしい。

 おそらく、警備用自律機が発射したものだろう。

 急激に意識が混濁していく。

 我に返ると、等は斜めに傾けられた寝椅子に固定されていた。

 手足はしっかりと拘束されている。

 同じような姿勢をさせられているものが、室内にいた。

 霧香と、葦原に間違いなかった。

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