第55話 啓発施設
いつのまにか現実が等のまわりから消失した。
すべては夢か幻のようだ。
とはいえ、理性ではなにが起きているのかを冷静に把握している。
ただ、そこに現実味があまりにも感じられいというだけのことだ。
今にしてみれば、丙種地区の光の家で起きたさまざまな出来事も、やはり夢のなかの出来事だったとしか思えない。
甘美な夢と悪夢とが、まぜこぜになっているが。
啓発施設での環境は、想象していたほどに悪いものではなかった。
丙種地区の人々の実態をある程度、知っているので、この程度なら特に問題はない。
乙種の平均的な生活環境と、さして違いはないのだ。
出される食事もジャガイモ麺麭にオキアミ調味料というおなじみのものだ。
ときおり人工肉が汁に入っているのだから、一般的な乙種よりは多少、贅沢といえるかもしれない。
何度も心理検査をうけた。
どうやら、なぜこのような「反人権的」な人間が生まれたのか絶対人権委員会は興味があるらしい。
遺伝子から生育歴まで徹底的に調べられたが、退屈なだけで特に苦痛はなかった。
ただ、携帯電脳への接触を禁じられているのが、一番、辛い。
いままでどれだけ自分が電脳に頼っていたのか、思い知らされた。
かつては好きなときに情報を検索したり、娯楽を楽しむことができたのだ。
また音声や動画などで他者と意思疎通を行うことも当たり前だった。
当たり前の物事というのは、それが奪われて初めて、重要さに気づくものらしい。
検査や面談が終わると、いつものように孤独に保護室に戻る。
部屋は自傷行為が不可能なように、白い柔らかな素材で壁や床が覆われていた。
強化合成樹脂でつくられた便所は、とてもではないが人力で破壊できるものではない。
外界との接触も一切、遮断されている。
自分が生きているのか死んでいるのかも、いつしかよくわからなくなった。
幽霊、という言葉を思い出す。
かつての人間は、死者の想いが地上に残りさまよったりすることを恐れていたらしい。
そんな創作物を、光の家で読んだり見たりしたが、馬鹿馬鹿しいとしか思わなかった。
しかしこの頼りない状況は、その幽霊とかいう代物に自分がなったような錯覚に陥らせる。
「いや、まだ生きているよな、俺」
自然と独り言が多くなった。
「うん……たぶんこれは夢じゃなくて、現実なんだ。そして光は……」
本人も知らないうちに「スパイ」の役割をさせられていた。
光のことはなるべく考えないようにしていたのだが、油断するとその姿が脳裏をよぎる。
唇の熱い感触や、皮肉げな笑顔、そしてあの生き物とは思えないような恐ろしげな瞳。
彼女は自律機のようなものだという。
それでもときおりみせるあの目をのぞいては、やはりただの人間の少女としか思えなかった。
電脳狩人で、絶対人権委員会を憎む、美しい少女だ。
霧香や葦原のことを思い出すこともあった。
おそらく霧香も「保護」されているだろう。
葦原はひょっとしたら地下に潜伏して逃げおおせているかもしれないが、もともと甲種の霧香にはそんなことは不可能だろう。
ときおり金井の恨みがましい声が聞こえるような気がするときもある。
視界の隅に、恐怖と憎悪に歪んだ顔がちらりと見えることもある。
検査を行っている医師に尋ねたところ、あっさり答えが返ってきた。
それはただの幻覚だと。
罪悪感が生み出した幻なのだという。
ひょっとすると、昔の人たちはこれを幽霊だと思い込んでいたのかもしれない。
高橋がどうなったかは、いまだにわからない。
両親のことを思うと、ひどい息子ですまなかった、と申し訳なくなってくる。
二人ともきっと心配しているだろう。
ただ一つだけ確かなのは、もう父や母に逢うことはないだろう、ということだ。
おそらく自分は周が言っていた通り、人権を剥奪されて「魍魎」となるのだろう。
そこから先のこと考えないことにした。
より正確にいえば「考えられなくなる」のだ。
まるで精神が防壁をつくっているかのように。
たぶん、魍魎になったときのことを想象したら、心が耐えられなくなるとわかっているのだろう。
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