第25話 スパイ

 空気が重い。

 蒸し暑い部屋のなかだというのに、冷たいものが体中を駆け巡っている。

 やはり甘かった、としか言いようがなかった。

 絶対人権委員会を敵にまわすというのがどんなに恐ろしいことなのか、その本質を理解していなかったのだ。

「いまのところは大丈夫だけど、私だってそのうち、ヘマやって捕まるかもしれないから。まあ、そのときの対策はしてあるけど」

「対策?」

 光はうなずいた。

「歯の奥に、毒、仕込んであるの。拷問もいやだし、魍魎にさせられるのはもっといや」

 まさに命がけだ。

 だが、魍魎堕ちすることを考えれば、毒で自殺したほうが確かにはるかにましだろう。

「だから……平くんも簡単には考えないほうがいいよ。いまならまだ引き返せるから。ここまでいろいろと巻き込んでおいてアレだけど、ここで見聞きしたことはすべて夢のなかの出来事だと思って忘れるのも一つの手だし」

「夢って……」

 ふと、いままで気にかかっていたことを質問した。

「でも、俺がもとの生活に戻っても、神城さんのこと、絶対人権委員会に報告するとは思わなかったの?」

「そこまで平くんが馬鹿だとは思っていないから」

 光が苦笑した。

「そんなことをしたら、平くんだって酷い目にあうもの。絶対人権委員会からいわせると『重度の思考感染をうけている』わけだから、ただじゃすまない。魍魎堕ちはなくとも、相当にきつい『再教育』をうけさせられるでしょうね。多少の拷問も」

 その通りだろう。

 だからこそ、光のことは秘密にしていたのだ。

「何度でもいうけど、いまからでも戻れるのよ。個人的には……その、仲間になってくれれば心強いとは思うけど」

「仲間? そういう組織みたいなものがあるの?」

 以前から、噂はささやかれていた。

 反人権主義者たちの地下組織らしいものが存在する、と。

「今は、これ以上は話せない」

 光が真剣な表情で言った。

「もし平くんが本気で絶対人権委員会と戦う、というのなら話は別だけど」

 再び恐怖が蘇った。

 魍魎堕ちさせられれば、自分も酷い目にあうのは確実だ。

「強制はできない。そんなことをすればいずれ裏切ってスパイになるかもしれないし」

「すぱい?」

 耳慣れぬ単語だった。

「えっと、なんていったらいいのか……いまの日本語から似たような言葉はみんな削除されているから。そうね、敵の懐にとびこんで仲間のふりをしながら、情報を外に流す人、といえばわかる?」

「そんな卑怯で反人権的なことはしないよ」

 そこまで言ってから、まだ自分が「反人権的」という言葉の呪縛にとらわれていることに気づいた。

 絶対人権委員会が言語を操作することにより、思考まで歪められてしまっているという実感がわきおこってくる。

「くそっ……やっぱり俺、まだ洗脳されたままってことか」

「それくらいのほうが安全だから」

 光が笑った。

「私なんて、学校でうっかり口もきけないもの。下手に話すとボロがでそうで」

 気持はよく分かる。

 最近は等も、自分が話すときは結構、慎重になってきていた。

 うっかり「反人権的」な発言をしないように注意しているのだ。

「ところで、お腹すかない?」

 時刻は午後四時をまわったあたりだが、もちろん空腹だった。

 そもそも乙種はいつも腹が減っているのが当たり前、という状態である。

 だが空腹を訴えることもやはり反人権的なので、表立って口にすることはあまりない。

 それでもたいていのものは自然と愚痴をこぼしていたが、絶対人権委員会もそこまで細かいところまでは見ていないようだ。

「昔は、おやつといって、午後にお腹がへると甘いものを食べる習慣があったの」

 甘いものと聞いただけで唾液が口にあふれてきた。

 甘味に、いまの日本人は飢えている。

 そもそも甘いものはおそろしく高価だ。

 昔、一度だけ黒色甘味板を一欠片、食べたことがあるがこの世にあんな美味しいものがあるとは信じられなかった。

「どう? 甘いもの、食べたい?」

「そりゃあもちろん」

 いつのまにか等は目をぎらつかせていた。

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