飯を食う大正編②
「先輩はこんなところで何をしているんですか? 読書ですか? お昼寝ですか?」
あろうことか昼寝という単語を出した夏江に、萩原はくすくすと笑ったのだ。そんなことをするのは、夏江ぐらいなものである。
「ふふふ。ちょっと、お昼ご飯を頂こうと思って」
「え? 萩原先輩って、仕出し弁当なんですか? うわー、凄いですねー。良いなー」
八葉女学校では実家通いの生徒なら昼食、寮生活の生徒なら朝昼晩の三食に、〝仕出し弁当〟が許可されている。文字通り、弁当屋に注文して配達して貰える制度だ。ただし、基本的に女学生相手に仕出し弁当を作る店などほぼ皆無で、例外無しに良家の御金持ち用である。萩原の弁当は、金箔の立派な鶴模様を描いた漆塗りの重箱だった。それも、問答無用の三段重ねである。外見だけでも、圧倒される豪華さだ。そして、先輩が蓋を開けた時、夏江はとうとう感嘆の溜め息を吐いてしまう。
身欠き鰊の昆布巻き、紅白蒲鉾、里芋と人参の煮物、青菜のお浸し、蕪の一夜漬け、牛蒡の煮しめ、チキンカツレツ、糸蒟蒻と蓮根の炒め物、海老の塩焼き、鯛の照り焼き。ご飯は黒胡麻が散らされ、真ん中に梅干しが乗っている。正しく豪華絢爛。正月だって、これだけの料理を食べたことがない。流石は御嬢様である。ちなみに、夏江の昼飯はうどんだった。あれも美味いが、胃が空腹を訴えていた。すると、なにが面白かったのか、萩原がくすくすと微笑んだ。
「良かったら、夏江さんが召し上がってくれないかしら?」
「えええ? け、けど、萩原先輩はここにお昼を食べにきたんですよね? ご飯抜きだとお腹減っちゃいますよ。私が邪魔なら、すぐにどっか行くんで。ごめんなさい。こんなじろじろ見ちゃ、失礼でしたよね」
慌ててベンチから尻を上げようとする夏江を、萩原が手で制した。そのお落ち着いた
物腰は、釈迦の手の平のごとし。差し詰め、こっちは粗暴な猿の妖怪か。
「実は、元々気分がすぐれなくて。外でなら食欲も沸くと思ったのだけど、やっぱり、よろしくないみたい。手付かずで返すのは作ってくれた人に申し訳ないし、人助けだと思ってどうかしら? 勿論、無理にとは言わないわ。……夏江さんも食べたばかりでしょう?」
僥倖か、幸運か、天運か。萩原から端を差し出される。朱塗りの綺麗な箸だった。これからの人生で食べられるかどうかも分からない御馳走が目の前にある。そして、夏江は食欲旺盛だ。とてもではないが、我慢し切れるものではない。とうとう、箸を受け取った。すると、重箱を膝の上に置かれてしまう。視線の先に御馳走。ああ、もう駄目だ。
過去、冬子から「基督教が定めた七つの大罪の一つに暴食があるの。けど、夏江ちゃんは切支丹じゃないから、この豆大福を全部食べてもいいのよ」という会話をした覚えがある。うん。この調子なら、一生、イエスなんたらのオジサンには会えないだろう。
「い、いただきます!」
言うやいなや、夏江はご飯を頬張る。そして、喜色満面な顔付きでおかずへと箸を伸ばしていくのだ。その勢いは大工の男衆にも負けていない。とてもではないが、女学生の食事には見えない。それでも、彼女が勢いよく食べると、どことなく合っているのだ。料理人とっては、小気味良い食べっぷりだろう。そんな様子を萩原が、まるで家で飼っている子犬の姿を眺めるような目付きで観察するのだった。
「ふふふ。夏江さんは食べるのが好きなのね」
「はい! いっぱい食べると元気が出ます。だから、食べるのが大好きです!」
真っ直ぐで、元気で、だからこそ、嘘偽りのない言葉だった。この短時間で弁当の中身はどんどん減っていた。この調子なら、綺麗に平らげてしまうだろう。
そうして、暫くは夏江が弁当を食べ進める音だけが二人の間に落ちては消える。どこかで、雀が鳴いていた。遅れて鴉が飛ぶ。どこかで、熟れた柿を盗む算段でも立てているのかもしれない。
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