鹿王の復活 freezing

 ひび割れた乾ききった笑い声が天上より降り注ぐ。

 薄気味悪いそれは、その場にいる刻三やリアナに悪寒を与える。


 そんなことお構いなしに、遠方より波打って近寄る大地の揺れ。恐竜のそれに倣ううめき声。

 それは明らかに人間ではなく、怪物のそれだ。

「ごおおおおおおおおお」

 耳を劈く、おぞましい咆哮。

 刻三は声のした方角に目をやる。

「——っえ」

 自分でも驚くほど掠れた声だった。刻三は一瞬だれの声か分からないほどであった。


 遥か遠くに覗く人間としてはあまりに大きすぎる、天をも穿つ巨大な影が辺りに蔓延している霧の奥に揺らいでいる。

「ははは」

 インテグラは笑いを抑えられないようで、殺しきれてない声が漏れて出てきている。

「あれは——鹿王!!」

 リアナは霧の中から覗く、二つの鋭い眼光を視界に捉え喘ぐ。

「アイス グラセ イエロ。3の術、凍結通路グラスロード

 歪んだ表情で含み笑いで放つインテグラ。

 刹那、辺りの空気がパキパキと冷凍室の中で響く音が耳に入る。それと時を同じくして、流れる霧が止まった。空気が凍り付ていっているのだ。

 謎の異常事態に刻三は、半開きの口に丸めた目で驚きを露わにしている。

 インテグラは、口角をきゅっと釣り上げ不敵に笑うと動きを止めた霧を蹴り上げた。


「死ねッ!」

 最大限に開き切った瞳で、刻三を捉え叫ぶ。インテグラは、右手に拳を作り肘を曲げ後ろへ思い切り引く。

「アイス。1の術、装着エンチャント

 その体勢を崩すことなく、インテグラは吼えた。

 刹那、大気に滞っていた冷気がグルグルと回転し、腕に纏わりつき始める。

 どんどんと纏わりつく滞る冷気は、一重、二重、三重……と重なるにつれて腕は太く、頑丈になっていく。

「おりゃあ!」

 短い気合の入った一発とともに、丸太のように太くなった右腕を振りかざす。

 腕の通ったところに氷の道が出来上がり、それだけで腕の冷たさを物語っている。

 刻三は上半身をのけぞらせ、その拳をよける。思い切り下がったために、体勢を保つことができず思わず尻を地面につけてしまう。

「ふっ。ついたな」

 インテグラは獰猛に左側に存在する八重歯を見せつけ、告げる。

「な、なんだ!」

 刻三は正体不明の不安に圧し潰されないように、軽く首を振り声を荒げる。

 あまりりに唐突の叫びにおののいたのだろうか。

 インテグラは微妙に方眉を吊り上げ訝しい表情を浮かべながら、何もないはずの空中で跳ね大地に足をつける。


 ここにきて初めて、インテグラは地面に足をつける。

 天使が初めて大地に足をつけたかのように、インテグラは一瞬千鳥足になる。

 それを抑え込み、インテグラは刻三の肩をグッと押し強引に地面との接触を続けさせ、自分も残った手を大地に預ける。

「アイス グラセ イエロ グラキ パゴス ギアチ リオート ビオ オルス エルス。10の術、究極能力アルティメット・アーカイブ 絶対氷結アブソリュート・ゼロ

 視界が真っ白に覆われる。

 ——な、なんだ。

 刻三は声を出そうと口に力を入れる。しかし、口が開かない。

 おかしい、そう気づいた刻三だが、時すでに遅し、だった。

 音は消え、そこはかとなく寂しい空虚がだけが漂う世界が訪れていたのだ。


***


 ダウン照明に切り替わった、夜のフライト。クララは一番前から四列目の一番窓側のシートE-4に腰を下ろし、千佳はその隣E-5と名打たれた席に腰を下ろしている。

 仮装をしてない2人を不審に思うものは数多くいるらしく、搭乗するまでに何度もチラチラとみられた。

 逆にそれを不審に思ったクララが聞き耳を立てていると、どうやらリバール国が生誕祭の真っ最中らしい。

 

 ニホン国際航空場を発った飛行機の中は、搭乗している客からは想像のつかないほど静まり返っていた。

 派手にコスプレをしている者、恥ずかしさからか頬に少し落書きした程度の仮装と呼べるのかどうかわからない者たちが揃いもそろって眠っているのだ。


 どれくらい時間がたったのだろう。それが定かでなくなったころだ。

 千佳とクララを乗せる機体が刹那に大きく揺れた。体感としては強引に後方へ連れ去られるようなものだろうか。

「ななな、何っ!?」

 半分寝かけていた千佳が慌てて声を上げる。その隣でクララが体を跳ね上げ、千佳の口を抑え込む。

 そして、押し殺した声で、

「夜だから」

 と千佳を制しする。


「で、でも……」

 千佳はクララに言われ通り声を声音は抑えている。しかし、固い表情が不安を滲み出させており、声も震えている。

「大丈夫」

 クララは千佳の頭をくしゃくしゃと撫でながら、意志のこもった声で返す。

 クララだって不安がないわけではない。でも、妹のが不安のはずだ、と考え自分の感情を押し殺す。

 今にもこぼれだそうとしている感情を奥歯で嚙み潰しながら、飛行機についている小さな円形の窓から外を覗く。

「——っ」

 声ならぬ声が洩れる。幸か不幸か、それは千佳の耳には届いていないようで、ホッと息を吐く。

 そして、安易な気持ちを捨てクララは強化ガラスの張られている窓から外を眺めた。

 広がる景色は言葉では伝えきれないものだった。そして、それを敢えて一言で表すとするならば——氷河期再来であろう。

 ただ、それは普通ではなかった。

 海面に広がる氷は段々と勢力を拡大させていき、目にも止まらぬ速さで海面を凍てつかせる。

 そして、もっと先に目をやるとそこにはリバール国の形をする氷河の島があった。

 おそらく、あの島がリバールなのであろう。


「到着予定のリバール国は、突然の凍結化で着陸のできない状態となっております。お客様には大変ご迷惑をおかけしますが、ここで引き返させて戴きます」

 焦りが見え隠れするアナウンスが流れ、搭乗客たちが口々に不平不満を洩らし始める。

「帰るって」

 クララは千佳になだめるような口調で告げる。

 千佳はそれに対して小さくかぶりを振り、今にも消えてしまいそうな声でささやく。

「いやだ。お兄ちゃん、行きたい」

 クララは表情を緩め、ふっと笑う。

「森羅万象の誇りを思い、創造の天使が思いせる。破壊の常から乖離かいりせし我が身を以て神前を唱えよ」

「クリエイト シェプ クレアシ クレアツ クレアティ。5の術、透過縄ロープ・オブ・スルー

 誰にも聞き咎められないように、小声でそう吐く。

 瞬間、クララの手が仄かに光を放つ。ダウンライトしか灯っていない機内でクララの手の中の光はかなり目立つはずだ。

 しかし、それは咎められなかった。なぜなら、客が外の景色に見入っていたからだ。

 それを機とし、クララは創造した縄を強化ガラスの張られた窓に付け、円形を作る。

「行くよ」

 クララは首を移動させ、縄で作った円を指す。

 大きさは大人一人が四つん這いでどうにか通れる程度だ。

 クララは千佳に四つん這いになるように指示し、自分もそれをする。

「気合い入れてよ」

 不敵に口角を釣り上げ、千佳の右腕をつかむとクララはその穴の中へと入っていった。

「え、え、ええええええ」

 千佳は鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸め、悲鳴を上げる。

 ほんの一瞬。時間にしてもコンマ2秒ほど。

 その間で2人は機内から機外へと移動し、瞬間に冷気がヒリヒリと肌を突き刺す。

 2人の巨大な悲鳴は、天を裂き、世界へと震撼する如く轟き上空に蔓延る霧、冷気を割り、隠れていた月を露わにする。

 クロワッサンのような三日月は、妖しく地上を照らし出す。

 クララは瞬時に能力アーカイブを駆使し、落下の衝撃を和らげた。

 8の術、適応薬ボムだ。


「うっ、冷たい……」

 氷が張り巡らされた海面に足を下ろしたクララの第一声はそれだった。

 靴は履いている。しかし、そんなもの無いも同然に、氷が放つ凍てつく冷気は体の中へと入り込んでくる。

「本当に。しもやけなりそ」

 真剣な顔で場違いな感想を洩らす千佳に、クララは思わず吹き出してしまう。

「その感想、今言う?」

「え、だって。私冷え性だし」

 ──薄々は感じてたけど……、この子やっぱり抜けてるわね。

 クララは溢れ出そうな笑みを奥歯を強く噛むことで抑え、前方にそびえ立つ氷壁を見た。

「あれが……、リバール」

 変わり果てた全面氷漬けの国に目をやり、細々と呟く。

 刹那、その氷の国から砂煙が上がった。

「な、なに──」

 問うまでもなく、それが人智を超える怪物だと理解できた。

 国を呑み込んだ氷を受けてなお、動き回れる巨人。

「急ぎましょ」

 そこはかとない不安が胸中を掻き立てる。クララは、どうにかその言葉だけ振り絞った。

「うん」

 千佳はそれに短く答えると、2人は凍りついた海面をリバール国向けて歩き始めた。


 奥深くまで張り詰めているのか、歩いてもビクともしない氷の床。

「ヒビも入らないってのは、何かちょっと嬉しいかも」

 力なく微笑みクララは氷面をまじまじと見つめる。

「どういう?」

 千佳は低いトーンで小さく返す。

「私たちが乗っても割れないってことは、私たちそんなに重くないってことだよね」

 殊更大きな声が上がる。誰もいない空虚な世界で轟く声は、どこからとも無く木霊し自分たちの耳へと入る。

 1面銀世界で氷河期に迷い込んだ気分だろう。

 吐く息は真っ白で、ポケットに手を突っ込んでも寒さは諌めなく、生地を通り越して凍てつく寒さは肌を刺す。

「氷が密に張ってるだけかも」

 虚ろな目で氷漬けになった海洋国家で島国のリバールを見ながら、そう吐くのは千佳。

「そんな事言っちゃダメだよ」

 また大きな声だ。その声音だけでクララが悲しみを恐怖を、強く押し殺しているのが伺えた。


「あと、ちょっとだからね」

 空気に触れる全てを真っ赤に染め上げたクララは、寒さで逝きかける瞳の奥に僅かに炎を宿し巨大な何かがうごめくリバールを捉える。

「うん」

 同じように千佳もリバールから視線を逸らすことなく、首肯する。


 ──距離にしておよそ800m。

 凍てつく海面を歩む2人にとって、それは永遠にたどり着かない、幻の島にすら見えた。

 飛び出したところに氷が這ってきたのか、シャチが海面から顔を出したまま凍っている。

 だが、それを見たところで言葉は洩れない。

 2人の体力は寒さと不安が相まって、底にまで来ていたのだ。


 容赦ない巨龍の如く咆哮は止むことを知らず、2人が歩む中永遠と吼えつづけていた。

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