第156話 涙

4月17日(月) 1週5日


 優奈のレッスンのおかげで、あの日以来蒼汰は変わった。


 以前の蒼汰は余裕もなく、ただ自分が気持ちよくなるためのセックスをしていたのだけど、先週の水曜日からは、私を感じさせて一緒に気持ちよくなることを楽しむようになっていた。


 独りよがりじゃなくなったことは喜ばしいことだと思うけど、私個人としては複雑な心境だった。

 自分の弱いところを弄ばれて蒼汰に情けない声を聞かれたり、感じている顔を見られたりするのは、なんとなく敗北感があってくやしいのだ。

 蒼汰が自分のイきたいときにイくのに対して、私は蒼汰のされるがままにイかされているというのも釈然としない。

 かといって、私が主導権を奪って蒼汰をイかせたいかと言えばそうでもないし。


 達する回数も私の方が多い。

 これは、イった後に快感が冷めやすい男と、冷めにくい女という男女の違いが大きいのだろうけど……それでも、なんだか蒼汰よりも自分がこの行為にハマってるように思えて嫌だった。


 学校で蒼汰と話すときも、今まで通りにすることができなくて、ぎくしゃくしてしまっている。


 放課後の部室で蒼汰とデュエルしているときに、行為中のことを思い出してしまって狼狽えたり、そんな私の態度に蒼汰もまた動揺して、いつもはしないようなプレイミスをしたりして。


 事情を知る女子二人の視線は、微笑ましげに生暖かいのと、殺意混じりで氷点下以下に冷たいのとで正反対だった。


 そして、部室にはもう一人居て。

 私たちがあまりに不自然だったからだろう。


「アリスさん、二人でお話したいことがありますの……部活の後でわたくしの家に来てくれませんか?」


 お手洗いに行った帰り、部室の前の廊下で待っていた涼花からそんなことを言われてしまった。


 とうとうこのときが来てしまった。


 アリシアとお別れした後、涼花とはほとんど話をしていない。

 春休みだったからというのもあるけど、学校が始まってからも、蒼汰とのことを話せないでいる罪悪感で以前のように話せないでいた。

 涼花は私のその態度をアリシアを失った悲しみから来るものだろうと、そっとしておいてくれていたけれど、最近の蒼汰への態度で何かあったことに気がついたようだ。


 涼花には本当のことを話して謝らないといけないと思っていた。だけど、自分のことで精一杯だった私はそれを先延ばしにしてしまっていた。


 ……覚悟を決めよう。


 部活の後、私は蒼汰との待ち合わせに遅れる旨の連絡をして、涼花と二人で涼花の住むマンションに向かう。

 道中は涼花から積極的に世間話を振ってくれたおかげで、気まずい沈黙にはならなかった。


 何度か訪れたことのある涼花のマンション。

 いつになく居心地が悪く思えるのは、涼花に対しての後ろめたさからだろう。

 リビングに置いてあるL字型のソファーに促されて座る。執事の安藤さんはこの時間買い物に出ているそうで、しばらくは二人きりとのことだ。


 涼花が入れてくれた紅茶を飲んで喉を潤す。

 いつの間にか喉がカラカラに乾いていたことに気づいた。

 それからしばらく食器のたてる音だけがリビングに響く。


「涼花、ごめん……」


 口を開いて最初に告げたのは謝罪の言葉。


「……どうして、謝られるのですか?」


 穏やかに首を傾げる涼花。

 いかにもお嬢様然とした彼女らしい所作である。


「それは、私が涼花のことを裏切ったから……」


「と言いますと、蒼汰さんのことでしょうか?」


 私は肯いた。

 蒼汰に対する涼花の気持ちを私は知っている。

 それなのに、私は蒼汰と肉体関係を持ってしまった。


 謝罪して許してもらえるなんて虫の良い考えだろう。

 ……最悪、絶交されても仕方ないと思う。


 だけど、断罪の言葉は来なかった。

 むしろ涼花は困ったような顔をして口を開く。


「わたくしは蒼汰さんにもう振られていますもの。アリスさんが蒼汰さんとどのような関係になってもそれは二人のこと。裏切りにはあたりませんわ」


「だけど――!」


 涼花はあれほどまでに真っ直ぐひた向きに蒼汰を想い続けていた。今もきっとその気持ちは変わっていないはずだ。

 そして、私はそんな彼女のことを応援すると言っていた。

 いや、本気で応援してた。それなのに――


 涼花は首を振って否定する。


「仕方のないことですわ。蒼汰さんは大切な人を失ったあなたのことを支えたいと思ったのでしょう。あの人が見ていたのはわたくしではなくあなたでしたから……他の方ならともかく、あなたと蒼汰さんが結ばれたなら、わたくしも諦めがつきますわ」


 む、結ばれ……?

 ああ、今の話し方だと普通はそう思われるか。

 ちゃんと事情を説明して訂正しないと……


「ええと……私と蒼汰は恋人になったわけじゃないんだ」


「……?」


 理解できないと言った風に涼花は首を傾ける。


「実は――」


 私は涼花に事情を説明した。


 アリシアの意識が消失したあの日知ったこと。

 失われゆく魂を助ける可能性、その手段。

 そして、私の選択とその結果。

 蒼汰と翡翠、二人との歪な関係。


 私が全てを話し終えても、涼花は無言のまま俯いて表情が見えない。

 沈黙が重く伸し掛かってくる。


 ……怒らせてしまっただろうか。


 私は蒼汰を利用して、体だけの関係を続けている。

 改めて振り返ってみると、単に付き合っているよりも、よほどたちの悪い話なのかもしれない。

 だけど、変な嘘でこれ以上誤魔化したりしたくはなかった。


 涼花が勢い良く立ち上がる。


 ……頬を叩かれるのだろうか。

 私は目を閉じてそのときを待つ。


 だけど、衝撃はいつまで経っても来なかった。


「――え?」


 私は涼花に強く抱きしめられていた。


「小さい体で……こんなに辛い思いを抱えて……」


 涼花は感情を昂ぶらせて泣いていた。

 すっかり萎縮していた私は、その温度差に戸惑いを隠せない。


「いや、その……私は大丈夫だから……」


「こんなの平気なはずがないですわ!」


 背中に回された腕が強くなる。

 全身が柔らかな涼花の体に包まれた。

 ちょっと窮屈だけど辛くはない。


 良い匂い……

 シャンプーも良い物を使っているのだろうな。


 それにしてもこの反応は予想外だ。

 怒りで罵られなくて安心はしたけど、どう言えば涼花は納得してくれるのだろう。


「……私には辛いことなんてないよ」


「アリシアさんと離れないといけなかったのに?」


「……だって、また会えるから」


 悲しむ必要なんてない。


「けど、そのためには子供を産む必要があるのでしょう? アリシアさんの体のまま男性に抱かれないといけないなんて!」


「……それは、仕方のないことだから」


 今はもうこの体は私自身だと思っている。

 友人に抱かれることに複雑な気持ちはあるけれど、納得しているし、我慢もできる。


「そうやって再会できたとしてもアリシアさんと恋人にはなれない。だって、産まれてくる彼女は子供――二人は親子になるんですもの!」


「……形は違っても愛していることに変わりはないから」


 私は辛くない。


「ですが! ですがっ……! そんなのって――!」


「お、落ち着いて」


 私は涼花を抱き返した。

 彼女がここまで感情を乱して泣いたところを見るのは初めてのことで、どうしたらいいのかわからない。

 取り敢えず落ち着けようと背中を撫でてみた。


「アリスさんも泣いていいです」


「いや……」


 そんなことを言われても。


「いえ、泣いて下さい」


 無茶ぶりだ。

 だって、私には泣く理由なんてないのに。


「じゃあ、私が泣きますわ。アリスさんのかわりに」


 涼花が再び声を上げて泣き始めた。


 ……なんでそうなるのかがわからない。


 だけど、彼女は私のことを思って泣いてくれている。

 邪険になんてできるはずもなかった。


「アリスさん、アリシアさん……!」


 涼花はアリシアのことも友達だと思ってくれていて、彼女のことも含めて悲しんでくれているようだ。

 そのことが嬉しかった。


「うぇぇ、ひっく……うぅ……こんなの、悲しすぎますわ……」


 あれ……?


 泣きじゃくる涼花を見てると、なんだか私も悲しくなってきた。


「……う……」


 彼女に会いたい。


 一度堰を切ると気持ちが溢れてきて。


「……うぅ……アリシア……くっ……」


 彼女の名前を口にしたらもうダメだった。

 ほろほろと大粒の涙が頬を伝うのがわかる。


 アリシアの声を聞きたい。


 アリシアは無茶をしてと怒るかもしれないけど、私頑張ってるよ。頑張ってる、よね……?


「わたくしはアリスさんの味方です。あなたが一途で一所懸命なことをわたくしは知っていますもの」


 もう頭の中はぐちゃぐちゃで、泣いてもいいんだという思いで一杯になって。今まで留めておいたものが次々にこぼれてしまう。


「……いえ、わたくしだけじゃありませんわね。みなさんも知っているからこそ、アリスさんのことを大切に思うのでしょう。自分の手で幸せにしたい、守ってあげたいと願うのだと思いますわ」


 父さんと母さんに私は幸せになると宣言した。不幸かもしれないと疑問を抱かせる訳にはいかない。


 優奈は私のことを第一に考えてくれている。だけど、アリシアと一番親しい関係は優奈だったから、迷いは見せられなかった。


 翡翠は今の状況に対して一番重く責任を感じている。弱音をこぼして彼女に辛い思いをさせられない。


 私の事情を全部わかってくれて、辛いと打ち明けていいと言われたのははじめてだったから。


「……うぐっ……うあぁぁ!」


 私は涼花と抱き合いながら、二人で子供のように泣きじゃくった。


 しばらく、そうしていた。


 やがて、言葉と一緒に感情が流れていき、気持ちが落ち着いた頃、少し恥ずかしそうな涼花が拗ねたように言う。


「アリスさんに怒っていることがありますわ。それは、わたくしに悩みを打ち明けてくれなかったことです」


「それは……」


「わたくしはアリスさんのことを大切な友達だと思っていましたわ。過去にいろいろありましたけど、あったからこそ私たちには特別な繋がりがあると思っていましたの」


「う、うん……」


 私も涼花のことは大切な友達だと思っている。

 最初はウィソの師匠として。それから、蒼汰に対する恋愛のアドバイザーとして、彼女とは部活やそれ以外でもよく話すようになっていった。

 クリスマスのことがあって、私の事情を知られてからは、身内や幼馴染以外で私の過去を知る唯一の友達であり、いろいろ相談に乗ってもらったりもした。客観的な立場で助言をくれる彼女には随分助けられていた。


「蒼汰さんのこともありますし、言い辛かったというのはわかります。これがわたくしのわがままだと言うことも。それでも、わたくしのことを頼って欲しかった――」


「ごめん……」


 私は怖かったんだと思う。

 涼花の気持ちを踏みにじることを知っていて蒼汰を利用する選択をした私なのに、涼花に嫌われたくないと思ってしまったのだ。


「自分勝手だよね、私……」


 非難されて罵られても仕方のないことだと思う。


「もういいですから、自分を責めないで下さい。辛いことが重なったら、逃げたくなるのは当たり前のことですわ」


「涼花……」


「逃げていいんです。そして、よかったらわたくしを逃げ場として思っていただけたら嬉しいですわ」


「……ありがとう」


「これからはなんでも相談して下さいね?」


「うん……」


 ふふっと涼花が笑みをこぼす。


「どうしたの?」


「いえ、わたくしたちってお互い謝ってばかりだなって思っただけです」


「……そうだね」


 嘘をついて謝って。許して許されて。

 私たちは今ここにいる。


「それで、その……これからも私と友達でいてくれるかな?」


「そうですねぇ……」


 涼花は少し不満げな口調になる。


「友達じゃ足りないですわ。わたくしはアリスさんと親友になりたいと思っています……アリスさんは如何ですか?」


「うん……私も涼花と親友になりたい」


 二人抱きしめあったまま、いろいろな話をした。


 ――すっかり忘れていた蒼汰からメッセージが入るまで。

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