第68話 神代翡翠(一夜が明けて)

 泥のように深い眠りから俺が目覚めたときには、もうすっかり日が登っていた。昨晩の記憶は途切れ途切れで最後はどうなったか全く記憶に無い。

 文字通りぐちゃぐちゃになっていた布団は俺が寝ている一組だけ残されて残りは片付けられていた。

 俺が寝ている布団を捲ってみると、清潔なシーツがでてきて、昨晩の痕跡はみられない。

 一瞬、昨日の事なんてなかったのではないかと期待したが、一糸纏わぬ自分の体に染み付いた甘ったるい臭いの残滓や不快な体のベタつきが、昨日のことが自分の夢や妄想じゃなかった事を嫌というほど思い知らしめていた。


「おはよう、アリス、アリシア」


 脱衣所のドアが空いて、すでに身支度が整えられた翡翠が俺達に声を掛けてきた。

 パンツルックにポニーテールというスタイルは昨日と一緒だったけど、今日はややラフでボーイッシュなイメージの格好で纏めていた。


「どうしたの? もしかして、私に見惚れていたのかしら?」


 少し格好いいかもと思ってしまっていた俺は、バツが悪くなって顔を逸らす。


「朝風呂気持ち良かったわよ、あなた達も入ってきたら?」


 自分が何もつけていない事を思い出した俺は、慌てて掛け布団で自分の胸元を隠す。

 その状態のまま衣服を探し求めるが近くには見当たらない。

 キョロキョロ探してると少し離れた場所に鞄を発見した。

 翡翠はそんな俺の様子を面白そうに見ている。俺は布団にくるまった状態で、芋虫のように、鞄に向けて移動する。


「今更恥ずかしがらなくてもいいのに」


「気持ちの問題だから! ほっといて」


 昨日あんな風におねだりしておいて、と翡翠に言外に言われたような気がして顔が羞恥に赤くなる。


『そうですよ、こっち見ないで下さいよ。翡翠さんのけだもの!』


 アリシアからも援護射撃が飛ぶ。昨日の事があってアリシアも遠慮無い。手早く念話のリンクを作成したので、文句はちゃんと翡翠に届いている。


「はいはい、私は少し散歩してくるから、お風呂でゆっくりしてくるといいわ」


 そう言って翡翠は部屋を出ていった。正直助かる。昨日の今日でどんな顔をして翡翠と話せばいいのか解らなかったのだ。


 一応布団にくるまった状態のままで、かばんを開けて着替えを探す。

 かばんには昨晩着ていたスリップが畳んで入っていた。翡翠が片付けてくれたのだろう。


「あれ? ……スリップだけ?」


 一緒に履いていたショーツが見当たらない。まあ、どうせ履ける状態ではなかったので、とりあえず、気にしないことにして着替えを準備した。

 その後、布団から脱皮した俺は、着替え一式を持って脱衣所に向かった。

 脱衣所で姿見の前に立ち、改めて今の自分の姿を確認する。腰まである銀の髪に白い肌。小振りな胸の頂きには桜色のぽっちがツンと存在を主張している。


『痕になっちゃってますね……』


 アリシアの指摘の通り俺の白い肌には昨晩翡翠の行為によってつけられたと思われる痕が数多く残ってしまっていた。


「肌が白い分目立っちゃうね、どうしよう……」


『こんなの、治癒魔法で消しちゃえばいいんですよ』


「そっか。そうだね、そうしよう」


 治癒魔法を使うと、体に刻まれた翡翠の痕跡は綺麗に消え去った。これで安心。


『さあ、温泉に入ってすっきりしちゃいましょう!』


 朝の温泉はまた格別だった。洗い場でさっぱり汚れを流して、心地の良い山の朝の澄んだ空気の中温泉に浸る贅沢なひととき。


「最高だー」『最高ですねー』


 思わずだらしなく声が零れてしまうくらいには最高だった。俺は両腕を肩の後ろに投げ出して温泉の岩に乗っける。


「お二人さん、気持ち良さそうねー」


 お風呂から見える部屋の縁側に翡翠が立っていた。いつの間にか部屋に戻っていたらしい。


『翡翠さんは、何しに戻って来たんですかー? まだまだ散歩していて良かったんですよー?』


 アリシアがゆるゆるボイスで毒を吐く。翡翠は意に介さずに微笑んで応える。


「ふふっ、アリシアには随分と嫌われちゃったみたいね。お詫びに賄賂を持って来たのだけれど機嫌直して貰えるかしら?」


 そう言って翡翠は縁側とのガラス戸を開けて温泉のある中庭に出てくると、後ろ手に持った何かを眼前に差し出した。


「はい、差し入れ」


 それは、レトロな瓶入りのコーラだった。表面に浮いている水滴は見るからにキンキンに冷えている様子だった。


『「ふぁぁ……コーラだぁ……!」』


 俺とアリシアの言葉が被った。

 思えば昨晩から水分補給をしていない。あれだけ体から水分を失わせるような事をしていたのだ。俺の体は水分を欲してた。

 俺は手を伸ばして翡翠から瓶を受け取った。

 本能の赴くがまま注ぎ口に口付けると、ガラス瓶を煽り傾けて口内に濃色の泡立つ液体を流し込む。

 口内を蹂躙する液体は勢いのままに喉に達し、俺は瀑布のような勢いのそれを、喉を鳴らして嚥下えんげしていく。

 温泉でほてったお腹の中にに入ってくるのがわかり、身体が冷却される心地よい感覚に身体を震わせた。

 飲み干せず溢れてしまったほとばしりが、唇の端からはしたなく一筋零れた。


「くぅぅ……生き返ったぁぁ!」


 勢いのままに中身を飲み干した俺は、空にした瓶を見せつけるように翡翠に突きつけた。


「喜んでもらえたようで良かったわ」


 コーラの瓶を受け取った翡翠は、微笑んで言った。


「大満足だよ、ありがとう翡翠!」


『美味しかった、です……ありがとうございました』


「部屋に朝食の準備して貰ったから、お風呂から出たら朝ご飯にしましょう」


『あさごはん……!』


 ご飯と聞いて空腹であることを意識させられた俺のお腹が『くぅぅ』と音を鳴らして、本能のままに欲求を伝えて来た。


「慌てなくてもいいわよって言うつもりだったのだけど、あなた達がもう我慢できなさそうね……」


「温泉は冷めないけど、ご飯は冷めちゃうからね! すぐ行くよ!」


 一旦お湯に入り直して身体を暖めた後、お風呂を飛び出して脱衣所に向かう。

 朝ご飯が終わっ後でもう一度お風呂に入ろうと思ったので、お風呂あがりは割と適当に拭いて着替えを済ませる。


「随分早かったのね」


 と、出てきた俺の姿を見た翡翠はややあきれ顔だった。

 仕方無いよね、お腹空いてたんだもん。


 朝食は典型的な和食の朝ご飯といった感じで、炊きたての白米を主役に、ご飯と一緒に食べると美味しいおかずのオールスター選手といった風だった。

 案の定ご飯が良く進んで、俺はこの体になってから珍しくご飯をおかわりした。


「ええと、翡翠。昨日私が履いていたショーツ見なかった?」


 食後、翡翠の入れてくれたお茶を飲んでいた俺は、さっき気になったことを翡翠に聞いてみた。

 三枚セットの普段履きだから物自体はどうでもいいけれど、うっかり宿に忘れてたりしたのが見つかったりしたら恥ずかしい。


「ああ、あれなら記念に私が貰ったわよ?」


「……そっかぁ」


 見つからないと思ってたら翡翠が持ってたのか。

 行方が判明して良かった。

 俺は安心してお茶を啜る。


『いやいや、おかしいですよね!? イクトさんはスルーしてるんですか。これって窃盗ですよね!」


「人聞き悪いわね、ちゃんと昨日アリスに確認はとってるわよ」


『イクトさん自身が覚えてないような状態の了解なんて無効です! わたしは翡翠さんにあんな状態の下着を持たれてるなんて絶対に嫌です、返して下さい!』


「と言っても、私はアリスに貰ったんだもの。あなたはアリスの決定には従うんでしょ?」


『昨日の夜考えを変えられる事がありましたもので! 嫌なことはちゃんと言うようにすることにしたんです! イクトさんも何か言って下さいよ!』


「別に私は気にしないけど……」


 元男として翡翠の気持ちはなんとなく理解出来る。

 それに、今後あのショーツを見る度に昨日の事を思い出してしまいそうで、そういう意味でもいっそ手元にない方が心の平穏に良いと思う。


『あんな物を記念にするなんて信じられません。翡翠さんは変態です!』


「ああ、変態と罵られるのも悪く無いわね……」


 頬を赤らめてうっとりする翡翠。彼女は何か別の扉を開いてしまったようだった。


「お礼と言ってはなんだけど、アリスにはこれをあげるわ」


 翡翠は茶色い無地の小さな紙袋を俺に渡して来た。小物が入ってるような乾いた軽い音がする。


「昨日使ったよ。いらなかったら捨てて」


 それで、何が入っているかわかった。同時にアリシアも思い至ったらしく狼狽した声が頭に響く。


『ちょっ、なんて物を渡すんですか!? いりませんよ、こんなもの!? ……って、何でいそいそとしまってるんですかっ、イクトさん!』


 俺はありがたく頂戴する事にした。アリシアの抗議は聞こえない事にする。


「アリシアには昨日あなたが一押ししてたお土産5個入り一箱でどうかしら?」


 翡翠の提案で、頭の中の喧騒が一旦ストップする。


『そ、そんな物で誤魔化そうだなんて虫が良すぎると思います』


「何だか新刊チェックしたくなってきたかも。帰りに駅前の本屋に寄って帰ろうかな?」


『……』


「アリシアが欲しい本、何でも1冊買っていい」


『……わたしは納得した訳じゃありませんからね』


 これを意訳すると見逃してくれるという意味だ。


「それじゃあ、話もついたみたいだし、最後にみんなで大浴場に行ってみない?」


「いいと思う。大きいお風呂入りたい」


『いいんじゃないですか。大浴場なら流石に翡翠さんも変なことはしないでしょうし』


 他のお客さんがいるかもしれないけど、あれだけ翡翠の肌に溺れた後だと、裸の女性が居たとしても、平常心でいられる自信がある。


 そんなこんなで、俺達は最後まで温泉を堪能して、刺激的だった温泉旅行を終えた。

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