新編:第4章

第81話 第4章1 悲哀なるウサギたち


 古き時代かつて―――――


ワラビット兎獣人族には、弱小種族たるき目の時代があった。


『ハァハァ、ハァハァッ!! …っ、急ぐんだ、早く!! 早く…逃げるんだっ』

 獣人系の種族でもそれ以外も含めた全種族で見ても、下から数えた方が早いほど弱小であった彼らは、しかしてその容姿の良さが故に…


『捕らえろ捕らえろ、より取り見取りだっ、はははははぁっ!!』

 闇商人や悪徳商人のみならず、心なき貴族や権力者……それらの手先が彼らを捕まえては高く売りさばく。

 美男美女、美少年美少女ばかりでありながら戦闘能力に欠ける――――“ 商品 ” としてはまさに絶好の獲物……


 社会的強者達、その数多あまたぜい欲を満たすためだけに、一方的に狩られるのが彼らの日常であった。


 そんな長い長い暗黒時代、安息の時を得られずに苦しみ続けたワラビット兎獣人族。



 後に、魔王による明確な保護の明言と関連する立法が成された時、ようやくにして平穏無事なる時代が訪れると、彼らは喜んだ。


 一体、どれほどの同胞が奴隷として酷い扱いの末に凄惨な死に追いやられ、幾度となく絶望に沈んできた事か?

 どれだけの夜、おちおち眠る事もままならず、幼い我が子の手を引いて懸命に逃げ隠れする日々を繰り返したか?



 だがワラビット達の苦難の時は、例え魔王の命をもってしても完全なる終わりを迎える事はなく…



『いやぁぁ!! は、はなしてぇえっ!!』

『へへ…上物だ! 高く売れるぞコイツはっ』

『売っぱらう前にまずは味見しよーぜ味見、うへへっ』

『おい、さっさとズラかんぞ!! 見つかったら全部パーなんだからよぉっ』



 法の目を、監視の目を。厚顔無恥にもかいくぐる卑しい者達は、少なくはなれど完全に滅する事はなかった。



 同じ虐げられてきた種族の一つである淫魔族は、救世主・クルキルラ=ルリウスの威光と活躍により、いかに闇に潜む者でも安易に手出しできぬほど、種族として強くなった。


 だがワラビット族からはその歴史の中、そんな才幹を持つ英雄が現れる事はなく、弱小種族たる悲哀はなおも継続し、かつての時代に比べれば遥かにマシになったとはいえ、今日を持ってしても完全なる安息の日々を得られたとは言い難い。

 たとえ種族の者しか入れない専用の領土をいただこうとも、それは変わらなかった。


 無法をなす者達は、己の欲望のために平然と秩序と法を破るものなのだから……








――――――――ナガン領、街道は領土境界の東端付近。



 短い草と僅かに露出した薄茶色が埋め尽くす平野。広陵とした景色はのどかで、周囲を見回してみても危険な気配は何もない。

 彼は立てた長い耳を数回ピクつかせてからその足を止め、安堵と疲労の混じったため息を漏らした。


「はぁ……どうやら危険はなさそうだ。この辺りで少し休憩にしよう」

「そうですね、ちょうどお昼ごろですし」

 アラナータはほんの少しだけ嘘を言った。お昼にはまだ小一時間ほど早い。だが嘘でも適当な理由が欲しかった。

 ハイトが休憩を取ろうと言い出したのは、他でもない彼自身の身体が悲鳴をあげているからである。

 しかしその事を理由に休憩を取るのはよろしくない。彼の身体に残るダメージに対して、アラナータは多少なりとも責任感を抱いていた。


 かといって、黙ってそうしましょうと従うだけなのも気まずい。休憩を取るにあたり、誰も異議なき理由を上げる……円滑な人間関係のためには、多少の嘘も方便である。


 アラナータは街道に面した、数人が寝転んでくつろげそうな小さくもほどよい丘を見つけると、辛らそうなハイトの手を引いて導いた。






「大丈夫ですか? やっぱりもう少し越境前の村でゆっくりした方が良かったかも…」

「いや、平気だ。あまり長く滞在していても旅費がかさんでしまう。身体の方は休憩を小まめに取れば大丈夫」

 ウンヴァーハに囚われて大怪我し、命こそ助かったとはいえその後遺症はある。


 ハイトは、旅が出来るほどの回復こそしたものの、見た目よりも体力が大きく落ちこんでしまっていた。その上、いったん疲れが出てくると途端に身体のあちこちの古傷が痛みだしてしまう。


 地上世界にやってきてからの旅路は路銀の事を考慮し、徒歩が中心。


 途中、長時間にわたって移動し続けるのが厳しいと判明してからは、1日~3日かけて町や村の間を1つ踏破する、比較的ゆっくりとしたペースで二人は街道を西進していた。


「幸い、思っていたよりも危険らしい危険には遭遇しない。案外こっち地上の方が治安がいいのかもしれないな、ハハッ」

 軽く冗談まじりに笑って見せるのは、アラナータに気を遣わせないためだ。


 だがその言葉には、ワラビット族たる哀しみが滲んでいる。


「…そういえば、この地上の方にはワラビットの方々っていないんでしょうか?」

 魔界だけでなく、地上にも生活基盤を築いている種族は多い。

 アラナータのような魔族はもちろんの事、ゴブリンやオーガ、リザードマン等の亜人系に、もちろんワラビット以外の獣人系各種族など多岐にわたる。


 だが、少なくとも地上のサンダーバードトランスポートより今まで、ワラビット族の姿を見かけた事は1度もない。


「……。俺達の先祖の中には当時の苦しい種族事情を鑑みて、地上世界に活路を見出そうとした方々は、確かにいたらしい」

 語り始めたハイトの口調は重い。その様子から既に、その結末が芳しくないものである事がうかがい知れる。

 だがアラナータは、黙って静かに話を聞き続けた。


「当時、この地上世界がどういう状況にあって、どんな環境だったのかはわからない。けど勇気ある先祖様がたが、この地上に種族の安住の地を見出す事はついぞ出来なかった」

 それは何も、魔界よりも地上が住みにくい所だったとか、そういう事ではなかった。


「……たとえ魔界でなくとも俺達ワラビット族は、狩られる・・・・運命から逃れられなかったんだ。むしろ勝手知らぬ未開の地では、逃げ隠れする事も困難だったんだろうな。長老衆が伝え聞いているという話によると、かつて地上に行った同胞の9割以上が他の種族に狩られ、残りの1割も消息を絶ってしまったらしい」

 地上進出失敗の原因は、なんて事はない。魔界同様にワラビットという種の弱さゆえなのだ。

 実際、街道を歩いていてすれ違う種族の面々を見ても、ワラビット族がこの地上世界にて繁栄しているであろう気配はない。

 それどころか通行人達は皆、ハイトを物珍しそうな目で見ながら歩き去ってゆく。そんな彼らの態度こそ、ワラビット兎獣人という種族がこの地上世界にはほとんどいないという事を証明していた。









―――――――――魔界、淫魔族ルリウスの直営娼館。


 丁稚として働きはじめ、多忙を極めること数か月。

 ワラビット族より奉公にきているシャッタは、ようやく仕事に慣れ始めていた。


『シャッタくーん、こっちにタオル――――』

「はいっ、ただいまっ!!」


『そのお重は上客へのサービス品。そっちの銀トレイはお初さんへのサービス品ね』

「わかりました、間違えないように気を付けて運びます!」


『あのドレスの洗濯はそっちの魔導洗浄機、この綺羅着物は―――』

「手洗いですね! 慎重に洗っておきます!」


『ちょうどよかった、これもお願いーっ』

「下着…よれてますね。新しいモノは洗濯あがって、右の棚に入ってますので!」


『この部屋の客は茶啜り会話飲食だけだから、まずはお茶とお茶菓子を。こっちの部屋の客は泊りだから隣部屋のシーツ取り替え、1時間以内に済ませておいてちょうだい、隣に聞こえないよう静かにね』

「かしこまりました、すぐに取り掛かっておきます!」



 シャッタはこれでもかとコキ使われていたが、最初の頃とは違って手際もよくなり、イチイチ仕事の内容に初心な反応を示す事もなくなっていた。


 毎日が美麗な姿の女性達の側にあって目が慣れたのか、それとも裏方として働くうちに女だらけの園の裏側を知って、男の抱きがちな幻想から哀しくも脱却できてしまったからなのか…


 だがよく働き、すっかり娼館のスタッフが板についてきたシャッタの評判は、娼婦達の間で徐々に上がりつつあった。

 働き始めの頃こそヤンチャそうな青いボウヤ・・・程度だったが、厳しい労働を経た事でその表情には相応の精悍さ……男性としての味がなんとなく染み出しはじめている。

 元が性別問わず容姿の良いワラビット族の男子である。中身がしっかりとしてくれば、シャッタとて受ける異性の視線に熱を帯びさせるだけの素地は持っていた。


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「あの小僧、根を上げずによく働いておるようじゃな?」

「シャッタくんの事ですか? ええ、それはもう…私とて最初は1週間ともたないでしょうと思っておりましたが、なかなかどうして…根性のあるのようですわ」

 スリットのあるドレスに身を包んだルリウスが、パリッといい音を立てながら薄い煎餅をかじる。

 その側でお茶を淹れている女性は、ルリウスにこの娼館の経営を一任されている総支配人代理のサキュバス淫魔である。


 その熟れきった超絶ダイナマイトボディを、族長のファッションに合わせた同じスリット入りのドレスで包んでいる彼女は、姿を見せるだけで異性達を篭絡するとさえ言わしめるほどの美貌の持ち主である。


 その所作は全てにおいて非の打ち所がない上品そのもの。仮にこの世で最上位たる魔王様を客として迎えたとしても適格。失礼なきおもてなしが出来るであろうと、ルリウスをして自信を持って世に喧伝できる自慢の娘が一人である。


 若い小娘の頃よりこの娼館で働き続け、数多の異性客に一夜の夢を見せてきた古参でありながら、今の地位をもってしても現役。この世のあらゆる快楽を尽くす事ができ、話術だけで楽園に誘うとまでいわしめる生ける伝説……娼婦としては唯一、ルリウスと同格と認められた、最上位者。


 なので今は軽々しく客を取る事はない。接客にでるなど一月に1度あるかないか、一夜を共にするとなれば数か月に1度あるかどうかのクラスである。それは客に選ばれるのではなく、選ぶ事を許される女である事を意味していた。


 それでも彼女を希望し、指名を入れる客は後を絶たず、幸運にも選ばれた男達によって何百年単位の遥か先まで予約が埋め尽くされているほどであった。



「ふむう……予想外じゃの。よくてひと月が限度と思うておったのじゃが。よかろうここはひとつ、ワシの見立てを裏切ってくれた “ 褒美 ” をくれてやるとしようか。………わかっておるな?」

 母の問いに、彼女は黙したまま恭しく、丁寧かつ深い礼でもって返した。それは十分に承知しております、という意。

 言葉の応酬は不要。それほどにこの母娘おやこの信頼は深く、意志疎通はまるで分身わけみであるが如しだった。




 ルリウス種族長の下知―――――その言内の “ 褒美 ” には、複数の意味が込められている。


 一つ。言葉通り、頑張っている努力を認め、飴をくれてやれという意。

 一つ。甘やかして、怠惰を引き出せという意。仕事に身が入らなくなる甘い罠を仕掛けよという事。

 一つ。その心底を引き出せ、という意。そこまで頑張ろうとする理由を突き止めよ、という事。

 一つ。弱みを掴め、という意。イザという時、シャッタの行動を制限するような弱みを作り、持たせ、それを握っておく。相手の恥しい何か……なければつくれ・・・という事。






――――――その日の夜。


 シャッタは、彼女の寝床に押し倒されていた。


「そ、総支配人代理、い、いったい!??」

「あら、こうして近くで見ると…さすがというべきかしら。やっぱりワラビット族の男の子ね、シャッタくん」

 天蓋付きの、20人は寝転がれそうなとてつもなく広いベッド。部屋は怪しい薄紫色の光で包まれている。

 その中で浮かぶ彼女の肌艶はより妖しく輝き、そのなまめかし過ぎる姿だけで、シャッタの本能をこれでもかと刺激して止まない。

 だが彼女は見せつけるだけにとどまらない。その至高の肢体でもって、シャッタを押しつぶすかのように覆いかぶさる。


 柔らかくて果てのないボリュームが、甘くも危険を孕んでいそうな香りが、対等ではなく完全に見下し獲物を見る、しかし見る者が安心するような穏やかで静かなる危険な瞳が……


 彼女はまるで蛇のようにシャッタの全身に絡みついては蠢き絡みついて、彼の理性を吹っ飛ばす。


 が……だからといって、シャッタが暴走する事はない。


 お世話になっている恩義があるし、無理を言って働かせてもらっている手前、いくら我慢できないほどの衝動を引きずり出されようとも、やってはいけない事だと、必死に我慢し続けるべきだと、彼は自身に言い聞かせ続けた。


「…あなたの仕事ぶりは…ふぅ~……、想像以上…だったわ……それに、シャッタくんも男の子……大変でしょう毎日……こんな仕事場では? はぁ~……」

 吐息。甘く、動きに合わせるような、ネットリとした口調。

 シャッタのシャッタは、ギンギンどころかグオングオンだ。たまらないに決まっている。


 ただでさえ娼館の総支配人の超絶美貌は見ただけで鼻血モノ。声をかけられただけで前かがみになってその場で崩れてしまい、一歩も動けなくなってしまうと言われるほどだ。

 そしてそれは事実である。


 そんな女性に絡みつかれ、密接して話しかけられては、1000年ご無沙汰の老人ですら残りの寿命を投げうってでも若返ろうというもの。


 そんな相手が、まるで…そうまるで、相手をしてくれる・・・・・・・・かのような事を、甘い吐息混じりに囁く。

 むしろそれを受けてまだ耐えているシャッタは、この世の全ての同性から拍手喝采を浴びてもいい頑張りを見せていると言っても過言ではない。


「そ、それは…ゴクンッ……も、もう慣れて…な、慣れましたから、だ、ダイジョブです…は、はい…っ」

 なぜか変に丁寧な口調になってしまう。そうしようと意識したわけではない。それは、シャッタのペースが完全に狂わされているがゆえだ。



 完全に相手の術中。



 さらに絡まりは深くなり、シャッタの身体はその頭から彼女の超美魔乳に飲み込まれていく。

 男とはいえ小柄な者が大半のワラビット族。それなりの身長を有する淫魔族の彼女との差は大きく、まるで母親と子供である。

 彼女の肢体に抱かれるというよりは、まさに彼女の中に飲み込まれていくかのよう。


「ふふ……意外と硬派なのね。もっとヤンチャなコかなと思っていたけれど……」

「んぷぷぷ……ぅっ…ほ、ほんな……こ、ほ……んむむ…っ」

 四方八方が柔らかいもので埋め尽くされ、その種族の特徴たる長い耳が胸の谷間より辛うじて飛び出す。

 彼の頭を撫でる彼女の手は、一撫でするたびに脳をとろけさせていくかのよう。



 男女の快楽愉悦の類を求める獣のごとき浅はかなる行為ではない。大人の余裕に溢れたるねや……甘くゆっくりと流れるむつみのひと時。


 何も物理的に繋がるだけが全てではない。彼女はシャッタと心で繋がる――――否、引きずり出す、甘やかす、果てしなく優しく、ドロドロにとろかしてゆく……




 肉欲を通じることなく男心を篭絡する事は、まさに至難の業である。単純に彼女が絶句するほどの美貌の持ち主であるから出来る事……ではない。


 経験、知識、そして一種の悟りの境地とも言えるかのような精神こころの在り方。


 それらを兼ね備え、相手の気持ちを想いてさらにソレに感化されない強さを持って初めて成せるこの秘中の秘は、若い後進達に教えてみたところで誰も再現する事はかなわない。


 ルリウスより教授された数千の淫魔達の中、たった一人…彼女だけがその真髄を、そして更に先の神髄をも解して会得に至った心の秘術。




 シャッタがどんなに頑張ったところで、やがて抗いきれなくなるは当然であった。


 空間すらも甘くフワフワしている内に、絶対的な快感の波が全身を巡り、自分が何を語っているのかすらも理解できず――――現実に過ぎ去った数時間の後、彼は涙を流しながら、生涯で一番穏やかな寝顔を浮かべて深い眠りについていた。


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「なるほどのぅ。あの小僧は小僧で、自分達一族の行く末を案じておるわけか」

 シャッタから引き出された話を聞いてルリウスは、ふむとアゴに手を当てる。


「我々も同じ苦難の時代を経験しておりますれば、同情はできますね。それはそれではありますけれど」

 所詮は他種族の事である。いかに同じ憂き目にあった過去があれ、ワラビット族に気持ち深入りする義理はない。


「うむ、その通りじゃ。…それで、どうであったのだ? ただ慰めてやるだけで終えるお前ではなかろう?」

「クス、さあ…どうでしょうか? シャッタくんに直接、感想を聞かれてみてはいかがです?」

「どうせ覚えておるまい。楽園を経験したであろう事は確か、くらいにしか言えまいよ。まったく…我が娘ながら恐ろしい才能じゃな」

 シャッタに限らず、彼女と一夜の夢を過ごした客は、具体的に何がどうだったかといった事をまったく覚えていない。ただ果てしなく最高の一晩であったと惚けた顔で語るのみである。


 彼女はクスッと笑うと、深々とルリウスにお辞儀した。


「これもルリウス様のご指導のおかげでございます」

「よせよせ、お前の世辞は美味にすぎる、耳心地が良すぎるわ。…まぁあの小僧も、自分が何を口喋くっちゃべったかも覚えておるまい」

「御意にございます」

 彼女は特別な客の相手をする事が多い。


 特別な客―――――それは、彼女らにとって有益なモノを持っている客のことだ。


 彼女は一夜の夢の内に、そんな客より全てを引き出す。客は自分が喋った事をまったく覚えてはいない。


 最高の諜報収集力。それこそが、この全種族のオスが垂涎するその美貌なんかよりも遥かに強力な、彼女の本当の武器であった。



「それで…シャッタくんは今後、いかが処理いたしましょう?」

「一族を想う志は良いがの。やはり少々拗らせておったのう」

「はい、あまり良い拗らせ方ではないかと思われますね」

 ルリウスは、かつての時代より生きている現在最古の淫魔サキュバス。その長い生の中で様々な者の生涯を見てきた生き字引である。当然、過去にその例に類する者とその末路もまた記憶にあった。


「……放置は出来んのう。我が淫魔族の問題ではないとはいえ、奴ら・・にその拗れた部分に目を付けられても困る。魔界全土の問題となってしもうてからでは遅いゆえ……なれば今の内に、少しばかり骨を折っておくのもやぶさかではなかろう」








――――――――ゴルオン領内、滅びた村。


「マクマクマクマクモクマゥマフモクマクマクモゥマクモクマフッ…」

 目を覚ました獣人の少女はモーグルの差し出した、表面を切って野菜クズや肉のカケラなどを炒めたモノを詰めた大きめのパンに、一心不乱に喰いついていた。


「よほど腹が空いていたんだな。そんなに慌てて食べるなよ、喉に詰まるぞ」

 小さな口。

 一口が小さい分、小動物のように高速にモグついている彼女の頭部。


 今一度よくよく見るとその短い獣人系の耳の、その先端部はやはりちょん切られている。

 昨日今日の事ではないだろう、傷痕も残っていない所を見ると、切られて数年は経過している。


 生え際から5、6cm。パッと見た感じではワラクーン狸亜人っぽく見える茶色の耳。

 だが、看護している内に茶色の染料――キチンとしたものではなく野草等から取ったもの――が剥げて、今は所々で白い色が露わになっていた。



 髪の色は、紅潮した肌の色に近いような薄紅色。しかしかなり適当に短く切ってある髪型は、お世辞にも整っているとは言えない。加えて厳しい生活環境であったのだろう。子供の活力ある艶や照りがなく、あちこちから枝毛が飛び出している。


 毛の1本1本もヨレヨレ、手肌は荒れ放題。

 看病の甲斐あって持ち直したは良いものの、健康状態はいまだすごぶる悪い状態だ。



「なぁ…、お前、なんで耳に茶色いのとか塗ってたんだ?」

 少女の身の上を聞き出さなくてはいけないが、いきなり本題に入るのは憚られた。なのでモーグルは、比較的柔らかめの、しかして気になっている部分について聞くことにする。食事に夢中になっている今ならば、食べながら多少の会話の弾みも期待できると思って切り出してみたのだ。


 …が、少女の食事の手がピタリと止まる。


 どうやら彼女にとっては、かなり際どい問題らしい。モーグルはやってしまったかと思い、慌てて言い繕った。


「ああ、言いたくない事ならいいんだ。茶色いのが取れてきてるからな、必要なら染料を調達してきてやろうと思っただけで―――――」


「……あのね、パパがね……白いの、見せちゃダメって言ったのです。だからね、茶色いのを塗ってね、隠してたの」

 ややか弱い声で、しかし懸命に説明の言葉を紡ぐ。

 ゴルオン領内ではよほど食糧に事欠いているらしい。少女は自身を介抱し、パンをくれただけで、モーグル達を良い人達と信頼しているようだった。


「ふむ…少女よ、お父さんがいるのだな。今はどこにいるか知っているかな?」

 出来る限り、努めて優しい口調を心掛けるアレクス。自分の見た目が子供には厳つい事を理解しているのだろう。

 少々不器用な笑顔まで作って見せているのが微笑ましくて、モーグルはつい笑ってしまいそうになるが、なんとかこらえた。

 しかし次の少女の解答に、笑気は自然と収まる事となる。


「…うん、知ってるですよ。パパはママといっしょ、土の下で寝てるです」

 寝てる――――幼い少女は言いながら哀しそうにうつむいた。両親が死んだ事を、キチンと理解しているのだ。残酷な事実をこの幼さで受け止めている。


「悪い事を聞いちまったな、すまねぇ」

 モーグルは、言い淀むアレクスに代わって真摯に謝罪した。すると一瞬キョトンとした少女は、ほんの少しだけ―――おそらくは今はそれが限界―――笑顔を作る。


「気にしないでください、モグラのおじちゃん」

「お、おじ……ちゃん……」

 後ろでプッとふきだす音が聞こえる。どうやらアレクスにはツボだったらしい。


「ま、まぁいいか。うん、おじちゃん…おじちゃん……か……ハハ…」

「それで少女よ、どうしてお父さんは “白いの見せちゃダメ” と言ったのか、わかるかな?」

「…ママがね、連れていかれて……死んじゃったですから――――」

 少女は、幼い割ににはしっかりとした娘であった。たった一人、この厳しい状態にあるゴルオン領で生きていくために、その心を強くしなくてはいけなかったのだろう。


 そんな彼女が語った身の上話に、モーグルとアレクスは彼女の耳が切られている事に気付いた時同様に、再び戦慄させられる。


「……なんてこった」

「…………」

 モーグルが絶句するのに対し、アレクスは満面に激しい憤怒を浮かべて打ち震えた。


 獣人の少女が語った話を要約すると、


 ――彼女とその両親は、遥か昔に魔界より地上に安住を求めてやってきたワラビット族の生き残り、その子孫である事。

 ――地上においても、先祖は他種族に狩られる地獄の日々を過ごしていた事。

 ――それでも生き残った僅かな者達が、隠れるように細々と命を繋いできた事。

 ――少女とその両親は、まさにその地上にて繋げてきたワラビット最後の生き残りたる家族であった事。

 ――しかし母親が、このゴルオン領の新しい領主に見初められ、強引に連れていかれてしまった事。

 ――その後、母親が死体となって領主の館の外に投げ捨てられていた事。


 ――怒りに震えた父親が、涙を流しながら娘の長い耳を切り落とした事。

 ――そして父親は、娘になけなしの蓄えを残して領主に復讐せんとし、そして…

 ――両親の死体を、幼い彼女は一人で運び、誰にも知られない場所に埋めた事。


 父親が娘の耳を切り落としたのは、一目ではワラビットであると分からないようにして守るため。母親のような末路を辿らせないために……



 悪徳なる権力者に両親を殺され、種族の特徴たるモノを切り落としてまで隠さねばならず、誰の庇護もないままに、食糧すら満足に得られなくなったこの地でたった一人、幼くも孤独に生きていく――――――それは一体どれほどの地獄であっただろうか?


 何も言えずに黙していた二人だが、モーグルが意を決してその沈黙を破った。



「……よし、アッシは決めたぜ。このコを領主・・サマに預けに行こう」




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