18】一人の主人と二人の手下 -2

 と、理塚くんの中学の頃の話が出たことで、ついでという言葉もおかしいけど沢瑠璃さんの同じく中学の頃はどんなだったのだろうと興味が生まれる。


「ねえ理塚くん」


 そんな軽い気持ちで沢瑠璃さんのことを聞こうと振り返ると、……理塚くんが沢瑠璃さんに口を手で塞がれていた。……いや、つかまれていたという方が正しいかもしれない、いや正しかった。沢瑠璃さんが理塚くんの口を右手でがっちりと、それこそめきめきと音が聞こえてきそうなくらいにつかんでいる。そして――押し込んでいる。沢瑠璃さんが稲妻のような強ばりが走っているその右手で理塚くんの顔面を一歩押し込むと、沢瑠璃さんより身長があるはずの理塚くんが一歩下がり、それが二歩、三歩、そしてついに背後の電柱まで追い込まれていく。


 筋肉が強ばっている手でつかみながら理塚くんになにか呟く沢瑠璃さん。その表情は伺えない。

 目を見開いたまま、体を硬直させている理塚くん。そのまっ平らな表情から感情は伺えない。


 やがて沢瑠璃さんの手から強ばりが薄れ、理塚くんが電柱から解放されるまでの間、僕にできたことは、この一部始終を見て誰かがどこかに通報しないかを監視することだけだった。


 沢瑠璃さんの顔面ロックから解放された理塚くんは何回か咳ばらいをしたあと、そして僕の前まで来てにっこり笑った。


「すまん織野、オレそこまで詳しく知らねぇんだ」


「……理塚くん、ほっぺたの爪の跡がすごいことになってるよ」


 赤を通り越して赤黒くなった爪の跡が五つ、彫刻刀並みに深く刻まれている。しかも彫刻刀は彫刻刀でも中丸刀ではなく角刀だ。


 痛くないわけではないと思う、その爪跡で痛くないのはせいぜい蚊に刺された時くらいだろう。それでも理塚くんはまさに蚊に刺された程度、ともすれば元からそんな感じの頬だったかのように毅然と微笑みつづけている。


 中学時代の沢瑠璃さんへの興味はたえない。けれど、理塚くんの身を切る大人の対応を無下にすることもできず、僕もまた「それは残念」と大人の対応で返すしかなかった。……理塚くんは沢瑠璃さんになにを言われたのだろうか。


「さあ、余計な話はこのくらいで行こうぜ!」


 理塚くんがそれ以上聞くなとばかりに先へと促そうとする。そして沢瑠璃さんに「だから私が号令出すんだから今のも無し。よし、余計な話はこれくらいにして行くぞ」と同じことを繰り返されている。その一つを見てもやっぱり、全部が全部僕や沢瑠璃さんが悪いわけじゃないと思う。


 この時点で、目的地まであと三分の二というところ。時間は十分近くが経っている。

 その点と彼の出現時に浪費した時間とで判断すると、理塚くんの手伝いは今日探せる所が一つ減ったという点で完全に失敗だった。あと、沢瑠璃さんと話をする機会が減ったという点でも。とは言え、三人でわいわいとするのも楽しい時間だった。


 それからも歩きながらの僕たちの実があるようで実のない会話は続いていたけれど、目標のマンションの頭が遠くに見え始めたとき、「あ、そうだ」と理塚くんが何かを思い出したような声を上げた。


「お前らさ、だいぶ長い時間猫を……あ、いや、おでんだな……ちょ、悪かった悪かったよ沢瑠璃! ……あーと、そうだ、長いあいだ探してるみたいだけど、なんでおでんは逃げたんだ?」


 それは、なにかを探す際に出てこないはずのない話題の一つだ。それはご飯を食べる際に出てくるお茶のようなものだ。なぜお茶なのかと言うと、たまに出てこなかったりするときがあるし、あっても食事中にお茶を飲まない人もいるからだ。まあつまり、話題に上がらないときもあればそれを聞かずに探してくれる人もいるからということで。


 そういう僕も三日くらい前に、同じように尋ねている。もっとも理塚くんは初日に、僕は数日経ってから、という差はあったけれど。ただ、だからと言って僕が話すのも違うと思ったので(そうしてしまうと理塚くんの二の舞になるということもあったけど)、僕に話してくれたときとは違ってずいぶんと妙な間を取ってからようやく話しはじめた沢瑠璃さんの、おでんが逃げた当時の話を聞いていた。


「……ふうん。まあ、よくある話といえばそうなるか」


 二階の窓の鍵をかけ忘れて開けっ放しにしているうちにおでんがそこから逃げだしたという話に、理塚くんが少し気のない返事をした。

 沢瑠璃さんは、少しふさぎ込んだような沈んだ表情をしている。

 僕は、なにも言わずにマンションへと歩きはじめた。

 理塚くんが後ろに続いてくる。そして、沢瑠璃さんが最後に歩きはじめた。


 僕たちはそれから、それまでのことがムリをしていたかのようにマンションへたどり着くまでの間、一言も会話をかわさずに歩いた。



 ――違和感。

 その違和感は、その時点では僕しか感じていないはずだった。

 けれど、おでんが逃げたときの話を理塚くんは初めて聞いたはずなのに、僕しか感じないはずの違和感を読み取っているようだった。

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