第八二話 生きる意味を失うお話

 しんと凍てつくような冷たい空気が、礼の目を覚ました。所々霞んで見える視界の中、ベッド脇のサイドボードの時計に目をやる。時刻は午前6時、あと30分もすれば皆目を覚まし始めるだろう。窓から見える空は、まだ暗い。

 視線を隣に向けると、毛布に包まり同じベッドの上で寝息を立てている女子生徒の顔があった。後輩の二年生の女子で、昨晩礼のところへ不安を打ち明けに来た子だ。そしてそのままずるずると、礼はいつものように彼女をベッドに連れ込んでしまったというわけだ。


 確かに自分が常識的な人間ではないことを礼は自覚していたが、これも必要なことだと割り切っていた。不安を紛らわせるには、それ以上の何かを与えなければならない。怒りか、あるいは快楽か。礼は後者を選んだだけのことだ。

 長引く孤立した生活は、生徒たちの心を順調に蝕んでいる。直接感染者に襲われることだけは避けられたものの、学院に残った11人の他に誰もいない。送電はストップし、月に何度か食材を搬入に来る業者のトラックも来なくなった。親や学院の外にいる友人との連絡も取れない――――――。こんな環境で、恐怖や不安を抱かないはずがないのだ。


 11人だけの生活が始まってから一カ月で、それまで抑えていた不安や恐怖を訴える生徒が出始めた。恐怖は感染症のように、周囲に伝染していく。物資は豊富だし、電気も使える。森に囲まれた学院が感染者たちに襲われる心配もなかったが、人の心だけはどうしようもない。いくら頑丈な砦でも、そこを使うのは人間なのだ。

 このままでは生徒たちが恐怖に駆られ、どんな行動をするかわからない。そう判断した礼が採った行動がこれだ。元々女子に好かれるのも悪くないと思っていたし、「使える物は全て使う」が行動方針である礼としては、自分の身体を使って生徒たちの恐怖を抑えられるのなら安いものだった。


 礼のそうした行動や、三年生と裕子のカウンセリングもどきのおかげで、再び生徒たちは平穏を取り戻した。が、あの少年が来てから、再び恐怖が生徒たちを包み始めた。

 隣で眠る二年生の少女を起こさないようにそっとベッドを抜け出した礼は、床に放りっぱなしだった服を着始めた。起床までまだ余裕はあるが、目が冴えてしまった。制服を着た礼は部屋のドアを開けると、誰もいない薄暗い廊下を歩きだす。


「ん?」


 ふと校舎との渡り廊下に差し掛かった時、昇降口から出て行く一つの人影が見えた。外は薄暗くて顔は見えなかったが、恐らくあの少年だろう。元から学院にいた生徒たちは寮で寝泊まりしているから、後者に残っているのは少年だけだ。

 未だに彼は、夜になれば誰もいない校舎で寝起きしている。既に少年が来てから一週間以上が経過したが、今のところ何も問題は起きていない。それどころか少年が来てから、力仕事が楽になった。自分から助力を申し出ることはないものの、少年は頼みごとがあれば引き受けてくれている。恐らく自分が脅威でないことを示そうとしているのだと礼は推測していたが、彼が役に立っていることに違いはない。


 利用できるものは全て利用する、が口癖の礼としては、あの少年は何としても自分たちの側に取り込んでおきたい存在だった。彼がいれば、自分たちの生存確率はぐっと上がるだろう。物資も残り少なくなってきた今、遅かれ早かれ生徒たちは外に出なければならない。今までは物資の充実に甘えて色々な言い訳をして学院の敷地内に引きこもり続けていたが、遂に限界が来たのだ。

 

 しかし武器も持たず、戦い方も知らない自分たちでは、あっという間に感染者や暴徒にやられてしまうだろう。しかし銃を持ったあの少年がいれば、その状況も少しはマシになる。

 問題は、彼がすんなり協力してくれるかどうかだ。先日亜樹が話をしたと言っていたが、彼に仲間を作るつもりはないらしい。亜樹の話を聞いて、彼が単にこちらを警戒しているだけでなく、大切な存在を失うことを恐れているのではないかと礼は推測した。

 なら仲間ではなく、利害が一致した存在になれば彼もこちらに協力してくれるだろう。しかし礼たちには、少年に与えられるものが無い。食糧はいずれ尽きるし、大雑把なメンテナンスしかしていない発電機だっていつ壊れてもおかしくない。見返りが無ければ、彼はここに留まろうとはしないはずだ。


「やっぱ、色仕掛けしかないか……」


 そう呟いた礼のことなどまるで気づかないように、少年は昇降口に停めたワゴン車の中へと入って行った。




 車内の空気は相変わらず冷え切ったままだが、冷たい空気が目を覚ましてくれる。いつものようにサイドドアから車内へ乗り込んだ少年は、後部席のブルーシートを捲ってチェーンで繋がれた銃を手に取った。

 学院の生徒たちは知らなかったが、少年はここに来てから毎日早朝に学院の敷地内を徒歩で見回りしていた。別に生徒たちのためではなく、自分が生き残りたいからといういつもの行動だった。

 ここの生徒たちはあまりにも平和ボケしすぎていて、ロクに見回りすらしていない。雪が降れば外に出ることもなく、部屋の窓から外を眺めて監視するだけ。そんな状況で、よく今まで侵入者を出さなかったものだと少年は呆れた。

 それなりに危機感は抱いているようだが、まだまだ足りない。彼女たちを助ける義務はこれっぽっちも無かったが、かといって今の状況を見過ごすわけにはいかなかった。油断すれば、その代償は自分の命で支払うことになるのだ。


 チェーンを外し、散弾銃を手に取る。木製の銃床(ストック)と前床(フォアエンド)を備えた標準的な狩猟用の散弾銃で、装弾数は二発。予め薬室に一発装填しておけば三発入るが、それでも二連式の散弾銃とほとんど変わらない。

 銃身下部に平行して取り付けられたフォアエンドを引くと、ボルトが後退し空っぽの薬室が曝される。そこに金庫から取り出したショットシェルを一発装填し、フォアエンドを戻す。さらに引き金前のローディングゲートから二発のシェルをチューブ型の弾倉に押し込むと、合計で三発が装填された。

 本来ならもっと装填できるのだが、日本の銃刀法に合わせて装弾数が二発になるよう改造されているのだ。ライフルは弾倉を交換して装弾数を20発まで増やすことに成功したが、こればかりはどうしようもない。しかし予備として拳銃も持って行くので、火力は十分だろう。


 再びチェーンを残った銃に通し、カバーを掛けて少年は車から降りた。裕子から校舎内への銃の持ち込みは厳しく制限されているが、校舎の外でライフルや散弾銃を持ち歩いていけないとは言われていない。感染者に遭遇した場合、拳銃だけで対抗するのは無謀だ。

 随分溶けた雪を踏みしめながら、まずは校庭を突っ切って南へ向かう。数日雪が降り続き、かなり積もったが、先日からは空が晴れるようになった。雪も時折降るが、順調に溶けていっている。この分だとあと数日で、運転に支障がないくらいに積雪は解消されるだろう。


 夜の内に寒さで凍った雪が、ブーツの下でザクザク音を立てた。だいぶ溶けたとはいえ、それでもまだブーツに雪が入るか入らないかというくらいまで雪は残っている。この先もまた雪が降るかもしれないと考えると、雪が融けたからと言って即座にここを離れる気にもなれなかった。出発した直後にまた雪が降って身動きが取れなくなったら、今度こそ凍死しかねない。

 

 校庭の南側には森が広がっている。一応敷地はフェンスで囲われているものの、侵入しようと思えば簡単に出来るだろう。一部の箇所は生徒たちがバリケードを追加しているが、全体には至っていない。

 フェンスに沿って敷地を歩いていく。森の一部も学院の敷地に入っており、そこは木々が生い茂っているせいで視界が悪い。もしも侵入者がやって来るのならそこだろうと少年は思った。自分が侵入者なら、見つかりにくい場所から侵入を試みる。


 校庭の南側にはプレハブの体育倉庫や用具室がいくつか立ち並び、その奥に森が続いている。森に足を踏み入れると、途端に周囲が薄暗くなった。陽があまり当たっていないせいか、雪もまだまだ積もっている。雪の重みに耐えきれずに折れた枝や葉が、真っ白な森の中に散らばっていた。

 比較的暖かい地方で育った少年にとって、雪は珍しいものだった。雪は年に数度しか降らなかったし、積雪も数年に一度くらいしかなかった。雪が降った次の日は、よく外で遊びまわっていたものだ。無邪気だった昔をふと思い出し、それからいつものように暗鬱な気分になる。


 少年が住んでいた地域は、パンデミックの際の混乱で焼失している。雪が降った翌朝にそのことを教えてくれた父と母も、雪が融けるまで一緒に遊んで泥だらけになった友達も、今はこの世にいない。昔の思い出に浸る度に、一緒にそれらの事実も顔を覗かせる。

 家族は死んだ、友達も死んだ。帰る家は既に失われ、少年を知る人々はおそらくほとんどが死ぬか感染者と化しただろう。将来の夢も、過ごすはずだった青春も永遠に失われた。

 

 何のために生きているのか、少年はその答えを未だに見いだせていなかった。死ぬのが怖いから生きている、まだ死んでいないから生きている。なぜ? と問われても、答えは返せない。

 以前一緒に行動していた仲間の少女がいた時は、彼女を守るという使命感も生まれかけた。だが直後に彼女は死に、掴みかけた答えは失われ代わりに喪失感と虚無感が少年の心を満たすようになった。


「そういえば、ひとつ言い忘れてたな」


 先日校舎の屋上で雪下ろしをした時に、亜樹に「仲間は作らないのか」と訊かれた。その時、彼女に言い忘れていたことがあった。何故自分が仲間を作らないのか、その答えを。


 答えは簡単だ。人は簡単に死ぬ。特にこんな世の中では、誰がいつ死んだって不思議ではない。少年がパンデミックの混乱を生き延びられたのは、運が良かったからだ。

 そんな状態で大切な人間をつくるわけにはいかない。家族も友達も、大切な仲間ですら、あっさりと死んでしまうのだ。そしてその時にどんな気分を味わうかは、この身を以って知っている。


 他の人間に生きる意味を求めてはならない。それが少年が定めた「ルール」の一つでもあった。その人が死んでしまったら、生きる意味が失われてしまうから。だったら最初から他の人間ではなく、自分のために生きた方がいい。そうすれば二度とあのような絶望や悲しみも経験せずに済む。

 亜樹は前向きではない、と少年を非難した。だが後ろ向きであることの何が悪い。二度と同じ過ちを繰り返さないための「ルール」だ。自分のせいで他の人を死なせてしまうよりも、はるかにまともだろう。


「……僕は間違ってない」


 そう、自分は正しい。少年はそう自分に言い聞かせた。生きるために最善の行動を取っているだけだ、それのどこが間違っているというのか。死んでしまったら、全て終わりなのだ。

 しかしそう思うたびに、心のどこかで虚無感が大きくなっていくのも事実だった。ブラックホールのように真っ暗な塊が、自分の中で広がっていく気がする。いつかその虚無感に全てを支配された時、僕はいったいどうなるんだろうか?


 最近、独り言が増えた気がする。まるで仲間を失った悲しみを、必死で誤魔化しているかのように。

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