第五五話 臨界点のお話

 ひとまず感染者たちの視界から逃れることに成功したが、これで終わりではない。感染者から逃げる過程で僕らはマンションからかなり離れた場所に来てしまっており、ここからナオミさんたちの待つマンションまで移動しなければならないのだ。

 無論、感染者に見つかってはいけない。そうなったら先ほどのアパートの二の舞だ。さっきはアパートと隣家の距離が近かったから、どうにか感染者たちから離れることが出来ただけ。そんな幸運がこの先も続くとは思えないし、第一今の僕には厄介なお荷物が二人もくっついてきている。


 こいつらさえいなければ。隣で赤ん坊を抱いている女を、僕は横目で睨みつけた。

 僕一人でなら、上手く感染者たちの目を誤魔化してマンションに向かえただろう。だがこの街に感染者を引き連れてやって来た一家の生き残りの女と赤ん坊は、こうして僕の隣にいる。ハッキリ言って、彼女たちの存在が足手まといだった。

 人数が多ければ多いほど、グループの動きは鈍くなるし発見されるリスクも大きくなる。僕やナオミさん、そして結衣が行動できていたのは、全員が武器を持ってある程度は戦える人間だったからだ。


 しかし歩きながら話を聞いた限りだと、この女はロクに戦ったことすらないらしい。今までは車を運転していたあの男が戦ってくれていたので、自分は逃げるのに徹していたそうだ。それを裏付けるように、女はナイフ一本たりとも武器を持ってはいなかった。

 乳飲み子を抱えているし、戦えないのは仕方のないことなのかもしれない。しかし何かの特撮番組のキャッチフレーズではないが、今の世の中は文字通りの意味で戦わなければ生き残れないのだ。戦うことを放棄した者に待っているのは死だけ。終わりがいつ来るかもわからない、究極の鬼ごっこ。


 守ってもらわなければならない者は、はっきり言って負担にしかならないのだ。残酷な話だが、そんな奴はいない方がありがたい。誰もが自分の身を守るので手一杯なのに、他の誰かの面倒なんて見きれないからだ。自分の身を守りながら、他の誰かを助けられる人。それはヒーローだけだ。



 突如女の腕の中で赤ん坊が声を発し、僕は身体を震わせた。つぶらな瞳で母親を見上げつつ、意味をなさない言葉を発する赤ん坊。普段だったら微笑ましい光景で、ビデオに撮って一生の思い出にするところだろう。しかし今の赤ん坊の口は、文字通りの意味での禍の元だ。赤ん坊が不用意に発する声に気づいて、感染者がやって来るかもしれない。


 銃声が響かないクロスボウを構え、その場に立ち止まって周囲を警戒する。赤ん坊を抱いた女も恐る恐るといった感じで辺りを見回したが、一分ほど待っても感染者は姿を見せなかった。ほっと一息つき、無言で歩き出す僕を、慌てて女が追ってくる。

 この赤ん坊のせいで、さっきから僕らは何度も危うい目に遭いかけている。感染者との戦闘中は銃声と怒声に怯えて泣き喚いていた赤ん坊だが、今はようやく落ち着いてきたところだった。しかし今のように唐突に声を発することもあり、その度に僕は心臓が口から飛び出る思いを味わっていた。


「ねえ、聞いてるの? シュージはどこにいるの、無事なの?」

「黙れ」


 そしてこの女も、さっきから口を閉じようとはしない。流石に近くに感染者がいたら黙るが、視界に感染者がいなければ途端に口を開く。訊いてくるのは車から脱出できずに感染者に食われた、あのシュージという男のことばかりだった。


「あんたが助けるって言ったんでしょ? シュージは無事なのよね?」

「だから静かにしろって言ってるだろ。連中に見つかってもいいのか? 死ぬのは勝手だけど、死ぬんなら一人で死んでくれ。生憎僕はまだ死にたくはない」


 そう声を押し殺して女に詰め寄ると、ようやく彼女は口を閉じた。

 我が身も顧みず、夫を助けようと危険地帯に飛び込んでいく妻。感動的だ、映画や小説の題材にはうってつけだろう。しかし赤ん坊がいる以上、彼女の行動は自己満足的な危険行為に過ぎない。まだ右も左もわからない、言葉すら発せない赤ん坊を巻き込むのはいい考えではないと僕は思う。自分で歩くことも出来ない赤ん坊は、万一母親が死ねば一緒に死ぬしかないからだ。

 おまけに赤ん坊は静かにするよう言っても、言葉を理解できないから黙らない。感染者が出歩く中、一緒に行動したいとはとても思えない二人組だった。


 ふと前方の十字路で何かが動いたような気がして、その場に立ち止まる。手を振って「隠れろ」と指示すると、女は黙って電柱の陰へと移動した。クロスボウを構えてしばらく歩いたが、曲がり角から感染者が姿を現す気配はない。

 気のせいかと思ったその時、十字路に設置されたカーブミラーの中に、曲がり角の向こうをふらつく感染者の後ろ姿が写っているのが見えた。曲がり角の先にいるということもあって、感染者が僕に気づいた気配はない。カーブミラーに僕の姿も映ってしまっているが、そもそも背中を向けているし感染者に鏡を見るという知能は無い。


 この状態ならば、曲がり角を出てすぐにクロスボウを撃てば気づかれずに倒せる。マンションまでは目の前の十字路をまっすぐ進まなければならないが、その時曲がり角の先にいる感染者に気づかれては厄介なことになる。脅威はあらかじめ排除しておくに越したことはない。


 赤ん坊の泣き声が聞こえたのは、ちょうどその時だった。振り返れば泣き喚く赤ん坊と、慌ててそれを宥める女の姿が見えた。

 視界を前に戻すと、カーブミラーの中では感染者が何かに気づいたように周囲を見回している姿が映っている。今まで当てもなく彷徨うだけだった感染者は、どうやら僕らの存在に気づいてしまったらしい。


「マズイ……」


 カーブミラーに映る感染者が、こちらに向かって走り出した。クロスボウから手を離し、代わりにホルダーから斧を引き抜いた直後、目の前の十字路に一体の感染者が勢いよく飛び出してきた。

 その頭に向かって、勢いよく斧を振り下ろす。斧の硬い刃が頭蓋骨を叩き割り、脳味噌と脳漿が噴き出した。頭に穴を開けて倒れた感染者の頭にもう一度斧を振り下ろし、完全に死んだことを確認する。


 赤ん坊は、まだ泣いていた。斧を仕舞ってクロスボウを手にした僕は、「さっさとその子を黙らせろ!」と怒鳴った。


「わかってるわよ! ああもう、何で泣き止んでくれないの……」


 こうして赤ん坊が泣いている間にも、他の感染者がやって来るかもしれない。案の定、すぐに離れた曲がり角から一体の感染者が姿を現した。感染者は僕らの姿を認めると大きく吼え、それからこちらに向かって走り出す。

 赤ん坊の泣き声と感染者の咆哮でとっくに僕らの居場所はバレバレかもしれなかったが、それでもこれ以上大きな音を響かせ続けるのは良くない。移動の度に泣かれていては、防犯ブザーを鳴らしながら動き回るようなものだ。行く先々で感染者に襲われ続けていては、体力も銃弾も保たない。


 クロスボウの矢を装填していると、三体目の感染者が曲がり角から姿を見せた。仕方なく散弾銃に持ち替え、発砲。銃声が周囲に轟いたが、仕方がない。静かに倒そうとする余り矢の装填にこだわっていたのでは、接近されて襲われていただろう。

 続いてもう二体、三体と感染者が姿を現した。幸運なことに纏まって襲ってくるのではなく、一体ずつこちらに向かって来てくれるものだから対処しやすい。連中には連携するなんて知能は無く、自分の欲求に従って人間を襲うことしかできない。



 散弾銃と拳銃を使ってそれらの感染者を倒すと、周囲には再び静寂が戻った。もっとも、赤ん坊の泣き声を除けばだが。銃声に驚いたらしい赤ん坊は、それこそ火のついたような勢いでまたもや泣き喚いている。

 赤ん坊が泣きやまない限り、どこに行っても感染者に襲われるだろう。とりあえず近くにいた感染者は倒したようだが、銃声と泣き声を聞いて遠くからすぐに感染者が殺到してくるに違いない。その前にもここを移動しなければならないが、それにはまず赤ん坊を黙らせなければならない。


 だけど僕には、すっかり女とその赤ん坊を助ける気力がなくなっていた。戦えない上に感染者を呼び寄せる赤ん坊を連れた女と一緒に行動していては、この先命がいくつあっても足りないだろう。何より僕には、彼女たちを助ける義理も義務もない。

 赤ん坊が泣くのは仕方の無いことだとわかっている。実際僕だって、赤ん坊の時はしょっちゅう泣いていたと母が言っていた。

 それに乳飲み子を抱えた女が戦えないことも知っている。しかしこれ以上彼らと行動を共にするのはもうウンザリだった。ここまで彼らを助けたのはあくまでも僕の善意からだが、その善意も無限に湧いてくるわけではない。僕はもう十分努力しただろう。


「もういい。僕はマンションに戻るから、あんたらはどこへでも行ってくれ。もう着いて来るな」

「ちょっと……! シュージはどうなるのよ、あんたなんでさっきからシュージのことについて教えてくれないの!?」

「あの人は死んだよ」


 そう言うと、女はぽかんと口を開けて僕の顔を見つめた。


「何よ……あんたシュージを助けるって言ったじゃない!」

「生憎だけど、僕は誰かのために死ぬくらいなら逃げて生き延びる方を選ぶんでね。最後まで努力はしたさ」


 もっとも彼には、僕が逃げるためのエサになってもらったが。喉まで出かけたその言葉をどうにか飲み込んだ僕は、女に背を向けて歩き出す。赤ん坊はまだ、泣きやむ気配を見せない。

 しかし女は、どうやら僕について来ようとしているらしい。背後から聞こえる足音を無視して足を速めた僕に、「ちょっと待ってよ!」という女の声が住宅街に木霊した。


「ついて来るな!」

「そんなこと言わないでよ、あたしたちはどうすればいいのよ! シュージが死んじゃったのよ、誰に守ってもらえばいいのよ?」

「だったらその子を黙らせろ、でなきゃ僕の後を追ってくるな」

「何よそれ! この子を殺せって言ってるの!? そう簡単に泣き止ませられるんなら、とっくにやってるわよ!」


 女の金切声に、僕のストレスは頂点に達していた。「だったら置いていけ」と顔も見ずに言うと、さらにヒステリー気味な女の声が返ってくる。

 耳を澄ませば再び感染者の咆哮が聞こえ始めていた。今はまだかすかに聞こえる程度だが、すぐに連中は僕らの位置を把握して、まっすぐこちらにやって来るだろう。その前に赤ん坊を黙らせなければ、さっきとは違い大勢の感染者に襲われる羽目になる。


「そんなこと出来るわけないじゃない! この子を置いていくくらいなら、あたしも一緒に死ぬ。あたしはあんたとは違って、そんな残酷な人間じゃない」


 ヒステリックに叫ぶ女に、泣き喚く赤ん坊。どこから現れるかわからない感染者への恐怖。ナオミさんたちと合流しなければという焦燥に、彼女たちは無事だろうかという不安。それらの全てが僕の精神を蝕み始めていた。

 女の心情は理解できる。生き延びるために自分の子供を犠牲にしろと言われ、はいそうですかと従える親はいないだろう。

 しかしここで赤ん坊をどうにかしなければ、感染者は僕らを追ってくる。僕が女に離れるように言っても、彼女は無理矢理ついて来るだろう。そして赤ん坊の泣き声で大勢の感染者が集まり、車で死んだあの男の二の舞になる。


 だが、もう限界だった。頭の中で、何かが切れるぶちりという音を聞いたような気がした。


「――――――じゃあ、死ねよ」


 切れたのは我慢の糸か、それとも理性の糸だったのか。気が付いた時にはそんな言葉が口から出ていた。もうウンザリだ、なんでこんな女のために、僕が命を危険に晒さなきゃならないんだ。そんな怒りと不満が爆発し、衝動に任せてホルスターから拳銃を引き抜く。

 そして振り向きざまに、僕の後を追って来ていた女の足に向かって二回引き金を引いた。一発目は右の太腿に命中し、二発目は左の足首を貫いた。女は何が起きたかわからないとでも言うような顔で僕を見た後、絶叫と共に仰向けに地面に崩れ落ちた。


「いっ……あ"あ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"っ! 痛いっ、痛い~っ!」


 俯せに倒れなかったのは、抱きかかえた赤ん坊を庇うためなのだろうか。とにかくこれで、もう女は僕を追って来れまい。両足に突き刺さった二発の9ミリ弾は、骨を砕き筋肉をそぎ取った。今すぐまともな病院に行って手術を行えば、数か月後には歩けるまでに回復できるかもしれない。しかし当面の間、一人で歩くのは不可能だろう。


「な、んで……」


 殺されると思ったのか、悲鳴と絶え絶えの息の合間にそう呟いた女は、胸に抱いた赤ん坊を抱きしめたままだった。怒りと恐怖を湛えた女の瞳を、僕はじっと見下ろした。赤ん坊はこれからよくないことが起きるとわかっているのか、先程にも増して大きな声で泣き喚いている。


「そんなに死にたいんなら、勝手に死んでくれ。僕を巻き込むな」

「ま、待って。殺さないで――――――」

「殺しはしないよ、僕はね。あんたがついて来ようとするから足を撃った、それだけだ」


 そう言ってから、女が抱いたままの赤ん坊に目を移す。

 赤ん坊を傷つけることは、流石に僕には出来ない。しかしこの先赤ん坊を守って生きていく自信も、僕にはない。僕ら3人で守る対象は愛菜ちゃんだけでいっぱいいっぱいなのに、これ以上護衛対象を増やすわけにはいかなかった。僕は全ての人を守れるような力を持ったヒーローではないのだ。

 それにまだ物心のつかない内にこの世界を去れるのは、目の前の赤ん坊にとっては幸いなことなのかもしれない。こんな残酷な世界を知らずに死ねるのだ、これほど素晴らしいことはないだろう。


「悪いな、僕はまだ死にたくないんだ」


 先ほどから遠吠えのように響いていた感染者の咆哮は、既にかなり近いところから聞こえている。あと数分もすれば、赤ん坊の泣き声に引き寄せられた感染者が地面に倒れた女と赤ん坊を見つけるだろう。これ以上銃声を響かせなければ、僕は追われずに済むかもしれない。


「やだあっ、死にたくないっ! 誰か助けて、誰かぁっ!」


 そうやって助けを呼ぶこと自体が、感染者を招く行為であることに、痛みと恐怖で気づいていないのだろう。気が狂ったように叫ぶ女を背に、僕はマンションに向かう。

 これでいいのだ。もとから僕らにあの一家との縁はなかった。僕らがたまたまこの街にいなければ、この一家は事故を起こした車から逃げ出すことも出来ずに感染者に食われて死んでいただろう。どの道死ぬはずの3人だったのだ、僕らはそれをたった数十分先延ばししたに過ぎない。


 一度だけ振り返ると、女は赤ん坊を脇に抱きかかえ、片手だけをつかって地面を這い僕の後を追おうとしていた。恐るべき執念だが、両足を撃たれた上に赤ん坊を抱えているのではマトモに動くこともできない。自分の身体を筆として地面に真っ赤な血の痕を描きながら女は僕について来ようとしているが、彼女との距離はどんどん開いていくばかりだった。


 ついて来るなと言ったのに、追ってくるとは。トドメをさそうかとも思ったが、止めた。女と赤ん坊には、ここで大騒ぎして感染者の注意を引きつけてもらうという役割がある。この場で身動き出来ない女が悲鳴を上げ、赤ん坊が泣いていれば、それだけマンションに向かうであろう感染者の数も減るからだ。僕らが安全にこの街を脱出するためにも、二人にはもっと叫んでもらわなければ。


 救いを求める女の目は見なかったことにした。僕は二人に背を向け、じきに屠殺場と化すであろうこの場から離れるべく走り出した。

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