第二〇話 腹腹時計のお話

 僕たちがナオミさんと共にマンションで暮らすようになってから二週間近くが経過した。腕の傷はほとんど塞がったが、未だに大量の血を失った影響は残っている。階段を上り下りするだけですぐに息切れするし、腕に強く力を入れれば激痛が走る。ナオミさんは物資の調達と脱出に使えそうなものがないか外に出ているし、結衣と愛菜ちゃんも荷物をまとめたり感染者たちの動きを調べたりと脱出に向けての準備を手伝っている。しかしこの二週間僕だけが何も出来ず、ずっと鬱屈した気持ちを抱えていた。


 結局、愛菜ちゃんに彼女の両親を殺したことを告げる勇気を僕は持ち合わせていなかった。焼き鳥を食ったあの日、ナオミさんはもっとオープンに自分たちのことを語り合おうと言っていたが、最後まで僕は自分の両親だけでなく愛菜ちゃんの両親を殺したことを白状できなかった。

 なぜか? 僕が単に臆病者で、愛菜ちゃんに嘘つきと言われるのが怖かったからか? 人殺しと罵られるのを恐れたからか? あるいは愛菜ちゃんの生きる希望を奪いたくはなかったから? それともその全部?

 わからない。だけど一つ確かに言えるのは、僕に勇気がなかったということだ。ここでは安全に暮らしていける、感染者が襲ってくる恐れもない。だけどその事が、もしかしたら僕を骨抜きにしてしまったのかもしれない。いや、元々骨のある人間ではなかったのかもしれないけど、とにかくここでの生活が僕から何かを抜き去ってしまったことは間違いない。


 腑抜けた、とでも言うべきか。ここに来る前の僕は毎日生き延びることだけを考えていて、他のことに思考を割く余裕なんてなかった。それは結衣や愛菜ちゃんが仲間に加わっても同じだった。

 だけどここに来てからは色々余裕も出てきた。そのこと自体はいい事なのだろう。余裕があるということはゆっくり休めるということだし、落ち着いて物事を考えられる。しかし今まで動きっぱなしだった僕は、この数日で自分の生への執着心が萎えてしまったのかもしれない。


 だって今日の食事は何だろうかとか、暇だから何か本を読もうなんて今まで考えた事すらなかったのだ。まるで数か月前に送っていた日々のような生活。しかし外に出れば再び日常と化した非日常が僕を待ち受けているだろう。

 だが僕はここでの生活を楽しんですらいる。それが僕が腑抜けてしまった一番の原因かもしれない。



 しかしながら僕たちは近い内にこのマンションをを出ることが確定している。そうなればまた僕は以前の自分に戻れるだろう。ヘタレではない自分に。

 今日もナオミさんは感染者に見つからないようにこっそりマンションから抜け出しては、脱出に使えそうな物やルートが無いかを探している。結衣と愛菜ちゃんはいくつもある部屋を回っては物資調達。僕もようやく手が使えるようになったので、武器になりそうなものを整理していた。


 ナオミさんはどこから集めてきたのやら、大量の刃物を所有していた。それこそ肉切り包丁から人間の手足をスパスパ切り落とせそうなグルカナイフと呼ばれる戦闘民族の大型ナイフまで。どうやらマンションの住民の一人に刃物収集家がいたらしく、その部屋には大量に刃物が飾ってあったらしい。こんなマンションに住んでいたのだからかなり裕福な人間なのだろうが、金持ちの趣味はよくわからない。


 床に敷かれた毛布の上に並べられた大量の刃物の中から、斧を一本手に取る。木を切ったりするような大工仕事に用いるのではない、戦闘用の斧トマホークだった。長さは40センチくらいで、刃の部分と柄が一体となり頑丈に造られている。これを人間の頭に叩きつけたら、一撃で輪切りにされたパイナップルのようになる事は間違いない。

 ナオミさんは腕が治った時のことも考え僕に斧を持つように勧めてきた。曰く斧は重量があるので殴るによし、叩き切るによし、ドアなどの障害物を破壊するによし、投げるによしと、近接戦では二番目に使える武器だと言っていた。ちなみに近接戦で最強なのはスコップらしい、理由はよく知らない。

 僕自身は今まで使っていたバットの方がいいと思ったのだが、バットはリーチが長い反面一発で相手を殺すことが難しい。倒すには何度か頭を殴る必要があるし、頭蓋骨は丸いので滑ることだってある。そう考えると斧の方が感染者との接近戦では役立つのかもしれないが、どちらにせよ練習しなければ無用の長物だ。

 他にも鉈やマチェット、動物を楽々解体できそうな大型ナイフが毛布の上には並んでいる。どれも刃は鋭く砥がれ、触れただけで手が切れてしまいそうだ。ナオミさんは銃よりも刃物の方が使いやすいと言っていたが、あの人はいったいどこの戦闘民族出身なんだろう?


 刃物以外にも武器はいろいろある。

 視線を部屋の隅に積まれたビールケースに向ける。ケースに並べられたいくつものビール瓶は透明な液体で満たされているが、その正体はナオミさん特製のガソリンとコールタールを混ぜ、アルミの粉末を混入させた燃料らしい。早い話、火炎瓶だ。民兵組織で戦争に備えてゲリラ戦の方法を教わっていたナオミさんにとって、火炎瓶を作るのは朝飯前らしい。


 外にガソリンの入った車はいくらでも乗り捨ててあるし、ガソリンスタンドも訪れる人がいないので燃料はたっぷり残っているだろう。火炎瓶を作る材料には困らない。

 唯一の問題は殺傷能力が低い事だ。僕は以前感染者が火達磨になりながらも走り続ける様子を見た事がある。炎に包まれた感染者がどれくらいまで生きていられるかはわからないが、即死させるのは無理だろう。


 しかしナオミさんは火炎瓶以外にも投擲武器を持っていた。手榴弾だ。

 どうやら橋で横転していた自衛隊のトラックから回収してきたらしいたった一つの手榴弾は、今の僕たちにとって最大級の威力を持つ武器だった。何しろ本物の武器なのだ、バットやクロスボウとは格が違い過ぎる。どうやら他の武器は自衛隊が撤退していく時にほとんど回収して行ったのか、残されていたのはその手榴弾一つだけだったようだ。

 素人である僕たちの持たせるのは危ないと思ったのか、ナオミさんは手榴弾を常に身に着けていた。もっとも、子供である愛菜ちゃんですら手榴弾をおもちゃ代わりにはしないだろうけど。


 こうして考えてみると結構武器があるように思える。だがそれを扱う人間が問題だ。小学生の愛菜ちゃんは論外、結衣だってまともに戦えるかどうかすら怪しい。必然的に戦う人間は僕とナオミさんだけになるけど、僕はまだまだ怪我の後遺症が残っている。たとえ完治したところで、せいぜい自分の身を守るので精いっぱいだろう。ナオミさんは一人で十人分くらいの働きはしてくれるらしいから、頼りにはなるが。


 なので僕らは今までやってきたように、可能な限り戦いを避けなければならない。それはこのマンションを脱出する時も同じだ。もしも感染者に見つかったら、戦えない人間から食われていく。

 感染者がマンションの周りを屯する中、どうやって連中に見つからずにここから逃げ出すか。それが目下のところ僕らの頭を悩ませていることだった。自殺覚悟で強行突破なんて真似、最初から選択肢にはない。重要なのは全員でここから脱出し、安全な場所まで行くこと。それだけだ。


 時計を見ると既に時刻は三時を回っている。そろそろナオミさんが戻ってくる頃だろう。果たしてナオミさんは脱出手段を見つけることが出来たのだろうか? そう思いつつ、僕は皆が集まる部屋へと移動すべく立ち上がった。

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